6, 内なる悪意

彼らの言う通り、シユウはシャル達の前に辿り着くとやはり二人に斬りかかることなどなく静かに馬から降りた。

「待たせたな」

シャルはその様を引きつった顔で見ていた。つい先ほどまで自分達を守る為に勇猛果敢に戦っていた男が、さも当然かのようにその敵達に話しかけている。彼にはそれが信じがたいものであった。

「訳が分からないだろう?」

にやりと笑いながらシユウはシャルを見る。手に握る大槍だけでなく、彼の身に着ける鎧や彼自身の顔にも戦闘で浴びた返り血がべっとりとついている。それを見てシャルはますます混乱した。彼が裏切り者として灰の風と手を組んだならば、何故仲間を殺すようなことをしていたのだろうか。

「おいゼラ、本当にこいつを連れてゆくつもりか?選ばれた者はもう既に頂いた。今から二人目を送るのは骨が折れるぞ」

「こいつには俺達の仲間としてこれから働いてもらう為に攫ってきた。お前の為ではない」

「ほう。ではこいつもか…。やはり昨晩のあの話は本当だったようだな」

なるほど…といった表情でシユウはシャルの顔を覗き込む。彼の身体に付いた血と金属の臭いがその動きに伴ってキオの鼻をつく。その臭いで以前見た盗賊達の亡骸を思い出し、シャルは更に嫌悪感を強めた。

「何故、帝の腕であるあなたが…?」

「悪いな小僧。今は説明している暇は無い。だがこれだけは言っておこう。俺はこの大地をより良くするべくこいつらと手を組み、東ノ国だけでなく西ノ国を落とすことを決めた。これは決して裏切りではない。成すべきを成す為の必要な選択だ」

「どうして…!」

シャルはそれしか言えなかった。それはタルシュが地導使いであること、シユウが灰の風と手を組んでいたこと。それらに対する疑問だけではない。滅多打ちにされ、拘束され、そして何も出来ずに地面に転がる自分の無力感に打ちひしがれていたからだ。

「そういう訳だ。お前がこれから歩む道は何も絶望に満ちているわけでは無い。私達と共に行けば必ずこの大地は人々の喜びに満ちたものになる。それが果たされれば死んだお前の家族や仲間も報われるだろう」

タルシュの諭すような口調に、シャルは再び怒りがこみ上げる。

「どの口が…!」

「今は私達が憎くとも、いずれお前は自分から仲間になると首を縦に振る時が来る。だから今は大人しく私達についてこい」

最後にそう言い残すとタルシュは馬に跨り、ゼラもそれに続く。だがその瞬間、

「チッ、遅かったか」

とシユウが舌打ちをした。それを聞いた二人は馬に乗ったまま後ろを向く。シャルもその方向を見て、今度こそ心の底から安堵した。

「チェナ…!」

優しい栗毛色の馬を駆りこちらに向かってくる華奢な人影はチェナに間違いが無かった。それに加え、彼女の背後にはもう一人、黄土色の髪をした帝の腕が同じように馬上で刀を抜いている男が向かってきていた。

「兄貴…!」

シユウが一転、苦虫を嚙み潰したような顔をした。どうやらチャナはともかく、背後の男は彼にとって出会いたくはない存在であるらしい。

「お前の過ちだ、緑目。お前が対処しろ」

シユウとは対照的に変わらず淡々としたゼラはシユウに応戦するよう冷たい声で促した。シユウは小さくため息をつくと

「ナチ、お前は見ているはずだ。頼んだぞ」

と呟き、大槍を構える。それと同時に

「ゼラ、私も残ろう。私は女のほうをやる」

と告げたタルシュは馬から降りると懐から短刀を取り出した。その腕にもまた、螺旋模様の刺青が彫られていたが、彼女のそれは他の灰の風とは大きく異なり真紅で彩られたとても鮮やかなものだった。

「止せ、タルシュ!!あの女は地導使いだ!教えを忘れた訳ではあるまいな!?」

タルシュも臨戦態勢を取った時、シユウがそうした時とは違い、ゼラは血相を変えて彼女を止める。それはまるで、地導使い同士が戦うのを避けようとしているかのようだった。

「落ち着けゼラ。あの程度の女に私は遅れを取ったりなどしない。それに…分かるだろう?」

短刀を指で撫でながら、タルシュはゼラを一瞥する。それだけで通ずるものがあるのか、ゼラはシャルやシユウに分からぬようににやりと笑うと

「そうだな。任せよう」

と短く告げ縄で縛ったシャルを担ぎ上げ、馬の背に載せる。

(畜生…!畜生…!)

なすがままにされるしかないシャルは強い無力感を抱きながら唇を噛み締める。

「助力感謝する。『火種』の実力、見せてもらおうか?」

馬が駆ける音を背にしながら、シユウは横に並び立ったタルシュを煽る。タルシュは外套の頭巾を被り、目元を隠す。それはまるでシユウを拒絶するかのようで、その意思表示は言葉にも表れていた。

「馴れ馴れしくするな。お前と私達は利害が一致しているだけの仲。私達は裏切者などを信用しない」

シユウの言葉を突っぱねたタルシュは、口調こそゼラと話している時と変わらないものの、その声色には明らかに軽蔑の感情があった。

「…そうかよ。ま、いい」

それを感じ取ったのか、シユウは再び槍を構え、向かって来る二名を見据えた。


シユウを見送った数分後、チェナはいつ敵がこちらに向かってきてもいいように短弓の代わりに刀を構え、帝の腕と灰の風の戦いをじっと見つけていた。彼女の背後では行商達が必死にシイの手当を続けている。

(あれは皆「墨入れ」…。「火種」は混じっていない。それなら今シャルを攫っていった奴らがきっと…)

