第38話 あの永礼が?
翌日のことである。
永礼が自席で模試の過去問を解いていると、隣の席に人が座った気配がした。見てみると牧島である。
「おはよう」
声をかけたが、返事はなく、黙々とカバンから教科書類を机へしまう作業をしている。
「昨日はどうしたんだ?」
と彼が声をかけると、その動作がピタリと止まった。
「別に。なんでもないわ」
「ならいいんだが」
「昨日もラインしたでしょう。大丈夫よ」
「そうか」
本人に言われたらそれ以上何も言えないが、明らかに疲れているような様子である。目の下の隈が一昨日よりもはっきりと分かるくらいに濃くなっている。
「暁美さんの風邪が悪化したのか?」
「いいえ」
彼女はきっと彼を睨みつけ、「いい加減しつこいのだけど」と言い放った。
固まった。
彼にしてみれば百パーセント善意で言った言葉である。それを突き放すような言葉で返され、永礼は年甲斐もなく放心してしまった。
牧島とは良き友人関係を築けていると思っていた。というのに、他の男子に放つような冷淡な言葉を浴びせられた。自分が彼女にとって多少なりとも特別になれていると思っていただけあって、彼の心は
「あ……ああ、わ、悪い」
そう言うのが精一杯だった。彼がそう絞り出すと、牧島がはっとした表情に変わったが、何か言われることは無かった。
# # #
「よっ」
1時限目の数学Aが終わった後の休み時間、窪塚が寄ってきた。
「おう」
「どうしたんだよ。浮かない顔して」
「そんな顔してたか?」
「スターゲイザーみたいな顔してたぞ」
スターゲイザーとはイギリスの郷土料理である。パイに魚の頭を上を向くように縦にぶっ刺した奇妙奇天烈な料理で、呪術に用いる道具か何かのように筆舌に尽くしがたい妖気を帯びている。
永礼が「マジか」と言うと、
「牧島ちゃんと何かあったのか?」
「ギクゥ! そんなことないよ」
「嘘言うなって。顔に出てっから」
バンバンと窪塚が彼の肩を叩く。
「そんなに出てるか?」
「ああ。永礼にしては珍しくな」
「そうか。ちょっとな」
「なんだ。フラれたか?」
「そんないいもんじゃないさ」
「まっ、なんかあったら相談してくれよ。で、なんで牧島ちゃんは昨日休んだんだ?」
「教えてくれなかったよ」
「ふうん。お前にも教えないようなことなのか」
「本人は『大丈夫』って言ってたから」
「あのなあ。女の子が言う『大丈夫』ってのはSOSのサインなんだよ。そういう時は何かあったってことだよ」
「え、そうなの?」
またしてもコミュニケーション能力において窪塚に上を行かれ衝撃を受けた。
「そういうわけだからさ。ちゃんと彼女と向き合った方がいいぜ」
「……分かった」
彼がうなずくと、窪塚は満足げにうなずいた。
# # #
時折、永礼は考えることがある。
帰宅部の高校生男子たる一周目の自分は、いかにしてこの果てしなく膨大な時間を空費していたのであろうかと。
今のように空いている時間のほぼすべてを勉学に費やしていたことは無論ない。かと言って空き時間を読書に
ではいかにしてか。
残念ながら彼の脳は、彼の人生の軌跡をほとんど覚えていなかった。彼の記憶力が低能であるというよりは、一周目で歩んだ軌跡があまりにも低俗すぎたがゆえに留めていなかったのである。
「ねえ永礼」
「ん?」
彼が物思いにふけっていると、秋月が声をかけてきた。時刻は18時、場所は教室にて。彼が誰もいない教室で勉強していたところ、何故か彼女がちょっかいを出して来たのであった。
「お前、なんでこの時間にまだいるんだよ」
「保健室で昼寝してた」
「保健室を私物化するな」
「いーじゃん固いこと言わなくても」
彼女は永礼の前の席に腰を下ろした。「あっつ~」と言いながらワイシャツの襟元をパタパタあおぐと、見えてはいけないものが見えそうだった。
「永礼はまだ帰んないの?」
「ああ。キリのいいとこまでやって帰る」
「そっか。ねえ、今暇?」
「だから勉強してるって」
「それ暇ってことじゃん。あのさ、牧島さんのことなんだけど」
「お前も聞いてくるのか。俺も何も知らないぞ」
「えーそうなの? とか言ってなんか知ってるんじゃないの?」
「マジで知らねーし」
ギャルっぽく彼が言い返すと、「そっかあ」と言って秋月は彼の机の上に腕枕をつくり、そこに顔を埋めた。
「どうしたんだろ」
「どうしたんだろうな」
「ねーほんとに心当たりとかないの? 牧島さんと仲良いの永礼くらいじゃん」
「だから知らないって言ってんだろ」
「アタシの知らないとこでなんかやらかしたんじゃないの?」
「ギクゥ! そんなことないよ」
「え、ほんとになんかやらかしたの?」
「あの永礼が?」と言う秋月の目は、新しいおもちゃを見つけた子供のような輝きを帯びている。あのと言われても、特に人よりも何事もそつなくこなしていた覚えはなかった。
「牧島からは『あなたのせいじゃない』って言われてはいるんだけどな」
「なにやらかしたの? 胸揉んだとか? 押し倒したとか?」
「おっさんかお前は。やってねえよんなこと」
「でも心当たりはあるんでしょ?」
「まあ、ないこともないが」
「ほら~やっぱりやらかしてんだって。早く謝りな? 女の子ってそーゆうとこ怖いよ」
一周目の高校生活では男女問題で女子生徒とよく揉めていた印象のある秋月が言うと、妙な説得力があった。
「けど、はっきり分かってないのに謝ったら火に油注ぐだろ」
「そこはほら、怒りだしたらキスして押し倒したらいいじゃん」
「よくねえよ。てか、そんなことしていいのかよ」
「んー?」
「お前の告白の返事まだしてないし」
「アタシは彼氏が別の子と仲良くてもいいよ。アタシが一番だったらそれで」
「お前の恋愛観は一刻も早く矯正すべきだと思う」
と言って、永礼はテキストをカバンにしまい立ち上がった。
「どこ行くの?」
「今日はもう帰るよ」
「あ、じゃあさじゃあさ、どっか行こ」
「もう18時半だぞ」
「夏だしまだまだ明るいって。ね? お願いっ」
秋月は席から立ち上がると、彼の左腕に抱き着いてきた。夏用の白いセーラー服越しに、彼女の柔らかい弾力溢れる肌が彼の半身へ吸い付いた。
「おい、離せよ。暑いって」
「今日涼しいじゃん」
「そういうことじゃなくってな」
「なになに~、照れてんの?」
「照れてない。断じて」
無論嘘である。気を抜くと赤面して声が上ずり挙動不審になりそうなところを必死に抑えていた。
しかしその時、
『今まで通り友達として接してほしいけど、女の子としては見てほしいかな。そのために告ったんだろうし』
という舞の言葉が頭に浮かんできた。
「いや、嘘をついた」
「え?」
「実はものすごくドキドキしている。心臓が今にも張り裂けそうだ」
あくまで表情を崩さず、声音を変えず、彼が言うと、秋月は途端に顔が真っ赤になった。
「ふ、ふ~ん、そ、そっか。え、なになに、アタシのこと、その、意識してんの?」
「してる」
「――ッ!!」
秋月がガバッと彼から距離を取った。
「どうした?」
「……身の危険を感じる」
「濡れ衣だ」
言われた通りにしたのに、どうしてそうなる。
彼は理不尽に思った。
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