第40話 おやすみ、ユヅル

「……そうか」

「ええ、今は母と暮らしてる。離婚した原因は父の浮気でね。滝沢雅臣たきさわまさおみっていう俳優、知ってる?」

「なんとなく。俺はドラマや映画を観ないから、バラエティに出てきたときに見かける程度だが」

「それが、私の父親」

「……マジか」

「ふふ。驚いた? コウタロウ君のそんな顔、初めて見たわ」


 どこか投げやりな笑みを牧島は浮かべた。


「驚いたが、納得感もあるよ。あのイケメン俳優から生まれたなら色々納得がいく。でもそうか。あの俳優、不倫で離婚していたんだな」

「離婚したのは私が5歳の時で、その頃はやっと芽が出たくらいだったのだけどね。役をもらい始めて天狗にでもなっていたんじゃないかしら。……いえ、そもそも最初から異性にだらしないところがあったし、家庭を顧みなくて家に全然いなかったから、父親という感じも一切ない。大っ嫌いだった」


 永礼の父親は普通のサラリーマンだった。そこそこ残業のある職場で働き、それなりに付き合いで飲み会に参加してもいるが、家族に対する愛情はちゃんとあった。この前の休日にも、2時間自家用車を飛ばして男鹿水族館GAOへと連れていってくれた。


 母親も父親を愛しており、マイも両親に対してはいい子として接している。


 そんなの家庭に生まれた彼にとって、牧島の家庭事情を真の意味で想像することは困難だった。


「離婚してむしろせいせいしたわ。母は好きだもの。それからは2人で暮らしていたのだけど……先週あなたが家に遊びに来てくれた日、夜にいきなりあの男が来た。追い出そうと思ったけど家に入ってきて、『綺麗になったな』ですって。呆れて言葉も出なくなったのだけど、それに続けて――なんて言ったと思う?」

「分からん」


「『これならオーディションも受かれるな』」


 突風が窓を揺らした。


 外界を砂ぼこりが舞う中、永礼はこれがきっかけだったのかと一人合点した。未来の人気女優・牧島弓弦の華々しい生活は、5歳の頃に経験した悲劇が刻んだ亀裂をきっかけとして、血のように咲き乱れた深紅の花だった。


 直接のきっかけになったのかはまだ分からない。


 しかし、父親との確執が――逆説的にも思えるが、彼女と芸能界を繋ぐ縁となったのだろう。もちろん、一周目の人生では知る由もなかった。


「オーディションってのは、やっぱり役者としてのアレなのか」

「ええ。アイツ、どうも自分の子供にも芝居をやらせたかったみたい。それで、高校に上がると多少は時間に自由も効くだろうとか考えて来たんだと思う。本当に呆れるわよね。厚顔無恥なんてものじゃないわ」

「……そうだな」

「だから言ってやったの。『ふざけないで。今すぐここから消えて。もう二度と私とお母さんの前に姿を現さないで』って。……母もいたのだけど、呆然としちゃってて。そしたら……そしたら……」


 牧島の声が震えている。


 彼女の掴んでいる毛布がクシャクシャになっていた。


「辛いなら、無理して話さなくても」


 いいんだぞ、というのを遮り、「ごめんなさい」と牧島は言った。「ごめんなさい、取り乱してしまって。そしたらアイツ、『お前の妹も受けるんだから』って、何食わぬ顔で言ったの」


 今度こそ永礼の時間が止まった。


「……妹が、いたのか」

「私もその時、初めて知ったわよ」

「それって」

「そうよ。他所の女の人と子供を設けていたの」


 言葉を失った。彼の人生経験は確かに牧島よりも10年長い。しかし、第三者としてでさえ、この事実を受け止める度量は無かった。


「私が2歳の頃に相手の妊娠が発覚したみたいで、今は中学2年生。市内の中学校に通ってるみたい。写真を見せられたけど……正直、可愛かった」

「ユヅルの妹なんだから、可愛いだろうな」

「そうかもしれないわね。『考えておいてくれ』とだけ言い残してアイツは帰ったけれど、母が……相当ショックだったみたいで、風邪がぶり返して寝込んでしまって。その看病もあって、それにアイツの爆弾発言もあって、ちょっと心に余裕が無かった」

「すまん、そんなこととは露知らず」

「コウタロウ君が謝ることじゃないわ。……話したら、疲れたみたい。少し寝る」

「分かった。おやすみ、ユヅル」

「おやすみ、コウタロウ君」


 牧島の寝顔は憑き物が取れたかのように穏やかだった。寝息も規則正しく、苦しげな様子は見受けられない。


 再び静寂を取り戻した保健室の中で、永礼は物思いに耽った。


 牧島が芸能界に入るきっかけとなったのは、父親との再会で間違いない。いかに最悪の出来事だったとしても彼女の人生を方向付けたことに変わりはない。


 ただ――彼女本人がそれを望んでいないことは容易に察することができた。そして、そんな話をしたということは、彼女は永礼に対して何かしてほしいことがあることの裏返しに違いなかった。それが彼女の背中を押すことなのか、あるいは手を取って引き戻すことなのか、今はまだ分からなかった。


 腕を組んで黙然としていると、やがて養護教諭がやって来た。彼は牧島の容態について取り次ぎ、そこそこにして部屋を辞した。


 教室に帰っても、永礼の心はどこか上の空のままだった。


 # # #


 ある朝、寝苦しい酷暑の夜に苛まれた永礼が、いつもよりも早い時間に教室に来ると、まだ朝早い7時前にも関わらず、隣席の少女が着席していた。


「今日は早いのね」

「昨日暑すぎて眠れなかったんだ。部屋にエアコンが無いから」

「最近暑いものね」

「本当にそうだな」


 自席に座って教材を整理しながら、ちらりと牧島を見た。


 凛とした横顔は一時期よりも大分血色が良くなった。夏バテ気味の彼よりもよほど健康そうに見える。


 今日の朝勉のために持ってきたテキストを取り出して開くと、


「今日も朝から勉強するの?」


 牧島が頬杖をついて微笑みながら尋ねてくる。


「まあな。もうすぐ夏休みだが、気は抜けん」

「そういえばもうそんな時期ね。コウタロウ君は何か予定はあるの?」

「今のところ勉強だな。夏期講習も受講しようかと思ったけど、思ったより高くてさ。今年は見送って来年夏から受けることにした」

「そう」

「ユヅルは何か予定、あるのか?」

「あら。デートにでも誘うつもり?」

「話の流れだろう」

「そうね。私も宿題を片付ける程度には勉強をして……東京の美術館に行こうかしら」

「美術館巡りか。いいじゃないか」

「それから、これ」


 そう言うと、牧島はスクールバッグの中から一枚の紙を取り出して永礼に渡した。A4の紙に、ネットから取ってきたらしいマップが印刷されている。赤塗りで経路が示されていて、一端の位置をよく見れば牧島の家のように思えた。


「ここ、ユヅルの家か?」

「ええ」

「こっちは? 見たところ土崎あたりっぽいな」

「吉井さんのお家よ」

「吉井?」


 クラスメイトに吉井という苗字はいない。そうであれば彼女の校外の友人だろうか。


「誰だか分かる? あなたも知ってるわよ」

「え、マジで? 待ってくれ今思い出すから」

「思い出せなかったから文庫本一冊ね」

「馬鹿にならない賭けだな……なら教えてくれよ」

「あら残念、欲しい本があったのに。その家の娘さんが、私の妹」


 永礼ははっとして顔を上げた。

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