戦いは帝の腕達が明らかに優勢だった。シユウが抜けたとはいえ、帝の腕はその一人一人が選りすぐりの精鋭だ。正面からの斬り合いで渡り合える人間は数少ない。しかしそれ以上に灰の風達の動きはどこか緩慢で動きの間一つ一つに隙があった。素人目ならまず分からないような、そんな僅かなものではあったが彼らを「墨入れ」と判断したチェナの目は、その僅かな隙をしっかりと見極めていた。そしてそれは帝の腕達も同様であるようで、灰の風達は短刀を弾かれそこに一撃を入れられたり、無理に隠し持った戦斧や槌を振りかぶり、そこを突かれたりして次、また次に倒されていった。

(奴らのどちらかが「火種」だとしたら、こんな機会はもう二度と来ないかもしれない…)

チェナは刀を強く握り、シユウの後を追いたい気持ちをぐっと堪えていた。持っていた刀を折られた後、チェナはその後に出会った帝の腕から刀を一本与えてもらっていた。だが彼女の素早い身のこなしを保つために軽く作られていた前の刀とは異なり、与えられた刀は重く、また彼女の体躯にとっては少し刀身が長かった。その違和感が彼女の焦りを加速させる。その時、

「チェナ、お前も行くんだ。シャルを助けてやれ」

急にチェナの横に剣を持ったゴウが並んだ。その目には怒りと、そして決意の炎がらんらんと灯っている。

「ここは俺に任せろ。お前はお前の家族を救え。俺は俺の家族を守る」

「でも…」

「お願い…チェナ、行って…!」

チェナが何か言う前に、二人の後ろから弱弱しい声でシイが叫んだ。

「シイさん、動かないで!傷が広がっちゃいます!」

布が固く巻かれた腿からはまだ出血が続いているようで、巻かれた布がゆっくりと赤く滲んでゆく。その痛みをこらえ、シイはヤイノの言葉を無視して体を持ち上げる。

「このままじゃシャルは、あなたの弟はきっとあなたの手の届かないところにいっちゃう。私、分かるの…!」

「動くな、シイ!」

しかしシイはムツイの声をも無視し続ける。

「あの人達は、灰の風は…いつも皆の大切なものを奪っていく…。私もそうだった…だから、だから、行ってチャナ…!どうか、私達みたいにならないで…!家族を奪われないで…!」

「シイ!!」

「私達のことは気にしないで…。親分は、ううん、私の父さん、滅茶苦茶強いんだから…。チェナ。あなたはあなたの家族を助けてあげて…うぅ…!」

そこで強い痛みが走ったのか、シイは苦しそうな声で患部を抑える。それを見たゴウはかっと目を見開き

「行け、チャナ!!」

と彼女を激励する。

「…はい!」

それに応えるかのように、何かを悟ったチェナは踵を返して最後尾の荷車の傍にいたスイに駆け寄る。

「行こう、スイ。取り戻せなくてもいい、シャルを助けられるのならそれが私の…!」

だがスイに乗ろうとしたその時、チェナは背後の丘から一人の男が近づいてきたのを認めた。それはどうやら帝の腕のようで、馬に乗り、黄土色の髪をしていた。

「我が弟を追うのか?」

その男は馬上からチェナに話しかける。

「あなたは…?」

「私の名はセシム。火槍の音を聞き、援軍に駆け付けた。先程私は我が弟シユウが戦いを抜け出し、灰の風達を追って行ったのを確かめた」

「あなたの弟さん…。シユウという方ですか?」

チャナはこのセシムという男とシユウが同じ髪色をしていること。何より一人で灰の風を追って行ったのがシユウであったためそう訊ねた。

「そうだ。…何故だか分からぬが妙に胸騒ぎがするのだ。このまま弟を放っておくわけにはいかないとな。だからこれから私は弟を、シユウを追う。君もか?」

それを聞いたチェナの表情が明るくなる。帝の腕が共に来てくれるというのなら、こんなに頼もしいことは無い。

「はい。あなたの弟さんが追った者達は私の…えっと、そう、弟を連れ去っていったんです。だから…」

「なるほど…。ならば急ぐとしよう」

「はい!」


そして二人はシユウを追い、数分程馬を走らせ、そして四つの人影を発見した。二人が捕らえた者達、それは外套を纏った二名とその足元に転がる一人の青年。そしてそれらの横に立つ大男であった。その大男がシユウだと分かった二人は思わず足を止める。

「あれは、シユウさん…?」

「あ、あぁそうだ、間違いない。あのような巨漢はこの国にはいない。だがあいつ、一体何をやっている…?」

外套の二人は間違いなくシャルを攫った灰の風だ。そしてその足元にいるのもシャルで間違いないだろう。なのに何故、シユウは敵前であのように佇んでいるのだろうか。

「セシムさん…。ご存知だと思いますが、灰の風は薬学に長け、人を意のままに操る毒を用いて自分達の戦力とします。まさか、あなたの弟さんは…」

「……」

セシムは何も言わずに丘の下にいる4名をじっと見つめる。

「だとしても妙だ」

「え?」

「あそこの者達には争った形跡がない。薬を使われたにせよ、一切の抵抗も無く心を操られる訳がない」

そしてセシムは眉間にぐっと皺を寄せると静かに刀を抜いた。

「我が弟がどうあれあそこにいるのは灰の風。我が国の敵となる存在は排除しなければならない。…そういえば名を聞いていなかったな。君、名前は何というんだ?」

「チェナ、と言います」

「そうか。見たところ、その若さの割に合わぬ程の佇まいだが…。共に来るか?」

チェナは言葉でそれには答えず、顎をぐっと引き先の敵を見据えると、自分も刀をゆっくりと引き抜いた。

「頼もしいな。では、行くぞ!」

二人は互いの馬の腹を蹴り、敵に突進してゆく。動き出して直ぐ、向こうもこちらに気付いたようで、シユウは槍を構え、数秒前に馬に乗った灰の風のほうも一人が降り、こちらに対峙する。

「シユウめ、一体どうした!?」

弟に槍を向けられ、セシムはついそう漏らす。一方チェナのほうはシユウなど既に眼中になく、その鋭い目で対峙する灰の風を見つめた。灰の風が短刀を取り出す。その腕には真紅の刺青が彫られている。それを見た途端、チェナの全身に鳥肌が立った。

(『火種』…!遂に見つけた…!)

