5, 忌むべき再会

ドドーン…ドーン…


前方から聞こえてくる発砲音を、セシム達は確かに捉えた。

「今のは、穿鎧火槍か…?」

火薬が炸裂するような音など、この草原で聞くことまずない。だとすれば考えられる事態は一つだけだ。

「セシム殿!恐らくはシユウ殿のほうに…!」

セシムは眉をしかめる。行商を半ば囮のように使うというこの任にセシムはそもそも納得がいかなかったということもあったが、それよりもトルクの予想通りにテルーの荷を運ぶ行商を的確に襲撃してきた可能性がある、という事実がセシムにとっては信じられないものであったのだ。

「あぁ。どうやら“かかった”ようだな。だが火槍を使うということは、敵はそれだけの脅威ということだ…不味いかもしれん」

穿鎧火槍(せんがいかそう)。それは東ノ国で開発された最新鋭の兵器だ。火雨走りを発展させる形で作られたこの火砲は炸薬の衝撃で鉄の礫を相手に撃ちこむことが出来、その威力は鉄製の鎧を易々と貫き、突進してくる軍馬をも一撃で葬り去る。特に後者について、西ノ国の騎馬兵に正面から対抗出来る武装として火雨走りと共に東ノ国では量産が図られている。そんな高火力な武器を使わざるを得ない状況ということは、それだけ危機的な状況だと判断することも出来る。

「セシム殿、ここは我々に任せてシユウ殿の援軍に向かって下さい!」

「行商の様子はどうか!?」

「物見によると、行商も今の音を聞き足を止めているようです。恐らくこのまま歩みを進めることはないかと思います」

「ふむ…」

以前シユウが言っていたように、敵の具体的な規模や狙いをセシム達は知らない。加えて敵は不意打ちとはいえ護衛を伴った商隊を壊滅させたのだ、先行するシユウ達を先に襲撃し、そこにセシム達が戦力を割くことを見越した上で今度は手薄になった、セシム達が護衛する行商達を襲うかもしれない。敵が本当にテルーからの宝飾品だと分かった上で仕掛けてきたというのなら、その可能性を捨てきる訳にはいかなかった。だがセシムは最終的に

「分かった。俺は今からシユウ達の救援に向かう。他の者は彼我の距離を保ったまま護衛を続けろ。だがもし行商がこのまま前身しようとするなら、こちらの正体を明かしてもよい、必ず歩みを止めろ。みすみす戦場に飛び込ませる訳にはいかない」

と他の者に告げる。

「かしこまりました。ご武運を!」

それを聞いた他の者は疑問の一つも呈さず、快く彼を見送る。セシムは小さく頷くと馬の腹を強く蹴り、音が響いた方向に駆け出した。

(シユウの采配がこんなところで活きてくるとは思わなかったな…)

全身で風を切りながら、セシムはそんなことを思った。実は都を出る前シユウはセシムに対して、自分が率いる部隊にソウシを始めとした経験豊富な帝の腕を多く回すように申し出てきたのだ。その理由を聞くとシユウは

「俺は今回の失敗で自分の腕が少し信じられなくなっていてな。情けない話だが、今一度歴戦の者達の振る舞いをこの目で見て、己を鼓舞しようと思っているんだ。それに兄貴はトルク殿の一番弟子だろう?若い連中も商隊を守れなかった俺よりもお前と共に任に当たるほうが士気も上がるはずだ」

と言ってきた。弟がこんなことを言うのも珍しいと思いつつも、セシムはその要求を飲んだ。その為セシムが今まで率いていた帝の腕は経験の浅い若者達が多く、唯一今年から帝の腕となったユタとシギのみシユウの部隊に割り振られていた。だが、少々不自然とも言えるその采配が結果的に有利に働いていた。

(ソウシ殿を始めとした猛者達があちらには多くいる。俺一人の援軍でも間に合うだろう)

自分に言い聞かせるように、セシムはそんなことを考えていた。


セシムが馬を走らせて数十分後、辺りには硝煙の臭いが漂い始めていた。その匂いに加えて、男の声や悲鳴が彼の耳に入る。


ドドドーーーン!!


