第43話  受けます

 2013年の8月は記憶にあるよりも暑い8月だった。


 約束の日、永礼は狂いに狂った生活サイクルを無理やり是正して朝の6時に起きた。起きた瞬間セミの絶叫とむっとする夏の空気が押し寄せてきた時はあまりの恐怖に心が折れそうになったが、クーラーをつけて1階の洗面所で顔を洗った。汗でずぶ濡れになったシャツを脱いでシャワーを浴びると、いくらか気分がさっぱりした。


 風呂場から出ると、マイがリビングのソファに寝転がっていた。こちらに気づくと、


「今日早いじゃん」

「出かける予定があってさ」

「珍しいじゃん。夏休み全然外出てなかったのに」

「こんな殺人的な暑さで外に出る奴は頭おかしいんだよ。お前は部活?」

「うん」


 二人でトーストを食べた後、マイは中学指定のジャージに着替えて炎天下も厭わずに家を飛び出していった。その背中に英雄の器を見ながら、永礼はクーラーの風が直に当たる場所でしばらく仁王立ちをした後、ようやくオーバーサイズの半袖と七分丈のズボンに着替え、サコッシュに財布とモバイルバッテリーを詰めた。


 朝というにもかかわらず、予想通り外は溶けるような暑さだった。風すらも生ぬるい中、永礼はママチャリを駆って砂漠のような空気の中を駅目指して漕いだ。


 朝の羽後牛島駅は人もまばらだった。いつ駅としての機能を失うかも分からないホームで数分待った後、やって来た電車に揺られて秋田駅へ到着した。


 一周目の人生では訪れることも稀だった。秋田県は車社会だからというのもあるが、永礼自身が引きこもり体質だったからだ。外に出てショッピングなりスポーツなりをするよりも、家で漫画と小説を読みアニメを観ていた方が楽しかったし、人生の豊かに寄与すると本気で思っていた。


 今はどうなのだろう。一周目の高校時代にもそれなりに付き合いのあった友達と稀な頻度でカラオケや食事に出かけることはあった。今は秋月に牧島、そして鬼塚といった少女たちとの交友が深まり、ラーメンを食べたり買い物に付き合ったり、夕まぐれの闇の中で告白されたりした。全て外での出来事だった。


 10年前に感じた2013年の夏の暑さが、シャツを隔てて親しみを増したような気がする。


 永礼は下手くそな鼻歌を歌いながら待ち合わせ場所へ歩いた。


 牧島は既に中央改札前に到着していた。壁に寄りかかって本を読んでいる姿はよくできた芸術のように思えた。


「よっ」


 声をかけると、牧島は不審そうな目で見あげた後、ふっと顔を綻ばせた。


「なんだ、コウタロウ君じゃない。ナンパかと思ったわ」

「俺がそんな器かと思うか?」

「天地がひっくりかえってもありえないわね」


 本当にそこら辺の女性に声かけてやろうかと思った。


 牧島が歩き始めたので後ろからついていく。あの日二人で買い物に出かけた時も同じように俺が後ろからついていったな、と永礼は思い出した。


 奥羽本線おううほんせんに揺られて北進する間、二人の間で交わされた会話は少なかった。一般に夏休みを挟んで会う同級生にははにかんだコミュニケーションになりがちだが、それだけではないのだろうと永礼は思った。




 # # #




 土崎駅つちざきえきに降り立ったのは、一周目の人生を含めて初めてだった。市の中心部から離れた場所とたかを括っていたが、予想以上に大きい駅の構えに永礼は降り立った。少なくとも彼の最寄り駅よりは立派だった。


「一昔前の学校みたいな駅舎だな」

「面白いわよね。私も初めて見たわ」


 唐破風からはふに煉瓦風の壁、そして丸時計がかかっている構えの頭上に、一片の千切れ雲が浮かんでいる。


 牧島の妹の家は、ここから歩いていける距離ということだった。近くのコンビニで飲み物を買い、連れだって歩き出したが、いくばくも行かないうちに滝のように汗が噴き出してきた。


「あっついなしかし」

「そうね。今日は30度を超えるらしいわ」

「マジかよ……」


 牧島も顔をしかめていたが、永礼と違って汗の一つも流れていない。彼女は徐にバッグから日傘を取り出し、頭上に広げた。


「あ、日傘。いいなそれ」

「入る?」

「小さいからいいよ。俺も帽子被ってくればよかったな」

「コウタロウ君、帽子被るの? 意外ね」

「なんでだよ。俺だって帽子くらい被るぞ」

「あまり似合ってないんじゃないかと思って」


 永礼は愕然とした。


「俺って帽子似合わない?」

「少なくともキャップは」


 牧島はスマートフォンを操作してマップを表示した。覗き込んでみるとここから徒歩で15分程度かかるらしい。炎天下をそんな時間歩かなければならないことにウンザリしつつも、二人は歩き出した。




