4, 女神に選ばれる、その意味

「まずは私が捨てられたはずのこの地で何故たった一人暮らしているかについて話しておきましょう」

先程と同じ入りでユウは語り始める。

「今の隠れ里に住む人々、つまり山を降りてもなお地導と共に生きる道を選んだ人々はしかし、山から離れたことで地導に選ばれるための場、つまり試しの泉からも離れて暮らすことになってしまいました。女神の住む世界と我々の世界を繋ぐ扉とされている七色の熱水泉は一年に一度だけ、この山のどこかに突如として出現します。泉は文字通り神出鬼没で、いつどこに現れるかは全く定まっておらず、常に山と共に暮らして来た里の者達でないとそれを見つけることは不可能です。その為我々は山を離れた後里の大人から一人だけ一年間山に籠り、泉を発見すればそれを里に知らせる、いわば『目付け役』のような人間を毎年選ぶことになったのです。そして私は今年の目付け役に選ばれ、こうしてこの地で暮らしている、という訳です。しかし、シャル君の存在が分かった以上、私の役目はこれでもう終わりになるでしょう」

「それは何故ですか?」

ユウはそっと彼の横に座るシャルに手を差し伸べた。

「シャル君が地導に選ばれたからです。セシムさん、あなたが試しの儀に臨んだ際泉は東ノ国側の山腹に出現した。そうですよね?」

「はい」

「トルク翁が伝えているかどうかは分からないのですが、我々の長い歴史の中で、山の東側に泉が出現したことは一度たりともありませんでした。あなたが地導に選ばれた、あの年を除いては」

ユウは続ける。

「あの年は泉が中々出現せず、そして最後の出現からあと数か月で一年という月日が経った頃、その年の目付け役が一縷の望みをかけて東側の山腹にまで出向き探索したところ、偶然に泉を発見しました。それを知ったトルク翁は『これはもしかしたら里の人間以外の者が女神に選ばれる、その前兆かもしれない』と考え、長老達の許可の下、彼が指揮する帝の腕達に自身の出自と地導の力を明かし、そして唯一儀式に臨んだセシムさんが女神に選ばれた。そのすぐ後に試しの泉はその色を失い、ただの熱水泉に戻ったと、そうトルク翁から聞いています。故にあの年、我々の里から地導を得た人間は誰一人としていませんでした」

そこでユウはシャルを指していた腕を引き、代わりに人差し指をぴん、と立てる。

「ただ、里から誰も女神に選ばれなかった、という事態は数年前に一度起きていました。その年の目付け役が泉を発見し、子供達を連れていざ山を訪れた時、その泉は忽然と消えていたのです。この異常に里の者達は女神の罰が再び起こる前触れなのではないかと危惧しましたが、特にそのようなことは起きず、ただ儀式を行う前に泉が消えた故は何一つ明らかにならなかった、そんなことがあったのです。ですが、あの若い灰の風、あれに宿ったものを知り、私は確信しました」

「泉が消えたその年、タルシュが密かに泉に触れていた、ということですか?」

口を挟んだシャルに対し、ユウは大きくゆっくりと頷く。

「そうでなければあの事象は説明がつかない。セシムさん唯一人に地導を授けたあの年と同じように、女神はタルシュというあの火種だけを選んだのだろう。我々のあずかり知らぬところで泉に触れる機会があるとすれば、それしか考えられない。そしてそれはセシムさんの危惧しているように、とても厄介なことに他ならない」

そこでユウはため息をつき小さく項垂れる。

「一度地導に選ばれ、岩石の如き肉体を得れば、尋常の術では傷つけることすら叶わない。その力が殺しの達人である灰の風、しかもその頭領に渡ってしまった。これは由々しき事態だ。おまけにチェナの話ではそのタルシュという女は地導の力そのものだけでなく地導と里の関係や、我々の定める掟についてまで知り得ている。何としてでも彼らを止めなければ今度は東ノ国、西ノ国だけでなく我らの故郷まで彼らの支配に置かれることになるかもしれない…」

『…』

沈黙が皆を包む。互いに立場が違おうとも、それぞれが考えていることは一緒であった。それは、これから起ころうとしている事の重大さと、それを止める為には大きな壁がいくつも存在している、ということだ。

「あの…」

その沈黙を破ったのは、シャルだった。

「炎槌が起こるのは最後の掟を破った時、つまり地導使いを殺さなければいいんですよね?何とか生かして無力化する方法があればタルシュ達を止めることが出来るんじゃないんですか?」