唐突に一際大きい爆発音が響く。

(あの丘の向こうか…!)

音が発せられたほうにある大きな丘をセシムは睨む。音の規模から判断して、かなりの数の火槍が発砲されている。セシムは急いで丘を駆け上がっていった。

彼が丘を登り切った時、飛び込んで来たのは二つの人の群れであった。一つは荷車から急いで離れようとする盗賊達の群れだ。どうやら本当に荷を狙って襲撃を仕掛けてきたらしい。その数は優に百人は超える規模で、その数から見ても彼らが商隊を襲った犯人と見て間違いは無かった。しかし数で圧倒できると過信したのか、馬鹿正直に正面から突っ込んできたことが災いし、もはやその半数は骸と化して地面に転がるか、腕や足を失い、恐怖と痛みでその場から動けないでいるかのどちらかであった。残る者達もその多くが

「下がれ!吹き飛ばされるぞ!」

「クソッ!帝の腕がいるなんて話が違うじゃねぇか!」

と各々口にしながら傷を庇いつつ撤退を始めている。二つはその荷車を守るように展開する帝の腕達だ。彼らは行商達の前に立ち、二列に隊列を組んでいた。一列目は膝立ちで盾を構えて敵から撃ちこまれる矢を防ぎ、そして二列目の者は一列目の者達の背後で火槍を準備し、発砲の準備が出来次第盾持ち達の肩の間から盗賊達に向けて砲身を突き出す。

「撃てーっ!」

シユウの合図で帝の腕達は一斉に砲後方の小穴に火縄を差し込む。


ドドドーーーン!!


轟音と共に火槍が火を噴く。そこから僅かに遅れて背を向ける盗賊達の足元に沢山の白煙が勢いよく炸裂する。

「ひぃーっ!に、逃げろっ!」

「あいつら、容赦ねぇ…!」

白煙に混じり、そんな悲鳴が聞こえてくる。そして煙が晴れた時、先程まで生きていた盗賊達の多くは炸裂した火槍の礫の破片に腹や喉を貫かれて即死したか、体の一部を吹き飛ばされその場に倒れていた。

「我が国の兵器とはいえ、相も変わらず恐ろしい威力だ…。あんなものが作られた以上、俺の剣など些細なものだな…」

その様子を見ていた思わずセシムはでそう呟いてしまう。だが彼をそう思わせてしまうほど、火槍は圧倒的な火力を持っていた。刀剣のように技術の習得がほぼ必要なく、それでいて弓よりも遠距離かつ広範囲を攻撃出来る。重厚であるのに加え、装填に時間がかかることから戦場では基本一発で使い切る為に取り回しが悪いという欠点もあるが、それを補って余りある程、兵器としての完成度は従来の武器の比では無かった。事実、二十数人という少数でも、火槍の力だけでその数倍以上ある盗賊の群れを既に退けようとしているのだ。

「これでは援軍も不要…」

セシムがそう思ったその時、まだ残る白煙の中から荷車に向かって複数の影が勢いよく飛び出して来た。

「あれは…!」

それは馬に乗る数十人の人影であった。わらわらと逃げる盗賊達とは正反対に、それらは隊列を組む帝の腕達に向かって臆することなく突進してゆく。まるで火槍に悉くやられた盗賊達の姿が見えていないかのようだ。そして馬上の者達は皆、チェナやシャルを襲った者達と同じ、件の外套を身に纏っていた。

(あれはまさか、灰の風…!?)

そう思った瞬間、セシムは左の腰から刀を抜き、丘を駆け下りていった。

(よもやここまでトルク殿の予測が的中するとは思わなかったが…だが怯んでいる場合ではない、懐に入られれば火槍など何の役にも立たない!)