「セシムさん!私が灰の風をやります!」

風の音に負けぬよう、チェナは叫ぶ。

「分かった!私はシユウを!」

セシムがそう叫んだ瞬間、敵側にも動きがあった。灰の風のほうが姿勢を落とすとその体勢から強く踏み込み、チェナのほうに向かって勢いよく駆け出して来たのだ。

(好都合…!)

チェナはセシムから少し離れると共に、手綱を引きスイの速度を少し落とした。一方タルシュは変わらずの速度でスイに突進してゆく。二名の距離が後五、六歩程の距離になった時、それは起こった。

「え…」

タルシュは地面を強く蹴り、何と馬に乗るチェナの顔の高さまで一気に跳躍してきたのだ。先程灰の風が帝の腕に行ったものと動きは似ているものの、前者が馬の速度を活かした跳躍であったのに対し、こちらは己の身一つで同じ距離、高さを跳んだのだ。

チェナが一瞬怯んだのもつかの間、タルシュは空中で両足を折り畳み、飛び蹴りをチェナに叩きこもうとする。スイを止めている暇は無い。防御以外の選択肢は無かった。チェナは手綱を離すと同時に刀を握ったまま顔の前で二の腕を交差させ防御の姿勢を取る。更にそれに地導を纏わせ、より強固なものにした。だが、チェナが腕に地導を纏うと同時に、今まさに蹴りを入れようとする灰の風の足裏にも同じような揺らぎが纏っているのが分かった。

(地導!?それじゃ、これは「穿禽」!?不味い…!)

だが、時すでに遅し。地導を纏った彼女の腕に、同じく地導を纏ったタルシュの蹴りが勢いよく叩き込まれる。

「……!!!!」

瞬間、キーン、という甲高い音と共に激しい頭痛がチェナの頭を駆け巡った。その痛みをこらえようとチェナはつい両手で頭を強く抑えてしまう。そしてそれが災いし、チェナは頭を押さえたままスイから落馬してしまった。

「ぐうっ…!」

その痛みのせいでチェナはいつかのシャルのように落馬の衝撃を硬化により和らげることが出来なかった。左肩から落ち、痺れるような痛みが全身を襲う。キーンという耳鳴りのような音が頭の中を駆け巡り、変わらず頭が割れるように痛い。だが、それに悶えている場合ではない。チェナは頭を押さえたままふらふらと立ち上がる。

(「雷罰」まで…。何故、何故なの!?)

頭痛のせいで鈍っていた五感が次第に戻って来た。ぼやけた視界の先には、チェナと同じように、タルシュがよろよろとした足取りで立ち上がろうとしていた。チャナが「雷罰」と呼んだ激しい頭痛。それはチェナだけでなくタルシュにも襲い掛かったようで、タルシュは痛みにより空中で体勢を崩し、そのまま地面に落下したようだ。落下の衝撃で頭巾も外れてしまい、その顔が露わになっていたが、彼女は気にせず苦しそうに頭を押さえ、

「何だ、これは…?こんなもの、教えには無かったぞ…」

と呟いている。その隙にチェナが先に立ち上がり、近くに転がった刀を片手で拾うと同時にもう片方の手の拳をぐっと握った。だが、どれだけ意識を集中させようともその拳に地導が現れることは無かった。

(これで私は地導が使えない…)

その事実を忘れようとするかのように、チェナは刀の柄を両手で強く握り、切っ先を既に立ち上がったタルシュに向ける。タルシュも痛みから解放されてきたようで、しっかりと大地を踏みしめている。そんなタルシュに向かって、チェナは先手必勝とばかりに斬りかかる。それに対しタルシュは短刀で応戦…するのではなく、シャルにしたように共に響き合う徴を組み、チェナに向けた。だが、徴を向けられてもチェナの身体からは地導は現れず、それに伴う硬直も発生しない。また、それと同時に自身からも地導が顕現しないことにタルシュは気付く。

「何だとっ…!」

その間にチェナは一気に彼女の間合いまで詰めていた。タルシュは徴を解き、短刀を抜いてすんでのところでチェナの一撃を受け止める。

「共に響き合う徴にさっきの技…。あんた、一体どうやって地導を身に着けた…?」

「…ふむ」

チェナの刀を軽く弾きつつ、タルシュは後方に飛び退く。一方のチェナは慣れない刀の重みのせいで弾かれた際に少しよろけてしまう。

「地導が使えない…か。地導使い同士の争い、それに対する罰は少々過剰ではないかと常々思っていたが…、なるほど、こんな“縛り”もあったのだな」

「あんた、地導についてどこまで知っているの!?」

再度刀を向けながら、チェナはタルシュに問いかける。里の人間以外、しかもよりによって灰の風、その頭領が地導を使える。更に不味いことに自身の戦闘の拠り所であるその地導までも封印されてしまい、チェナはひどく焦っていた。地導が使えない以上、頼りに出来るのは己の武術のみだ。しかし、それで眼前の敵に敵うのか…。

「里の地導使いよ、聞け」

彼女の問いには答えず、チェナとは対照的に短刀を指でくるくると回しながら、余裕綽々といった様子でタルシュはチェナに語り掛ける。タルシュは既に分かっていた。互いに地導が使えない以上、ここからの戦いは己の技量に左右される。そして自身とチェナのそれを比べ、自分のほうが勝っているということに。

「お前は若い故にお前の里の暗部を知らんだろう。折角数少ない地導使い同士が出会えたのだ、お前の疑問に答えるついでにそれを教えてやる」

「里の暗部ですって…?」

「そうだ。私の目を見ろ」

タルシュは回していた短刀を止め、その切っ先で自身の瞳を指し示した。

「この紫の瞳。これは我らが故郷、シンラのある砂の平野(ルマラ・ファルサ)の民の証だ。かつて砂の平野の民とお前達緑色の瞳を持つ草の平野(ルマラ・アラファス)の民は共に生き、そして地導についても紫の瞳の者と緑の瞳の者、その両方が儀式に望んでいた。しかしある時、お前達草の平野の民は自分達が住まうところに神の山であるハイラ山脈があることをいいことにある時から私達遠方の砂の平野の民を迫害し、そして地導の力を独占した。その為に我々砂の平野の民は徐々に矮小し、挙句憎き西ノ国に我らが国は征服された…」