「…それは君の言う通りだね。地導使いとて、地導を纏っていない間はただの真人間であることに変わりはない。例えば君は全身から熱水に落ちても無事だったようだが、地導使いがその灼熱に耐えられるのは女神に選ばれる、ただその時のみだ。女神に選ばれたからと言って素手で火に触れられるようになるとか、そんな力までは備わらない」

「それならやりようは…」

「忘れたの?敵は灰の風一つだけじゃないのよ。もし西ノ国が奴らを捉えられなかったら、その時は西ノ国の戦力がそのまま立ちはだかって来るかもしれないの。そうなればもうあの二人を倒すなんてことはまず出来なくなるわ…」

そう言うチェナの声もシャルと同じようにどこか力ないものだった。敵が強大過ぎる。セシムからその事実を知ってしまった二人の心には小さな、しかしはっきりとした揺らぎが出来てしまっていた。

「君の意気込みは有難い限りだ。しかし私も含め今の我々に出来ることは無い。今はここでしばしの休息を取り、里までの旅路に備えるのが最良だ」

「セシムさんの言う通りです。先ずは休むのが先決だ。ただ、その為にはここを奇麗にしなくちゃね。さぁ、二人とも立った立った!」

そんな気持ちを感じ取った大人達の言葉に若い二人は従い、埃っぽい、冷たい床から腰を上げた。


「はぁ…」

肩まで温かい湯に浸かり、シャルは一つ息を吐く。シャル達が話していた建物(ユウ曰く、この建物はシャルが想像していた通りかつては里の重要事を決める集会所として機能していたらしい)の掃除に付き合わされた後、キオは旅の疲れを癒す為にユウに案内してもらった湧き湯に入っていた。ケハノ村と同様に里の周囲では地熱により温められた地下水が湧き出ている箇所があり、ここを捨てるまでは里の人間もこれを利用していたらしい。

(俺のご先祖様は、昔ここに住んでいたのか。ケハノ村の湯場もここに住んでいた時の知識や経験が生かされているんだろうな…)

月の浮かぶ夜空をぼんやりと眺めながら、シャルはかつての地導の隠れ里に思いをはせていた。地導使いの掟と、それを破ったハル、という人物。ケハノ村の正体。村に住んでいれば触れることはまず無かったであろう情報の渦に飲まれ、シャルは久方ぶりに温かい湯に入れたというのにいまいちここまでの疲れを癒すことが出来ずにいた。それに

(行商の皆さんは無事だろうか…)

これまで旅をしてきた行商達とも思わぬかたちで別れることになってしまった。ちょっとおせっかいだが明るくて気持ちの良い人だったシイ。得意げに美味い料理を振舞ってくれたムツイ。未熟だがしっかりとした目標を持ち、仕事も真面目にこなしていたヤイノ。そして自身の暗い過去を明かし、シャルを勇気づけてくれたゴウ。短い間だったが、シャルは彼らとの旅が好きだった。

「はぁ…」

再び、今度はより大きなため息をシャルは吐く。ケハノ村を脱出してから自分は誰かに守られてばかりだ。こんな自分が、それこそかつてのハルのような影響力を秘めるというのだろうか。だが、そんな状況を改めようとも、自分に出来ることは何も無く、ただチェナ達についていくだけだ。そんな疑念と焦りが、ただでさえ多量の情報で破裂しそうなシャルの頭にどんどん浮かんでくる。

「失礼する」

そんな風に悶々としていたせいで背後から聞こえたその声に反応するのが遅れた。見ると、セシムがゆっくりと湯に浸かろうとしていた。鎧を外した彼のその体は無駄な脂肪が一切無い程筋骨隆々に鍛え上げられており、その強靭な体のあちこちに大小様々な古傷が刻まれていた。

「あぁ…いい湯だ…」

心地良い温もりに包まれ、セシムは思わず表情を和らげ深い吐息と共にそんな言葉を漏らす。今までセシムが纏っていた気迫も、この時だけは黒い鎧と共に完全に脱ぎ捨てられていた。そうして暫く、そこにシャルが居ることなど気にも留めずに湯浴みをしていたセシムだったが、唐突に

「君はケハノの人間なのだろう?」

とシャルに問いかける。

「え、あ、はい、そうです」

「そうか。実を言うと私はケハノの湯というものに一度も入ったことがなくてな。あの地に住んでいたということは何時でもこんな湯に浸かれるということだろう?羨ましい限りだ…」