 # # #




 目的地――吉井家は瀟洒な戸建住宅だった。明るい橙色の壁面には窓がいくつかあり、焦げ茶色の玄関ドアの横に「吉井」という名前を彫ったプレートが飾られていた。


 石垣の向こう側に家を見ながら、永礼は「デカイな」と声を漏らした。それに牧島が頷き、


「大きいわね。私の家とは大違い」

「母子家庭なんだろ?母親が医者でもやってるのかね」

「彼女からそんな話は出なかったけれど」


 彼女、とは妹である嘉穂のことを指しているのだろう。


 二人でインターホンの前に立ち、そのまま何もせずに突っ立った。


「おい、早くインターホン押せよ」

「嫌よ。あなたが押しなさい」

「なんでだよ。お前が始めた用事だろうが」

「いざとなるよ緊張してきたのよ」


 牧島は悪びれることも無く堂々と言い放った。


「なんだそれ……なら押すぞ。いいんだな?」

「ええ。いや、ちょっと待ってちょうだい。汗が出てきたわ。それに前髪も調子が悪いかも」

「ただの言い訳じゃねえか。押すぞ」

「待ってちょうだいって言ってるじゃない」


 インターホンにかけた手を牧島に握られ、男の手とは違う感触にドキドキしていると、目の前のドアがガラリと開いた。


 明るい茶髪をショートヘアにした少女が立っていた。


「人の家の前でイチャイチャしないでください。日中とはいえ慎むべきかと思いますが、姉さん」

「ああ、ごめんなさい……って」

「私が吉井嘉穂です。はじめまして、姉さん」


 目の前の少女がぺこりと頭を下げた。




 # # #




「暑いでしょうし、中に入ってください」と声をかけられ、永礼と牧島は家へ上がった。玄関を真っすぐ行った先のドアを開けるとリビングになっており、右手側にテレビやソファ、左手にシステムキッチンがある。テレビは一周目を含めてなかなかお目にかかれない巨大な薄型テレビだった。「テレビのデカさが所有者の富を測る基準になる」というのが持論の永礼は圧倒され、何も映っていない画面を食い入るように見つめた。ブラックアウトした画面に必死の形相で何かを睨む自身の顔が反射した。


「わざわざ暑い中お越しいただきすみません」


 吉井嘉穂が二人の前にお茶の入ったコップを置いた。


「こちらこそ押しかけてしまってごめんなさい。お母様は?」

「仕事で出てます」

「そう」

「はい」

「……」

「……」


 生き別れの姉妹の間に沈黙が降りた。気まずさを永礼が感じていると、「そちらの方は?」と吉井が目を向けてきた。


「ああ、俺は」

「勝手についてきたストーカーよ」

「そう、勝手についてきたストーカー……じゃねえよ。永礼高太郎っていうんだ。ユヅ――お姉さんの友だちってことになるのかな、よろしく吉井……さん」

「カホでいいですよ」

「じゃあ吉井で。えーっと、吉井は中学二年生だっけ? 部活は何かしてるの?」

「バドミントンをやってます。今日は休みですが」

「へえー」


 表情の乏しい子だな、と思った。会話のやり取りをしている最中、彼女はハキハキと答えてはいるものの、会話を彩る表情の変化がほとんどない。声音にも感情らしい感情が見当たらなかった。まるでロボットか、昔ドラマで観たアンドロイドのようだった。その点では牧島と対照的だった。牧島は普段クールに澄ましているが、人と会話する時はほとんど敵意のようなものを露わにする。つっけんどんな態度を取り、辛辣な言葉を発し、そしてその中には豊かな感情表現がある。アンドロイドというよりは、周囲を信じられなくなった幼い子どものようなものだ。


 今だって牧島は生き別れの妹を目の前にして、動揺、歓喜、不安といったアンビバレントな感情を顔に浮かべ、言葉で表している。学校の生徒は彼女を「クール」と言うが、よく見れば感情豊かなのだった。


 吉井と無難なラリーを交わしていると、隣で黙然と座っていた牧島が「コホン」と咳払いした。


「カホ、色々聞きたいことはあるのだけど……一つだけ聞かせて」

「なんでしょうか」

「ここにあの男は来た?」


 あの男、とは彼女達の実の父親のことだろう。


 吉井は「来ました」と平然と言った。「私たちがご飯を食べている時に」


「その時、何か言われた?」

「これを渡されました」


 吉井は近くにあった棚にしまっていたクリアケースを掴み取り、その中に収まる紙を二人の前に突き出した。


『テレビドラマ『君の嘘が晴れる日に』高木彩月役オーディションのお知らせ』


「んだこりゃ?」

「ドラマのオーディションですよ。出番はそこまで多くない役ですが」

「これ……私もアイツに紹介されたわ。しかも同じ役」

「はあ?てことはなんだ、姉妹で同じ役を競わせようってつもりなのか?」

「なるほど。そういうことですか」


 吉井はうなずいた。「多分、私たちを競わせて勝った方を可愛がろうという魂胆なのでしょう」

「なんだよそれ、ライオンかよ」

「だとしたら本当に非常識ね。浮気ばかりして挙句の果てに子供全員の面倒も見られないなんて。器の小ささが知れるわ」

「なあ。吉井はこのオーディション、受けるのか?」

「受けます」


 吉井はきっぱりと言い放った。欠片の揺らぎもない瞳だった。


「役者になりたいとか?」

「いえ、これまでは別にこの世界に興味はありませんでした。本が好きなので編集者になりたいと思ってましたし。けど、あの人が来てから考えを改めました」

「どういうこと?」


 牧島が問う。


「あの人……滝沢雅臣が来た日、母はとても嬉しそうな顔をしていました。これまで母はずっと苦しそうだったんです。私には優しくしてくれましたが、女手一つで子供を育てるのは相当苦労があったのでしょう。養育費はいくらか貰っているようでしたが、仕事で帰りが遅くなる日もしょっちゅうありました。母、看護師なんです。夜勤でいない日もありました。今でこそ慣れましたが、小さい頃は『どうしてお母さんは一緒に寝てくれないんだろう』と泣いたこともありました。けど、授業参観や親子で何かをする日は、必ず時間を作ってくれました。そんな優しい母なんです。そんな母が、彼がここに訪れた時、とても嬉しそうに笑っていたんです。人生で一度も見たことのない笑顔でした。だから決めたんです」


 吉井は深呼吸をし、「あの人を――滝沢雅臣を母の元に取り戻す、と」と言った。




再会編 了

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永礼高太郎逆行記 國爺 @kunieda1245

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