帝の腕達もこちらに向かって来る影を確かめたのか、残る火槍を構え、発砲の準備を取る。しかしそれでも鼠色の外套の群れは勢いを止めることなく突進を続ける。

「撃てーっ!」

シユウが発砲の号令を出す。だがそれと当時に灰の風達は何と高速で走る馬の手綱を離しつつ、あぶみを蹴って幅跳びのように斜め前に飛び上がった。並外れた平衡感覚と度胸が無ければ出来ぬ芸当だ。おかげで火槍は捨てられた馬達を倒しただけでその上に乗る者達を捉えることは出来なかった。おまけに馬の速度で勢いの乗った灰の風達は、帝の腕達が防御の姿勢を取るよりも早く彼らの懐に飛び込んで来た。

「…なっ!」

火槍を持っていた為に動きが鈍っていたユタに灰の風の一人が馬乗りになった。背中から地面に叩きつけられたユタに向かって灰の風が外套の袖から覗かせる短刀を彼の喉に突き刺そうとする。

「ぎゃははっ!死ね―」

だが下品な笑い声がユタの響いた瞬間、ブンッという音と共にその灰の風の頭がユタの視界から消えた。

「シユウ殿っ!」

首を無くし、ユタに倒れこもうとするその身体をユタは慌てて押しのけ立ち上がる。ユタを殺そうとした灰の風は、シユウの大槍の一撃により首を吹き飛ばされていたのだ。

「ぬぅんっ!!」

ユタを守るかのように、シユウは鮮血迸る大槍を凄まじい勢いで振り回す。その剣幕に灰の風達は怯む。その隙に帝の腕達はすぐさま体勢を立て直し、両腰の刀を抜き灰の風達と斬り合いを始める。

「シユウ殿に続け!行商達に近づけるな!」

自分の目の前で繰り広げられる凄まじい戦闘を、シャルは変わらず地面に這いつくばりながら呆然と眺めていた。チェナが都で見せた商取りの競り合いなど比にならない。高速で繰り出される斬撃の応酬は、もはシャルのような素人では目で追うことすら不可能であった。


ドカカッ!ドカカッ!ドカカッ!


「何だっ!?」

「避けろ!」

不意に戦いの群れが二つに分かれた。再度馬に乗った灰の風が、先程と同じ方向から戦いの最中に突っ込んで来たからだ。増援か、と帝の腕達は考えたが突っ込んで来た馬は二頭だけ、その背に乗る者も二名だけだった。そしてそれらは帝の腕と仲間達の間を突っ切ると、荷車に向かって高速で突撃していった。

「しまった!」

先に行商を殺し、荷を確保するつもりか。しかし帝の腕達の予想はまたしても外れることになる。ヒュルッ!という音と共に二人の内大柄の者から投げ縄が放たれた。そしてその縄は行商の誰でもなく、何と地面に這いつくばるシャルの足に向かって投げられた。

「え…」

左の足首に強い圧迫感を感じた刹那、シャルは走り去る馬に引きずられ、瞬く間に荷車から引き剝がされた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

高速で地面を転がされ、キオは全身を何度も強打する。その痛みと速度のせいで地導を使い体を保護する余裕も無かった。

「シャル!?」

そのあっという間の、そして予想外過ぎる出来事に流石のチェナも反応が遅れた。だがシャルを追いかけようと急いでスイに飛び乗った時にシャルは既にかなり遠くに行ってしまっていた。

「待ちたまえ!私が行く!」

チェナが飛び出そうとしたその時、シャルが連れ去られる始終を見て戦いから抜け出して来たのか、シユウが彼女の横に並び立った。

「でも…!」

「私には分かる。彼を連れ去った者達、あれは灰の風の中でもかなりの手練れだ。君が行っても返り討ちにあうだけだ」

そう言われ、チェナはムッとした顔をする。帝の腕には及ばずとも、彼女は自身の腕っぷしの強さにはそれなりの自負があった。それを真っ向から否定されることは確かに彼女の自尊心を傷つけた。それにいくら歴戦の者だからといってあの僅かな時間で敵の技量を測ることなど出来るというのか。チェナのその顔を見たシユウは

「すまない、君の機嫌を損ねるつもりは無かった。だが、それに君は行商達の用心棒だ。手傷を追った彼女を、君にはすぐ傍で守ってもらいたい。どうだ、君の弟のこと、私に任せてはくれないか?」