くしゃっと微笑みながらそう話すセシムを見て、シャルは初めて彼に親しみを抱いた。いつも眉間に皺を寄せて小難しい顔をしてばかりの彼がこんな子供のような笑顔を浮かべるとは思わなかった。

「そうでもないですよ。仕事で忙しなく湯場にいると、たまに湯なんて入るどころか見たくもなくなる時もありますし」

「そうか。まぁ、仕事というのはそういうものだな」

「でも、そんな湯場も村も奪われてしまいました…」

村の光景を思い出して目頭が熱くなったシャルはそれを誤魔化すかのように静かに手で湯を掬い顔にかける。もう十分に涙は流した。これ以上の泣き顔を晒す訳にはいかない。

「本当にすまない。私の弟が馬鹿なことを考えなければこんなことには…」

セシムの表情からも笑みが消え、代わりにいつもの皺が眉間に現れ始める。

「そういえば何故セシムさんは里に向かうことになったのですか?」

ただ単にユウ自身が忘れていただけなのか、先程の会話の中では結局セシム自身について触れられることは無かった。自分の故郷についての言及を避けさせる為、加えてセシムの皺がこれ以上深くならない為にもシャルは彼に問うた。

「そうか。そのことについては話していなかったな。私自身すっかり忘れていたよ」

そうしてセシムはシャルの疑問について語ってくれた。

「私がここにいるのは私達を救ってくれたユウさんの願い出だ。私が目を覚ました時、ちょうどハイラの山に入る直前の林道であった。ユウさんはそんな私に対し、自分は私の師匠と同じ地の出身であると告げた上で共に来ることを提案してきた。目覚めた私は直ぐに仲間と合流し弟達の跡を追いたかったのだが、馬を駄目にされた以上それは叶わなかった上に打ち込まれた毒矢には痺れ薬の類が含まれていたのか、暫くは体を満足に動かすことが出来なかった」

顔をしかめながら、セシムはゼラから受けた矢が刺さった箇所を擦る。

「そういう訳で私はユウさんの提案を受け入れ、ここにいる。だが今思えば大人しくついてきて良かった。君達と共にいれば帝の腕という身分を隠して西ノ国に入ることが出来る。それに地導の隠れ里に訪れることは私の師の願いでもあったからな。そのことと私の身の上を知った上でユウさんもそのような提案をしてきたのだろう」

「あなたの師匠、ですか?」

「そうだ。私の師は東ノ国の軍部重臣、トルクだ」

「軍部重臣から直接の師事を…!?」

東ノ国の軍部重臣、トルク。情報にいまいち疎いシャルでもその存在は知っている。交易や農政と言った東ノ国の政を司る重臣の中で数少ない、平民出身の一兵から出世し、その実力をケルレン帝に認められ重臣にまで成り上がった人物だ。齢は既に七十を超えているが、それでもなお剣の実力で彼に比肩する者はいないという。そんな人間に師事を受けているとなればシャルが目を丸くするのも道理だ。

「まぁな」

しかしそんなシャルに対し得意げな様を見せることもなくセシムは続ける。

「師が自分の出自とその身に宿る力を私達に教える為に小刀で自分を突いた時、私は自分の目を疑ったよ。私達が止めるよりも早く師の胸に触れたその小刀はその瞬間に根元からぽきりと折れたのだからな。このような奇跡の力がこの地に存在しているというだけでも信じられんことだと言うのに、その力に私自身が選ばれるなどとは…」

「あの、セシムさん」

そこでシャルはセシムの言葉を遮る。

「どうした?」

「セシムさんが地導の力を得た時、あなたの師匠、つまりトルク軍部重臣はセシムさんが何故女神に選ばれたのか、みたいなことを仰ってはいませんでしたか?」

「私が女神に選ばれた理由、ということか?ふむ、特にそのようなことに言及はしていなかったが、何故だ?」

「灰の風二人に連れ去られた時、あのタルシュという女に言われたんです。『女神に選ばれるということは自分の心に大義を持つことが出来るかどうかだ』って。だから、もしかしたらセシムさんも同じことを伝えられているかと思いまして」