「それは違う!」

タルシュの言葉をチェナが遮る。

「それは間違った歴史よ。あんたの言う通り、昔は砂の平野、そして草ノ大陸と海ノ大陸、あんたたちは二つの大陸を合わせて草の平野と呼ぶんでしょうけど、二つの民は共に地導に選ばれていた。でもある時から砂の平野の民達は地導を戦いと侵略の為に使うようになった。だからそれを見兼ねた草の平野の人間があんた達を地導とオリス山脈を遠ざけたのよ」

「それこそ誤った歴史だ!お前達里の人間が己の行為を正当化するために後世の人間に吐いた、罪深い虚構だ!」

「じゃあさっきあんたがやったのは何だっていうのよ!?共に響き合う徴、あれは地導使いが互いを確かめる為に使うものよ。さっきのあんたがやろうとしていたことは想像がつくわ。徴で私に地導を出させ、それで動きを止めた隙に攻撃しようって魂胆でしょ?徴をそんな風に使うなんて…。それに見たところ、あんたは『雷罰』を知らなかった」

「らいばつ?」

「そうよ。私達地導使いを縛る最大の制約、それが雷罰よ。一方が地導を纏った攻撃を仕掛け、もう一方が地導を使って防御をすれば互いに雷が走ったかのような激しい頭痛に襲われ、そしてしばらくの間地導が使えなくなる。今の私達のようにね。こんな大事なことも忘れられているなんて、それこそ地導を戦争の道具としてしか見ていなかった証拠じゃないの?」

「何だとっ…」

チェナのその言及でタルシュは怯む。その一瞬を見逃さず、チェナはタルシュ目掛けて勢い良く刺突を放った。だがその一撃はタルシュに容易く躱される。続いてチェナは連続で斬撃を繰り出すが、刀が体に馴染んでいないこともありそれらはタルシュの身体にかすりもしない。

「その刀、随分と扱いづらそうだな」

「なっ…!?」

不意にタルシュは刀と共に突き出されたチェナの手首をがしりと掴むとそのまま捻ろうと腕を回転させる。しかしチェナはその前に刀から手を放すと、全身を半回転させタルシュに背を向ける体勢になりつつ掴まれた腕を尾てい骨近くに引き寄せ、それを防ぐ。

「ほう」

だがタルシュはチェナに引き寄せられたと同時にその勢いを活かしてチャナの脇腹近くをすり抜けるように受け身を取り、再度チェナと正面から対峙する。そのタルシュに向かってチェナは勢いよく殴り掛かる。ところが、

「どうした、その程度か?」

「くそっ…!」

彼女の殴打や蹴りは皆タルシュに悉く躱され、弾かれた。その様はつい数日前、商取りの取っ組み合いで用心棒相手にチェナが見せたものと似ていた。もっとも、今はチェナがその用心棒の役だが。

「お前達里の人間の戦い方は熟知している。地導を用いた防御とそれに伴う反撃により相手を再起不能にする戦法、それは裏を返せば自分からの攻撃が疎かになりがちということ。そこらの武人に対してなら十分過ぎる上に応用も効く戦い方だが、反面それを極めようとすると膨大な時間がかかる。何故なら防御の精度をより高める為に自分から攻撃を仕掛けるということを熟知し、身に着けている必要があるからだ。そしてその域に達していない人間からの攻撃は実に狩りやすい。このように、なっ!」

タルシュは一向に攻撃を当てられないチェナを煽るかのようにう呟きながら、飛んできた右手の拳を受け止めつつ自身の右の拳でチャナの腹に一撃を入れる。

「ぐっ…」

続けざまにタルシュは腹に入れた拳を掌底の形に変えてから高速で持ち上げ、チェナの顎にまたもや強烈な一撃を見舞う。

「っ…!」

大きくのけぞるチャナ。更にそこからタルシュに足払いを決められ、彼女は背中から派手に倒れた。

(くそ、今の私じゃ、届かない…)

タルシュが悟っていたように、チェナもまた地導が無ければタルシュに及ばないことを分かっていた。このまま戦っても一方的に叩きのめされるだけだろう。それでもなお立ち上がろうとしたチェナだったが、タルシュに鳩尾を踏みつけられ地面に無理やり押し付けられる。

「がはっ…!」

その圧迫はかなりの強さで、チェナは耐え切れずに息を漏らす。

「これが今のお前の限界だ、里の地導使いよ。地導が使えない今のお前は只の人間、これ以上は無駄だ。このまま私の短刀でその首を撫でるか、斧でその頭蓋を叩き割ればお前の命は簡単に終わってしまう」

「…止めろ、そんなことをすれば…」

「女神からの罰が下る、だろう?」

「…!」

自身の言葉を言い当てられ、チェナは足蹴にされたままタルシュのほうを向いた。

「我々が地導から切り離された間に多くの知識が失われた。お前の言う雷罰、とやらもその一つだろう。だがな、最も重要なことは地導を失った今でも戒めとしている。地導使いは決して地導使いを殺してはならない。もしそれを犯せば女神からの不可逆な罰がこの世界を覆うとな」

「それを知って何故こんなことを…!」

「そんなこと決まっている」

チェナの鳩尾を更に強く踏みつけ、タルシュは声を低くする。呼吸が苦しくなるほどの圧迫を受け、チェナは顔を歪める。

「私達の故郷、シンラの為だ。西ノ国によって征服された我らが国は今や西ノ国の傀儡、そこにある王も、政も、それによって束ねられた民すらも全て西ノ国によって歪められた紛い物だ。それを正し、かつての黄金のような美しい国を取り戻す。地導はその為の力であり、この私に授けられた女神からの祝福だ」