と声色を柔らかくしてチェナに留まってもらうように促す。

「…分かりました。弟を、お願いします」

チェナは依然として不満気ではあったが、それでも渋々シャルのことをシユウに任せた。

「感謝する」

シユウは短く礼を告げると荷車の後方で待機させていた自身の軍馬に乗り、シャルを連れ去った二名を追いかけその場から離れていった。


「おい起きろ、緑目」

眉間を蹴られ、その痛みからシャルは失いかけていた意識を次第に取り戻し始める。

「ぐ…うぅ…」

起き上がろうと地面に手をつくも身体のあちこちが強く痛み、上手く力が入らない。数分もの間馬に引きずられたのだから無理もない。むしろ骨折していないことが奇跡と言えるくらいだ。纏っていた青い上衣もいつの間にか彼の身体から外れ、行方が分からなくなっていた。

「誰が立てと言った。意識があるのならそのまま寝ていろ、この愚図が」

先程馬上からシャルに縄をかけた者はどうやら男のようで

「タルシュ、ここらでもういいだろう。直ぐに奴も追いついてくる」

と前方を走っていた仲間の名を呼んだ。男よりもずっと小柄なその仲間は何も言わずに男とシャルのもとに近づいてくる。

「あぁそうだな、ゼラ。あいつのおかげで色々と手間が省けた。小者の割には中々の手引きだ」

タルシュ、と呼ばれたその仲間から発せられた声は女性の声であった。更にこれまでキオが見て来た灰の風達とは異なり、彼女だけは外套を腰に巻いた赤い帯で体にしっかりと纏わせている為、ゆったりとした外套越しでも胸の膨らみや細い腰といった体の線が分かるようになっていた。

「しかしあの品は諦めるしかなさそうだ。帝の腕があれ程いるとなれば奪うのは難しいだろう」

「『墨入れ』だけでは力不足か?」

「あぁ。あの程度の力では直ぐに全滅する。やはりトラから作った薬は失敗だな。即効性は抜群だが、あれで操った墨入れ達は戦いを楽しんでしまう。引くことを弁えぬ者は真の灰の風になることは出来ない」

「そうか、残念だ」

「そう気を落とすなタルシュ。シンラが再興すればかつての勢力を取り戻すだけの時間は十分に生まれる。それまでの辛抱だ」

二人の声を聞いていたシャルは、彼らに強い既視感を覚えていた。まずゼラと呼ばれた男。これは間違いなく昨晩ソウシを殺し、シャルを人質に取った灰の風だ。そして、タルシュと呼ばれた女。故郷の村を破壊され、大切な人達が奪われ殺されたあの悪夢の夜。燃え盛る火に映し出されたあの姿と目の前の女はどこか似ていた。

「こいつを宝飾品と引き換えにするのはどうだ?」

その提案を聞いたゼラはふん、と鼻で笑う。

「冗談で言っているのか?こいつにはあの宝飾品以上の価値がある。その為にわざわざこうして連れ去ってきたんだ。そう言ったのは他でもないお前自身だろう?」

「あぁ、冗談だ。だがこいつの間抜けな面を見ていると役に立つのか少々疑問でな。ゼラ、お前ほどの男が本当にこんな奴を殺し損ねたのか?」

「まさかこんな小僧がお前と同じ力を持っているとは夢にも思わんだろう?まぁいいじゃないか。お陰で思わぬ収穫を得られた」

嘲るようなゼラの態度に合わせるようにタルシュも頭巾の下から覗かせる顔に冷笑を浮かべた。その会話を聞いたキオは全身に鳥肌が立つ。

(お前と、同じ力…?それじゃ、こいつはまさか…)

「…しかしあいつはまだ来ないらしいな。時間もあるようだし、折角だから種明かしをしてやったらどうだ?」

「…そうだな。いずれにせよ通らなければならない道だ」

そう言うと二人はうずくまるキオの前に立ち、そしてゆっくりと被っていた頭巾を外した。そこから現れた二つの顔、ゼラのほうは白髪が混じった黒髪に、年相応の皺が入った濃い顔をしており、一方タルシュは長い黒髪にゼラとは正反対の色白で面長の顔、そして年もキオと同じか、少し下位の、かなり若い女であった。更に首飾りか何かだろうか、彼女の首からは外套の中にかけて細い鎖がかかっていた。だが露わになった二人の顔を見たシャルはそんなことなどどうでもよくなるほど、二人の顔の共通点に目を丸くした。

