第39話 気を抜くと泣きそう

「はい、じゃあこの前の模試の結果返しますね~」


 夏休みまで残り一週間を切った7月、ホームルームでの開口一番に谷川先生が告げた。教室は体育会系を中心にざわつき始めるが、定期試験の結果返却の時ほどではない。


 一方の永礼の内心は荒れ狂いまくっていた。


 いくら一年生時点での模試とはいえ、形式は幾分大学入試に近い。ここで点数を取れるか取れないかが、今の実力を測る試金石と言えた。


 そんな試験であり、彼自身これを最初の山場としていたが、試験当日のコンディションは最悪に近い状態と言ってよかった。


 言うまでもなく牧島との一件である。


 結局彼女との会話はあれが最後となっていた。話しかけようにも無駄に繊細すぎる彼の心が防衛反応を出して阻まれる。向こうにもすっかり壁を築かれてしまい、接触もすっかり絶えていた。まるで入学初日に戻ったかのようであった。


「永礼君」

「はい」


 彼が教卓の前へ成績表を取りに行くと、表を渡される際、谷川先生から小声で「どうしたのですか? あまり振るわなかったみたいですが」と囁かれた。


「ちょっと色々と」


 誤魔化すように言って席へ逃げ帰り、恐る恐る見てみると、目を覆いたくなるような順位がそこには書かれていた。一周目でさえこんな順位になったことはない。


 両手で顔を覆っていると、案の定というべきか、秋月がトコトコと席へ寄ってきた。


「ねーねー永礼」

「……今は独りにしてくれ」

「どしたの。泣いてんの?」

「泣いてないが、気を抜くと泣きそうだ」

「えー」


 秋月は永礼の机の上に無防備に晒されていた成績表を手に取り、二つ折りになっていたのを開いた。


「校内125位!? アタシより下じゃん!」

「声でけーって」


 秋月から成績表をひったくり、改めてそこに書かれた数字を眺める。校内、全国ともに辛うじて偏差値は50を上回っていたが、やはり26年間を通じて最低の成績だった。しげしげと見つめてもインクが魔法のように変化することもない。


「悪夢だ……」

「まーまー。模試なんて本番じゃないんだしさ。ちゃんと復習して次頑張ればいーじゃん」

「正論による慰めをありがとう。秋月はどうだったんだ?」

「これ」


 秋月が持っていた成績表には、「校内順位:32位/246人中」という文字が並んでいた。


「普通にいいんだな……」

「定期試験よりは順位落ちちゃったけどね。勉強足りなかったかも」

「けどこの順位キープできるなら、国立は余裕で射程圏内だろうな」

「ほんと?」

「ああ」


 そう言うと、秋月は上機嫌になった。そして「ねー、牧島さんはどうだったの?」と特攻ブッコミをかけに行った。


 牧島はクマの目立つ目を細めて秋月を睨むと、何事もなかったかのようにプイと視線を机に戻した。


 いつもの通りの塩対応――その他大勢のクラスメイトたちにはそう映ったことだろう。


 しかし、付き合いの深い永礼と、そして秋月には違う印象を与えた。


「疲れてるの? 牧島さん」

「……別に」

「だって目にクマが」

「なんでもないと言ってるでしょう。あなたに何か関係があるの?」

「あるじゃん。友達だし」


(攻めるなあ)