「人殺しに祝福だなんて…!」

地べたに押し付けられながらチェナは下唇を強く噛む。この女がいつどこでどうやって地導を身に着けたのか。それは分からないが、それよりも何故、女神は目的の為に暴力や殺人を良しとするようなこの女に地導の力を授けたのか。チェナはそれが理解出来なかった。

「さて、お前はシャル以上に頑なそうだな。まぁ、里で生まれ育った人間なら当然か。私が手を下すことも出来ない以上、ここに捨て置くしかないな」

シャル、その言葉を耳にした途端、チャナの全身に力が入る。そうだ、戦いに夢中ですっかり忘れていた。シャルの行方は一体どこに。

「代わりにお前の相方はこちらで預からせてもらうぞ。だが、別に構わんだろう?彼はケハノの人間。里の人間ではないのだからな?いや、厳密には里の人間なのか?かつてケハノと里は一つだったからな」

「…!それじゃ…!」

「あぁ。察しの通り、私がケハノの襲撃者だ。あの村は私達の計画において邪魔でしかないからな。だから破壊させてもらった。安心しろ、村人は殺さないように努めた。出来る範囲で、だがな」


親父だけじゃない。俺のことを小さい時から見守ってくれた人も、村を守るために戦った人達も大勢殺されて、傷ついた。


あの夜、宮廷の壁の前でそう告げた言葉と、そしてあの時月明かりに照らされた、強い決意を宿しつつもそれでは覆い隠せない程の深い悲しみを抱いていた彼の表情をチャナは思い出した。

「あんたがケハノを…!許せない…!それに何であんたが何故里とケハノ村の関係を知っている…!」

「悪いがそれには先代からの決まりで答えられない。だが、彼が地導使いだと知ったのは偶然だ。まるで猫に追い詰められた鼠のように私に怯えて縮こまる村人を見て、戯れにこの徴を使ったらたまたまシャルを見つけた。それだけのこと。だがお前がいなかったら今こうして彼に出会うことも無かった。全く、感謝しているよ、お前には」

「…嘘、でしょ」

タルシュのその言葉に、チェナは青ざめた。これまでチェナがしてきた選択、その連続が今の状況を作り出していることに気付いたからだ。あの夜、山でシャルを拾った時、彼を止めずにいかせてやれば。最初にオアシスで野宿をした翌日の朝、kれの提案を拒否していれば。東街道でゴウを選んでいなければ。そして何より彼の選択を尊重などせず、村人達のもとに向かったシャルとあのまま別れていれば。

「では、これで終わりにしてやろう。折角だ、お前が昨日私達の仲間にした方法と同じ方法で意識を奪ってやる。あれは墨入れの中で最も有望だったのだがな。まぁ、仕方あるまい」

タルシュはチェナを押さえ付けたまま、外套から斧を取り出すとそれを逆さに握る。だが今のチェナにそれを防ぐ術は無かった。それに、チェナが地導使いであることを知っていることや今の発言からして、昨日の灰の風との戦いもどこかで彼女に見られていたのだろう。これ以上ない程の完敗だ。それを痛感したチェナは抵抗の意志を捨て、諦観の中で頭上に広がる曇り空を見つめていた。

(ごめんなさい、シャル。私のせいであなたをこんな危ない目に合わせてしまった…。それにごめんね、父さん、母さん、兄さん。私が弱いせいで仇、取れなかった…ごめんね、ごめん―)

その瞬間額を斧の柄で殴られたチェナは意識を失った。


チェナがタルシュと交戦を始めるとほぼ同時にセシムもシユウと刃を交えていた。馬上からシユウに斬りかかる瞬間、横でチェナが落馬したように見えたが、気にしてはいられない。セシムは振り抜かれるシユウの大槍に怯むことなく、彼の首目掛けて刀を振り下ろした。

「シユウ!!」

「兄貴―!」

刹那、セシムの視界が真下に引き落とされる。シユウの一撃はセシムの乗る馬の脚を裂いていた。脚を潰された馬は悲痛な嘶きを上げながら勢いよく倒れこみ、それに伴いセシムもまた地面に強く引きつけられる。だが、セシムは握った刀を放さぬまま素早く受け身を取り、シユウを見据える。鎖帷子を装備する者の身のこなしとは思えない、鍛え抜かれた彼だからこそ出来る動きだ。

「相打ち…とはいかなかったか」

セシムはこちらに向き直るシユウの右肩を見て、そう呟いた。セシムの一撃はシユウの右肩に当たり、彼の鎧に大きな傷をつけていた。だが、馬の脚と鎧の傷、損失が大きいのは明らかにセシムのほうであった。

「兄貴よ」

シユウは大槍をぐるりと頭上で回すとその穂を地面に突き立てた。それはこれから斬り合いをする武人がする行動では決してない。

「何を考えている、シユウ。敵前で刃を下ろすなど、本当に気でも違ったか?」

セシムはシユウの様子をじっくりと観察する。出立前、風狩り時の灰の風に関する資料に目を通していたセシムは彼らの薬による被害者がどのような症状を見せるのかを知っていた。人の心を操るという薬、それを与えられた者はまず初期の症状として非常に感情が不安定になり、特に他者に対して異常なまでの攻撃性を見せるという。しかしとこから投薬を繰り返すことで精神が安定してゆき、その過程で灰の風達による「会話」を通じて自身が灰の風の一員であると錯覚してゆく、というのだ。その薬の仕組みや調合法、「会話」の内容については殆ど明らかになっていないが、今のシユウの様子を見ると、少なくとも薬の初期症状は出ていなさそうだ。であるとするなら…

「兄貴が想像しているようなことは俺は施されてはいない。安心しろ」

だがその言葉を聞いたセシムは安心するどころか、抱いていた疑念が段々と確信に変わってゆくのを感じていた。

「それではお前は…」

「あぁそうだ。俺は、俺の意志で奴らと手を組んだ」

セシムは顔を引きつらせた。

「…どういうつもりだ、シユウよ…!帝の腕たるお前が東ノ国を裏切っただと…!?」

弟の信じられぬ告白に動揺を隠せないセシムとは真逆に、とても穏やかな調子で兄に語りだした。

「俺の意図はまだ明かせられない。だが兄貴、良く考えて見ろ。先刻の商隊の襲撃、多くの者が疑ったように、多くの護衛兵に加え俺という戦力がいながら商隊は護衛と共に壊滅した。これは、真に奇妙なことだと思わないか?」