「紫の瞳…?砂の平野(ルマラ・ファルサ)の民…?」

そう、シャルを見下ろす二人の目は、深い紫色をしていたのだ。その瞳は西ノ国の都の遥か西方、その大地の多くが砂に覆われた砂の平野(ルマラ・ファルサ)に住まう人々の証であった。砂の平野の人間が紫色の瞳を持っている、ということは一つの情報として知っていたシャルだったが、これまで多少の濃紺の差はあれ、出会ってきた全ての人間が緑色の瞳であった彼にとって、彼らの瞳はその冷たい視線も相まって非常に不気味に感じられた。

「昨晩は世話になったな。俺の名はゼラ、我が祖国、シンラの再興を目指す戦士だ。そして隣にいるのが我らが灰の風の頭領、『火種』にしてお前の故郷であるケハノ村を襲撃した張本人だ」

「やれやれ、お前の大切な村人達が命を犠牲にしてまでお前を助けたというのにこのような再会を果たすとは。人生というものは何とも数奇なものだな?」


目の前の女が故郷を破壊し、大切な人達を殺した張本人である。それを知った途端、これまで生きて来た中で最大と言える程の憤りが体の芯から溢れ出てくるのをシャルは感じた。

「お前が…!父さん達を…!!」

だが立ち上がろうとした瞬間、体中に強い痛みが走りシャルはその場に崩れ落ちる。

「ぐはっ…」

「どうした?ちょっと馬に引き回された程度でそのざまか?」

その様子を見たゼラは嘲笑する。

「くそ…くそっ…!動け、動けよ俺の身体…!」

だが力を入れる度に痛みに苛まれ、シャルはタルシュに掴みかかるどころか、まともに立ち上がることもままならない。そうして無様に地面に這いつくばるシャルにタルシュはゆっくりと歩み寄る。

「良く聞け。お前は今自分の仇がこんな近くにいるにもかかわらず、己の身体が可愛いが為に立ち上がることすらままならない。それはつまり、お前の恨みなどその程度ということだ」

「黙れ、この人殺しどもめ…!」

「口だけは達者だな。どうだ、私が憎いだろう?その憎しみがあればお前が今感じている痛みなどそよ風のように些細なことのはずだ。だが、お前は弱い。弱いが故に体が心に追いつかない。今の情けないお前を見て、あの世に行った村人達はどう思うだろうな…?」

そう煽られた瞬間、シャルの何かで何かが外れた。タルシュの言う通り、急に全身にあった痛みが消え、シャルは何てこと無くすっと立ち上がった。

「調子に乗るなよ。皆の仇は俺が取る…。その為に俺はここまで来たんだ」

怒りが頂点に達したシャルは目を見開き、直ぐ近くにまで歩み寄ってきているタルシュに思い切り拳を振り抜く。だがタルシュは素早く後ろに飛び退くと、両手の親指と人差し指で逆三角形を作り、シャルに向ける。その形は「共に響き合う徴」そのものだった。徴を向けられた瞬間、シャルの全身から地導の揺らぎが溢れ出し、それと同時に彼の身体が一瞬だけ完全に硬直する。

「…!?」

その隙にタルシュは徴を解くと、動きの止まった彼の懐に飛び込み彼の鳩尾に膝蹴りを入れた。

「がはっ…!!」

蹴りをまともに喰らったシャルは地面に倒れこみ、その凄まじい痛みをこらえきれずに鳩尾を抑える。それにより、シャルの闘志はあっさりと折れてしまった。

「あぁ、伝え忘れていたな。私もお前と同じ地導使いだ。今使ったのは『結びの徴』と言ってな、地導使い同士の戦闘ではこの徴により動きを止められぬよう常に警戒しなければならない。お前の連れの女はそんなことも教えていないのか?」