「なるほどな…」

タルシュから教えられた「資格」。それを聞いたセシムは顎に指を当て、何か考えている仕草を見せる。

「君も知っての通り、私は師の故郷の人間ではない。それに実を言うと泉に触れたのは半年も前だが、実際に地導が使えるようになったのはごく最近でな。故にこの力についての仔細はまだ私も把握してはいないんだ」

「そうですか…」

「だが泉に触れ、その手が焼け爛れることなく儀式を終えた私に対し師はこのような言葉を与えてくれた。『お前が秘める愛国心と、それを貫き通さんとする芯の強さが女神にも認められたのだ。お前にこれから授けられんとする力はそれをより強固にしてくれるだろう。だからこそ、慢心などせず、心の内でただ誇れ』、と。だから形はどうあれ、不純の無い精神を持ち続けられる強さが『資格』と言えるのかもしれん。その意味では火種の言う事もあながち間違いではないのかもしれないな」

「心の強さ…」

そう言われ、シャルは無意識に自分の胸に手を当てる。

「でも正直、俺にそんな強さが本当にあるか疑問なんです。家族と故郷を奪われた心の傷はまだ癒えていなくて、そのせいで何度も心折れそうになって、でも何とかここまで来られたのはチェナや、色々な人達の支えがあったからです。俺は今まで誰かに助けられてばっかりで、何も返すことが出来ていない…」

「ならば、それを自覚出来ていることが君の強さではないか?」

「…え?」

顔を上げると、セシムが少し真剣な眼差しでシャルの目をじっと見つめている。それから放たれる光はいつも通り、狼のそれと似た鋭いものであったが、そこに威圧感は無く、むしろシャルを勇気づけるような温かさがあった。

「謝恩の為に腐心する、というのは美しいが同時にとても難しいものだ。人間辛い時、誰しもどうしても自分が可愛く思えてしまうものだからな。しかし君はここに来るまで数多の悲しみを重ねて来ただろうにもかかわらず、降りかかる理不尽を嘆くのではなく、自分が世話になった人々に何も恩を返すことが出来ていないことに嘆いている。きっとそれが君の強さなのだろう。私はそう思うよ」

「そんな、俺は…」

しかしシャルが言い終えるよりも早くセシムはゆっくりと立ち上がり

「あぁ、良い湯だった。私は先にあがることにするよ。一人風呂を邪魔してすまなかったな」

と告げ、そそくさと湯から出て行ってしまう。残されたシャルは逞しいその背が暗闇に消えるまでぼーっとセシムの姿を眺めていたがやがてぎゅっと両目を強く瞑ると思いっきり湯に頭を沈めた。

(ありがとう、セシムさん。ここまで出会った人皆、強くて優しい人ばかりだ…。俺も、そんな風になれるのかな…。いや、ならなくちゃ駄目だ。じゃないと、きっと俺は何も果たせない…)

そう誓った後、シャルは勢いよく湯から顔を上げ、濡れた前髪をそっとかき分けながら先程よりもずっと強い眼差しで夜空を見上げた。暫く空を眺めていたシャルだったが、

「うん?」

ほんの一瞬だけ湯から漂う湯気が濃くなった気がして視線を下ろす。その瞬間、暗闇からバサッという音と共に布のような何かがシャルの全身に勢いよく跳びかかって来た。その突然の出来事にシャルは体勢を崩し、派手に飛沫を立てながら湯に尻もちをついてしまう。

「これは…!」

顔にかかった湯を払いながら、シャルはその正体を確かめる。それはゼラに引きずられたせいで失くしてしまった、ゴウに貰った青い上衣であった。既に山にいるシャルのもとに、草原で失くしたはずのこの上衣が届くなど、誰かが意図して拾いここまで届けようとしない限りあり得ない。急いでシャルは周りを見渡すが、特に人影やそれらしき気配は一切無い。

「まさか、群青の軽業師が…?」

そう呟きながらシャルは湯に触れて大部分が濡れてしまった上衣を月明かりに照らす。その動きに合わせて、上衣の中にあった拳大程の石が転がり落ち、ポチャンと湯の中に落ちる。上衣は初めて身に纏った時と異なり行商達との旅の間に汚れ、かつてのような艶やかさはかなり失われている。だが月明かりに浮かび上がったそれを見た時、シャルはそんな汚れなどどうでも良くなる程の衝撃を受けた。よく見ると上衣の端には金色の糸で文字の刺繍が施されており、そこにはこんな文章が記されていたのだ。


私はハル

この青い衣が、地導の使者にとっての真の温もりと道しるべになることを祈って

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