「貴様、まさか…」

「察しの通りだ、兄貴」

シユウはにやりと笑う。

「俺が既に賊どもと内通し、あの満月の夜、俺が物見の番になった時に合わせて商隊を襲わせたのだ」

「ジロ重臣が疑ったようにお前だけが軽傷で済んでいたのも、そういうことか…!?」

「その通りだ。流石に無傷では怪しまれるのでな、俺の頭蓋に一撃を加え戦闘不能にすることも織り込み済みだ」

「では荷はどこにやったのだ!?それに、あの数の盗賊を集めるなどと、どうやって…!」

セシムの質問攻めを受け、シユウはやれやれといった表情を見せる。

「兄貴よ、俺にはあまり時間がないのだ…」

「答えろ!!」

狼のような眼差しを受け、シユウは思わず槍の柄を握る手を強める。

「…仕方あるまい。兄弟としてのよしみだ、答えてやろう。あの盗賊共は灰の風が西ノ国にて集めたものだ。奴らはあいつらを使って再度西ノ国の打倒を画策していたようだったが、俺の案で山を越え、商隊の荷を奪う為に使った。その荷は既に山を越え、西ノ国に入っている。ケハノ村を襲撃したのも、新道を使って安全に荷を運ぶ為だ。そしてその荷の使い道は…」

そこでシユウは邪悪な笑みを浮かべ、兄を見下ろす。

「トルクの爺が予見した通りだ。テルー帝国の宝飾品を賄賂として地方の戦力を吸収すれば、灰の風は今度こそ西ノ国の首を落とせるだろう…」

しかし、シユウは最後まで言い切ることが出来なかった。凄まじい形相でセシムが斬りかかって来たからだ。シユウは流れるように大槍を地面から引き抜くと、その巨大な穂でシモンの刀を受ける。

「お前はここで斬る…!何を企んでいるか知らぬが、お前はもう俺の兄弟でも無ければ帝の腕でも無い、私の国の敵だ!!」

「相も変わらずの忠犬ぶりだな。兄貴がそういうのなら、俺も全力でいかせてもらおう…!」

構えた大槍を押すような動作でセシムの刀を外すと同時に彼との距離を取ったシユウは頭上で獲物を一回転させた後にセシムに大振りの横凪ぎを放つ。セシムはそれを流れるように刀で受け止めいなしつつ、シユウとの距離を詰める。だがシユウは横凪ぎにより半身になった体勢を活かしてセシムを突進で迎撃した。シユウの巨躯から繰り出された突進をまともに受けたセシムは後ろに大きく撥ね跳んでしまい、そこにシユウは大槍を叩きつける。しかしセシムはこれをすんでのところで受け止める。セシムは今度は流すような動作から一転、全身の筋肉を使って穂を押しのけると、シユウの脇腹目掛けて斬りかかるが、シユウは槍の石突をセシムの顔面に突き出す。それを躱す為にセシムは素早く横に跳ね、再びシユウと距離を取ってしまう。戦いは大槍の長射程と、それを存分に活かせる恵まれた体を持つシユウが優勢に見えた。

「どうした兄貴。防いでいるだけでは勝てんぞ?」

攻めあぐねる兄を見て、シユウは煽る。

「俺を始末するのだろう?それなら煽ってなどいないでもっと打ち込んで来い」

そんな弟に一切動じず、セシムはシユウを煽り返す。

「ならば、遠慮なくだ!」

シユウは薙ぎ払い主体の斬撃を切り替え、正確な刺突をセシムの急所や鎧の隙間目掛けて次々と放つ。セシムはこれを次々に躱し、いなす。

「うおっ!?」

急にシユウが上ずった声を上げる。セシムの足を狙った払いが止められ、更にシユウが引き抜くよりも早くセシムに穂を踏みつけられ動かぬように固定されたからだ。

「流石、『霞と戦っているようなもの』と評されるトルクの一番弟子なだけはあるな。だがっ…!」

シユウは全身で槍を振り上げ、セシムを力づくで振り払おうとする。だがセシムはそれを見越して穂が浮き上がる寸前で足を外した。おかげでシユウは槍を大きく振り上げ過ぎてしまい、がら空きの胴体をセシムに晒してしまう。

「…しまった!」

セシムはその胴体に向かって、全体重をかけた刺突を加えようとする。ところが…


ヒュッ!!


瞬間、乾いた音が三度響く。

「!?」

セシムを狙ってどこからか飛来した矢が、吸い込まれるように彼の首目掛けて飛び込んで来る。シモンは瞬時に攻撃を中止し慌ててそれを躱すが、そのせいで意識がシユウから逸れてしまう。その隙に姿勢を立て直したシユウが

「ぬぅんっ!!」

という声と共に彼もまたセシムに向かって突きを放つ。


ガァンッ!!


だがシユウはその手応えに強い違和感を覚える。シユウの一撃は防御が遅れたセシムの腹にしっかりと入っていた。シユウの体格と大槍から放たれた重撃だ、まともに受ければ鎖帷子など何の意味を為さず、人の身体など無惨に貫かれるのが道理のはずである。しかし、それを受けたセシムは衝撃のせいか、顔を歪めてはいるものの彼の体はシユウの槍に貫かれることなく、しっかりとそれを受け止めていた。

「何…だと…?」

その尋常ではない光景にシユウは絶句し、放心したかのようにその場で固まってしまう。そんなシユウに対し、セシムは穂を勢いよく蹴り上げ、再びシユウの胴を晒しあげる。

「くそ…」

シユウは慌てて横凪ぎを放つが、そんな甘い攻撃が当たるはずもなく、セシムはそれを躱しつつ、鎧の隙間があるシユウの脇腹を切り裂いた。

「ぐっ…」

セシムの描いた刃の軌跡から鮮血が迸り、シユウが苦しい声を上げる。だが、セシムは間髪入れず今度こそ弟を絶命させるべく怯んだシユウに跳びかかり、組み伏せる。セシムに地面に転がされたシユウは槍を手放してしまい、更にセシムに馬乗りにされてしまう。

「終いだ、弟よ」

短くそう告げたセシムはシユウの喉に切っ先に狙いを定め、刀を振り上げる。


ヒュッ!