タルシュは再び地面に這いつくばるシャルに向かって指を振る。その指にはシャルやチェナと同じ地導の揺らぎが纏わりついていた。

「…ぜだ…?」

「ん?」

「何故お前らが地導の力を使えるんだ…?チェナは言っていた、地導は私達が代々守って来た神秘の力だって…。そんな力をお前らのような人殺しに与えるような真似は絶対にしないはずだ」

シャルはチェナの故郷である地導の里について彼女から多くを秘匿されていることもあり多くは知らない。だが、それでも断片的な情報からでも分かることはある。地導の力は清浄に用いられるべきであり、その信念に基づくなら少なくとも目の前の外道達に試しの儀を許すようなことはしないはずだ。シャルのたどたどしい問いを聞いたタルシュはため息をつくと、シャルに向かって再び歩み寄る。

「シャル、一つ取引をしようじゃないか。私達はこれからシンラ再興の為西ノ国、そして東ノ国を落とす。だがそれを果たすには今よりも強力な戦士が必要だ。その上でシャル、私達は地導を使うことの出来るお前を是非灰の風に招き入れたいと思っている」

「何…だと…!?」

「お前にも地導の強大さは分かるだろう?刃を一切受け付けぬ岩石の如き肉体、その力に灰の風の技術が合わされば正に敵なしだ。そんな存在が二人もいれば私達の夢の実現もより近くなる」

「ふざけるな…!誰がそんなこと…!」

「まぁ落ち着け。取引と言っただろう?もしお前が私達と共に歩んでくれる、というのなら我々が持つ地導の秘密を全て教えよう。その上、お前によく似た…確かショウとか言ったかな?そいつにも会わせてやろう。どうだ、悪い話じゃないと思うがな?」

瞬間、シャルははっとした表情でタルシュを見上げる。そうだ、襲撃者はシャルを追うことを諦めた後村の集会所で眠っていたショウを攫って村を去った、と母から聞いていた。ならばショウの行方を確実に知っているのもこいつしかいないだろう。それを悟ったシャルの顔を見て、タルシュはにやりと笑う。

「やはりお前にとって近しい存在だったようだな。ショウの行方は我々しか知らぬ。もしこの取引を断るというのなら、お前はもう二度とショウと会うことは出来ない…さあ、どうする?」

シャルはこの二人が人の形をした悪魔のように見えてきた。仮に彼女に従ったところで本当にショウに会える確信などない。その上で彼女達と共に歩むことになれば…


灰の風は人を殺める能力もさることながら、薬学にも長けていてな、特別な毒薬を用いて人の心を操り、他国の敗残兵や襲った行商を仲間に引き入れ、更には西ノ国の支配下にある小国を襲撃し、そこに住む若者を攫ってはその心を支配し、自分達と同じシンラの為に命を賭す戦士として錯覚させたんだ


そこでシャルはゴウの言葉を思い出した。そもそもシャルを戦力に加えたいのなら、彼らお得意の方法で操ればいいだけの話だ。ならばこの取引も最初から守る気など無く、シャルの心に隙を作る為の罠なのではないか。

「お前達のやり口は俺も知っている。俺を灰の風にしたいのならば取引なんて持ちかけずに始めから無理やり従わせればいいじゃないか…」

シャルの反抗の言葉を聞いたタルシュは態度を変えず、そればかりかその言葉を待っていたとばかりのしたり顔を見せる。

「確かにお前の言う通りだ。ただお前だけは違う。お前は未熟とはいえ地導使いだ。女神に選ばれた人間を薬で操るなどそんなことは出来ない。だからこうして交渉を持ちかけているんだ」