 永礼が感心してやり取りを見守っていると、牧島はため息を一つついた。


「最近寝つきが悪いから。それだけ」

「何か悩みごととかないの?相談乗るよ?」

「いらない」


 秋月は永礼をちらりと見た。

 彼は首を振って答えた。


「そっか。でも、無理しすぎないでね」


 と言い、秋月は自席へ戻った。牧島はため息をつき、額に手を当てた。やつれた顔に脂汗が浮かんでいる。明らかに体調不良の兆候が出ていた。


「ユヅル、保健室に行こう」

「放っておいて」

「できるわけないだろ。そんなに具合悪そうなのに」

「放っておきなさいと言ってるじゃない。偽善者ぶらないで」


 ギロリと睨まれるが、社会人生活で身長190センチメートルのゴリマッチョに威圧された経験がある彼にしてみれば怖くもなんともない。


 手を挙げた。


「先生、保健室に行ってきます。牧島さんが体調不良だそうなので」

「そうなのですか?分かりました、お大事にしてください」


 谷川先生が心配そうに言うのに頷き、「ほら行くぞ」と隣の席の牧島を促した。


「ちょっと、ふざけないで」

「俺は人生いつだっていきあたりばったりの真剣勝負だ」


 牧島の手を取りいささか強引に引くと、弱い抵抗があったが、彼女は何も言わずに従った。


「あなたのそういうところ……」


 か細い声が聞こえた。「何だ」と聞くと、「なんでもないわ」と返される。




# # #




 保健室に訪れるのは、ひょっとすると前回の人生を通して初めてかもしれない。養護教諭は不在だった。真っ白なベッドが3つ、オレンジ色のカーテンに仕切られ並んでいる。


 窓越しから体育の授業を受けている生徒たちの賑やかな声が聞こえる。外を見ると、授業でソフトボールをやっているらしく、体格のいい生徒が小気味よい風切り音を立ててバットをフルスイングしていた。


 対するこちら側は静謐な空間だった。


 消毒液の匂いがする。誰かが少し前にここへ訪れたのだろうか。


 永礼は牧島を丁重にベッドへ寝かせた。毛布をかけてやると、彼女は気恥しそうに顔を背け、「子供扱いしないでちょうだい」と囁いた。


「子供だろ」


 永礼は手近にあった丸椅子を引き寄せて座った。


 穏やかな時間が流れている。


 先を急ぎすぎていたようだ、と思う。


 前の人生で挫折し、次こそはと無我夢中で突き進んできた。


 得られたものはたくさんあった。学力は何にも代え難いし、牧島と秋月ら一周目の人生では関わることのなかった学友もできた。


 それでも、目の前で目を瞑る牧島のように、まだ見たことのないものは沢山ある。そうした事物に足を止めることもまたかけがえのないほど大切ではないかとふと思った。まだ4ヶ月ほどしか経っていないにも関わらず、目をとめずに素通りしてきたものが数多くあるような気がした。


「教室に戻りなさい」


 か細い牧島の声が聞こえた。


「寝てなかったのか」

「あなたがいるから寝られないわ」

「寝顔を見られたくないのか」

「うるさい」


 牧島は顔まで毛布を引っかけた。駄々っ子そのものの仕草に、笑みが浮かんだ。


「保健室の先生が来るまでだよ。来たら出ていく」

「そう」


 永礼は持ってきた文庫本を開いた。


「何を読んでいるの?」

「『太陽の塔』」

「『高丘親王航海記』はもう読み終わったの?」

「つい昨日な。というか、俺がそれ読んでること、言ってたか?」

「あれだけ派手なカバーだったら嫌でも目に入るわよ」

「そうか」

「……『太陽の塔』って、万博の?」

「ああ。内容は全然関係ないけどな。冴えない大学生がひたすら理屈っぽく阿呆なことをするだけで」

「そう」


 牧島の声がだんだんと眠気を帯びてくる。それから二言三言交わしているうちに、静かな寝息が聞こえてきて、そして相槌と返事が聞こえなくなった。


 教室へ戻ろうかと思ったが、保健室の主はまだ来ていない。しばらくここに留まることにして読書を続けていると、「コウタロウ君、まだいる?」と、蚊の囁くような声が聞こえた。


「いるぞ」

「戻らないの?」

「まだ先生が来ないんだ。どこ行ったんだろうな」

「そう。……ねえ、コウタロウ君」

「どうした? 喉渇いたか?」

「いいえ。……その」


 牧島は毛布の端をちょこんとつまみ、小さな声で「話を聞いてほしいのだけど」と言った。


「話?」

「ええ。私の家族の話」


 永礼は背表紙にかかっていたスピンを読みかけのページに入れ、本を閉じた。


 牧島が上半身を起こした。


「私の両親、離婚しているの」

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