シユウを守るかのように、更なる矢が飛来する。だが

「二度は無いぞ、ナチ」

背ヒムは何と飛んできた矢を飛来した方向を見向きもせず、刀を握っていないほうの手で掴み、受け止めた。しかしその瞬間、セシムの首筋に僅かな痛みが走る。

「なにっ…」

その痛みを感じた途端、セシムの視界が大きく歪む。全身から一気に力が抜け、セシムはシユウに倒れ込んでしまう。シユウは急いでそれを押しのけ、辛くもセシムの刃から一命を取り留めた。既に意識を失った兄の首を見ると、その首には針のような小さな吹き矢が刺さっていた。

「無事か」

背後を振り向くと、馬に乗り、細い筒を持ったゼラがそこにいた。

「…何故、戻って来た?」

セシムに斬られた脇腹を抑えながらゼラを見る。今の体たらくをこいつに見られていたと思うと、シユウは無性に癪に障った。

「今お前をここで失う訳にはいかないからな」

「その口ぶり、俺が兄貴に敵わないと考えていたように思えるが…」

「当然だ。ゼラも私もお前ではこいつを倒せないことを知っている」

二人にタルシュが近づいて来た。タルシュに視線を移すシユウ。その少し先にはセシムと共に駆けて来たあの女用心棒が兄と同じように地面に転がされている。

「俺の突きをまともに受けたのに、兄貴は平然と立っていやがった…。まさか」

「あぁ、そのまさかだ。帝の腕、セシム。東ノ国一の剣士にして、里の人間以外で地導に選ばれた、唯一の男だ。それを知らずにお前はこいつに戦いを挑んだ。ゼラの毒矢が無ければお前の命は無かったのも頷けるだろう」

「兄貴のやつ、俺が国を離れている間に…。これもトルクの仕込みか…!」

「そうだろうな。同じ兄弟、同じ組織に属していながらこれほどまで扱いに差が出るとは。やはり弟は兄に敵う道理など無い、ということかな?」

ゼラの言葉を受け、シユウは苦虫を嚙み潰したような顔でセシムを見る。それに加え、帝の腕であるはずのシユウが知らない情報をさも当然かのように話すタルシュに対しても、シユウは劣等感を抱いた。

「…何とでも言え。次はこうはいかん」

立ち上がったシユウにタルシュは清潔な長細い布を投げてよこす。

「使え。その傷、深くは無いが山を越えるには痛手だ」

「助かる」

シユウは礼を告げ、シモンから受けた傷にその布を巻き始める。そのシユウに向かってゼラが再び口を開く。

「兄貴の命を奪わなくていいのか?お前にとってあいつは目の上のたんこぶ、だろう?」

先程からのゼラのその言葉選びと口調は明らかにシユウを馬鹿にしていた。それを受けてシユウは思わず眉間に皺を寄せる。

(こいつ、言いたい放題言いやがって、今に見ていろ…!)

心の中でシユウは悪態を突く。

(だが、今は大人しく聞き流しておこう。時が来れば東ノ国や西ノ国、そしてこいつらの故郷であるシンラですら取るに足らない存在になるのだから…!)

「まぁ、そんな顔をするな。俺が戻って来た理由は何もお前を助けるだけではない」

そしてゼラは馬をその場で旋回させ、背後に載せられていたシャルをどさっと乱暴に地面に落とす。

「ぐっ…」

痛みに耐えられず小さく声を漏らすと同時に、近くにいたタルシュが地面に這いつくばるシャルの髪を掴み、顔を無理矢理上げさせる。

「どうだ、これで良く見えるだろう?お前の頼みの綱達の、無惨な姿が」

その視線の先にあるものを見た瞬間、シャルの顔が絶望に歪む。

「そんな、チェナ…そんな…!」

「少しはやるかと思ったが、所詮は『墨入れ』一人をやっと倒せるに過ぎないか。あんな女、殺す価値も無い」

「お前、チェナを…!」

チェナを侮辱され、シャルは一転して怒りを露わにする。

「おっと、悪かったな。殺す価値も無い、というのは言い過ぎた」

わざとらしく謝罪の言葉を述べると当時に背後のゼラが馬から降り、シャルに見せつけるかのように、どこからか取り出してきた弓に矢をつがえ、矢尻をチェナに向ける。

「あの女の命に価値を与えるのはお前自身だ、シャル。お前の大事なチェナは幸いなことにまだ生きている。だが、お前が我々と共に歩むことを拒むのなら…」

「や、止めろ…!」

彼らの意図を瞬時に理解したシャルは再び絶望により顔を引き攣らせる。だがその瞬間、

カシュンッ!という乾いた音と共にゼラが矢を放った。

「…ッ!」

しかし矢は仰向けに倒れるチェナの頭頂部の直ぐ傍に突き刺さる。

「すまない。未だに己の立場を理解していないことに驚いて、つい手を滑らせてしまった。さぁ、次はしっかり狙うことにしよう」

気色悪い程に間抜けな調子で、ゼラは再び矢をつがえる。

「止めてくれ…。もう、俺の大事なものを奪わないでくれ…!」

堪えていたものを抑えきれず、涙声で必死にそう訴えるシャル。だがその声も虚しく、再び、カシュンッ!という乾いた音と共に放たれた矢は、今度はチェナの右頬を掠める。

「奪われたくなければ、分かるだろう?さぁ、選べ。このまま故郷も、友も、己の弱さ故に失い続けたいか?」

「……!!」

噛み締めていた唇が切れ、乾いた口の中に血の味が広がる。今度こそ、シャルに出来ることは何も無かった。彼を守るものは全て失われ、そして再び失ってはならないものが彼の目の前から消えようとしている。そして、それを止める手段はもう唯の一つしか無かった。