「…ふん。お前達のような人間でもそんな良心はあるんだな…。だったら人殺しなんて止めて真っ当に生きてみろよ…!」

それを聞いた途端、タルシュの背後でやり取りを聞いていたゼラが急にシャルに詰め寄り、彼の腹に再度強い蹴りを入れる。

「がっ…!」

再び崩れるシャル。もはや彼に地導を使っての防御をする余裕と体力など残ってはいなかった。

「忌々しい緑目の分際で舐めた口を叩くな。今度はお前にこの状況を打破する手立ても無ければ選択する余地もない。さぁ早く決めろ」

そう言うゼラのその表情にはしかし、苛立ちと焦りが見えていた。帝の腕との戦闘の最中、あのような形でシャルを攫ってきたのだ。身を隠す場所などほぼない草原の中で今のようにしていれば直ぐに追手に見つかるだろう。ゼラはそれを恐れているかのようだった。

「止めろゼラ!これ以上傷つける必要はない」

そんなゼラをタルシュが慌てて止める。

「だがこいつは…!」

「分かっている。しかしどうやら思っているよりも頑なな奴だ。…仕方ない、立たせてやってくれゼラ」

タルシュの命でゼラは不満気にシャルへの暴行を止め、代わりに彼の肩に手をかけ無理矢理立ち上がらせた。ゼラの補助でシャルは何とか地に足を付ける。

「一つ譲歩だ。お前に地導の秘密、その一つを教えてやろう。まずお前は勘違いしているようだが、ハイラの女神は例え人殺しや罪人だろうとその資格ある者には地導の力を与える。そしてその資格とは、大義を持つことが出来るかだ」

「…大義、だって?」

蹴られたところを庇いながら、苦しそうな呼吸音と共にシャルは尋ねる。チェナはあの夜、力を与えるに相応しい人間だけが女神に選ばれる、と教えてはくれたがその具体的な資格までは教えてくれなかった。タルシュは続ける。

「そうだ。心の内に成すべきものを掲げ、その重荷を背負う覚悟を持つことが出来る者、それが地導に選ばれる唯一かつ絶対の条件だ。考えてもみろ、お前は私の襲撃から辛くも逃れ、そのまま残った村人達ともとの暮らしを送ることも出来た。にもかかわらずお前は死んだ者達の仇討ちの為、茨の道を選んだのだろう?地導使いの女との出会いという偶然に助けられたとはいえ、半端な覚悟では出来ぬ判断だ。故にお前は女神に選ばれた」

「俺の覚悟が…?」

「その通りだ。先程私はお前のことを弱いと言ったが、それはあくまで肉体の話に過ぎない」

「だったら猶更俺はお前たちの仲間になんてなれない…!さっきも言った、俺はお前を倒す為に…」

だがそれを言い終える前にゼラがシャルを支える手を放す。支えを失ったシャルは足の踏ん張りが間に合わず、膝から崩れ落ちるように力なく倒れた。地面に手をつけ、顔を上げると二人は遠くから馬に乗って駆けてくる人物を見ていた。

(あれは…!!)

それを確かめたシャルは心から安堵した。その人物は遠くからも分かる程の大きな体に巨大な槍を持ち、黒い鎧を身に着けていた。間違いない、あれは帝の腕を率いていたシユウという男だ。

(俺を追ってきてくれたんだ…!本当に良かった)

しかしシユウを見る灰の風二人は迫り来る巨躯を見ても、臨戦態勢を取ることも無ければ、馬に乗り逃げようとする気配も見せない。

(な、何でこいつら…)

「時間だ。お前からの返事は後で聞く」

シャルが困惑しているとゼラがキオの背後に回り彼の手を縄で縛り始める。だがその動きも非常に悠長でシャルを連れてシユウから逃れようとするような雰囲気ではない。そうこうしている間にシユウはどんどんこちらに近づいてくる。しかし奇妙なことにシユウもこちらとの距離が詰まるに連れ、その大槍を構えるようなことをせず寧ろ馬の速度を緩めている。

「あぁそうだ、もう一つ伝え忘れていたな」

後ろ手に縛られたシャルのほうをゆっくりと振り返りながら、タルシュは微笑を浮かべる。その表情は勿論優し気なものなどでは無く、彼を心の底から嘲るような様子だった。

「ついさっきまでお前らを守り、帝の腕を指揮していたあのシユウという男。あれは私達と手を組み、東ノ国を裏切った男だ。先刻の大商隊の襲撃、あれも私達とあの男が仕組んだものだ」

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