「…分かった。お前達と共に行く。行かせてくれ…」

暫しの沈黙の後、遂にシャルはそれを発してしまう。

「だ、そうだ」

弓を下ろすゼラ。シャルの言葉を聞いたタルシュもまた満足げに彼の髪から手を放す。

「良く言った、シャル。お前は初めて、お前自身の力で守るべきを守った。喜ばしいことじゃあないか」

皮肉交じりにシャルの選択を歓迎するタルシュ。一方のシャルは再び血が滲む唇を噛み、地面に頭を突っ伏していた。溢れ出る涙を、見られない為に。だがそのせいでシャルは背後に立ったゼラが持つものに気が付かなかった。

「…!」

首に鋭い痛みが走った途端、シャルは凄まじい眠気に襲われ、そのまま意識を失った。

「さぁ、これでこいつの心は完全に折れた。後はじっくりと支配してやればいい」

ぐったりしたシャルを再び担ぎ上げ、馬の背に乗せるゼラ。彼の言う通り、わざわざ二人のもとに戻ってきたのはシユウを援護する為だけではなく、敗北したチェナの姿を見せ、更にそれをだしに使うことでシャルの精神を侵し、自分自身で仲間になることの選択をさせる為であった。薬を用いない彼らの「心の支配」は既に始まっていたのだ。

「…」

患部に布を巻き終えたシユウはシャルと灰の風の問答を複雑な表情でしばらく見守っていたが、やがて落とした槍を拾おうとセシムの傍に寄った。シモンはゼラの放った毒矢により、昏睡状態に陥っていた。試しに足で頭を軽く小突くがぴくりとも反応しない。

「あばよ、兄貴。次会う時は必ず、俺一人の手で葬ってやる」

灰の風二人に気付かれぬように小さな声でそう呟くとシユウは槍を拾い、灰の風二人のもとに戻って行った。

「では、今度こそ出立しよう。シユウ、お前の相棒の弓使いは…」

「山に入ったら合流する」

「そうか、では…」

その瞬間、


ドカカッ!ドカカッ!


タルシュやゼラと同じ鼠色の外套を纏った人物が二頭の若い馬を連れ、自分もまた馬に乗り三人に向かって全速力で駆けて来た。走って来た方向から察するに、先程帝の腕と戦っていた灰の風であろうか。たった一人であることを鑑みると、彼以外は皆帝の腕に倒されてしまったのか。

「何だ、お前達の仲間か」

自分の馬の鐙を直す手を止め、シユウは目線を上げる。だが、シユウはその言葉から一呼吸置いた後にとあることに気付いた。男が引き連れる若い二頭の馬はいずれもシャルとチェナが乗っていた栗毛の馬であることに。

「増援だ!」

直感でシユウがそう言い放った瞬間、タルシュとゼラは既に武器を抜き、迫り来るその人物に向かって走り出していった。通常疾走する馬に向かって正面から向かって行くなどまともな判断ではない。しかし、かつてその馬を用いて最強と言わしめた西ノ国の騎馬兵と渡り合った灰の風にとって生身で騎馬兵を相手にするなど訳ないことであった。だが馬に乗るその人物は二人が走り出してから間もなくして、腕を振り上げ何かを地面に叩きつけた。

綱の切れ端のようなそれは叩きつけた瞬間から大量の白い煙を立ち昇らせる。更にタルシュ達が走る方向に対して向かい風が吹いていたこともありその煙はあっという間にタルシュとゼラ、そしてシユウを包んだ。

「煙幕、だと!?」

タルシュとゼラは思わず足を止め、強く咳き込む。煙には独特の刺激臭があり、不意打ちでそれを受けた二人は視界を奪われたこともあり一時戦闘どころではなくなってしまう。そしてそれはシユウも同様だった。そんな中、三頭の馬が力強く大地を蹴る音が木霊する―。


数十秒後、三人は咳き込みながら煙が晴れた辺りを見回す。奇妙なことに敵は三人に一切手を出すこと無く、ただ横をすり抜けていった。ところが

「兄貴たちがいない…」

視界が回復したその時、タルシュとゼラが倒したチェナとセシムの姿は既にそこに無かった。そして―

「…奴らだけではない。シャルを奪われた」

背後に控える自身の馬を見ながら、ぼそりとゼラが呟く。彼の言う通り、ゼラの馬に乗せられていたシャルの姿もまた、忽然と姿を消していた。

「不覚だった…。すまぬ、タルシュ。折角の地導使いをみすみす奪われることになるとは」

馬達が走り去った先を見つめるタルシュに対し、ゼラは深く頭を下げる。

「気にするな、ゼラ。元より想定外の収穫だったのだ、彼がいなくとも計画に狂いはない。予定通り、私達も山を越えるぞ」

「…分かった」

初めて後ろめたそうな態度を見せたゼラと、その様を内心でほくそ笑むシユウに続き、タルシュも馬に跨る。馬の背に乗ったタルシュは先に聳えるオリス山脈をじっと見つめた。曇り空の下でも、その霊峰は荘厳な様相を漂わせている。そしてタルシュは外套の中に手を入れ、首にかけた細い鎖の先にあるものを取り出し、まるで山に見せつけるかのようにそれを掲げる。タルシュが取り出したもの、それは硝子で出来た美しい、しかし半分が歪に変形した紫色の首飾りであった。もとは八角形だったのだろうか、形が残る片方は均一の四つ角を持っていたがもう半分はまるでそこだけ火で炙ったかのように全体が溶け、所々に焦げた黒い跡と垂れたような跡が残っている。何故タルシュがこのようなものを持っているのか、それは分からぬが彼女はそれを掲げつつ次のようなことを呟いた。

「女神よ、再び邪魔をする。この灼けた証とあなたが与えてくれたこの地導の力に従い、私はシンラにもう一度興してみせる」

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