第1話 俺って何歳?
目を開けると、知らない天井が目に入った。
「……ん?」
違和感はそれだけではなかった。そもそも目覚めた部屋が、永礼が昨日まで住んでいたワンルームと全く違う。バネ付きのベッド……焦げ茶色の勉強机……白い本棚……。
だが、全く違うとはいえ、全く知らない部屋ではない。むしろ、はるかによく知っている部屋と言い方を変えても良いだろう。
「実家の部屋……?」
目に入るものすべて……例外なく、高校生まで過ごしていた実家の自室にそっくりだったのだ。だが、なぜ俺は実家にいるんだろう? 昨日は仕事を終えて帰宅したはずだが……そこから実家に至るまでに生成されているはずの記憶が一切無い。
もしかしてあの後、病気か何かで倒れたりしたのだろうか。独身男の緊急連絡先と言えば、たいていは親だろう。それだから連絡が行って、実家に引き取られたのかもしれない。そして病気の発作で、記憶が欠落している……。
そんなことを考えながら、とにかく家族がいるであろうリビングへと向かう。階段を下りてドアを開けると、使い古された食事用の机と椅子が懐かしい。もう何年も実家に帰っていなかった。
目玉焼きの焼ける匂いがする。キッチンに目を向けると、永礼の母が食事の支度をしているところだった。
「あらおはよう。今日は早いのね」
「おはよう。……なあ、俺、もしかして倒れたりした?」
「何言ってんの? 寝ぼけてる?」
「いや、だって、実家に帰ってきてるから。大変だったんじゃないかって」
「帰ってきてる? 何言ってんの、ここに住んでるんじゃない。まったく……今日は高校の入学式なんだから、シャキっとしてよ」
「…………は?」
母は呆れたように言うと、朝食の支度に戻った。
今日は高校の入学式? 誰の? 永礼高太郎は27歳で、年子の妹は26歳。どちらも実家のある秋田から東京に出て働いており、子供はいない。
記憶よりも若い母さん……数年前に買い替えたはずの、古いテレビ……引退したはずのアナウンサー……。
「邪魔」
後ろから背中をド突かれ、前のめりに数歩よろける。振り返ると、豪快な寝癖を頭につけた妹の
最近会ったのは5年位前だったか。インターンで東京に出てきたという連絡があったので、一緒に夕飯を食べに行ったのが最後だった。もっとも、永礼兄妹の兄妹仲は高校のあたりからずっと冷え切っており、マイが彼に連絡してきたのも、彼がマイを夕飯に連れて行ったのも、半ば家族であるが故の義務的な感情に由来するものであって、食事中は全くと言っていいほど会話をしなかったし、店を出た瞬間にその場で解散になったくらいだった。
なぜそんな記憶を思い出したのかと言うと――目の前にいるマイが、最後に会った時のマイより、かなり幼く見えたからであった。よく言えば純朴、悪く言えば芋っぽい。インターンで上京した時は暗めの茶髪だったのが、今は生まれたままの黒髪だった。
……違和感。
「なあ、マイ」
「なに?」
「俺って何歳?」
「は? ついに頭イカレたの? お兄ちゃんは15歳でしょ。あたしの一個上なんだから」
「15歳……」
「てか邪魔だから早くどいてくんない?」
「あ、ああ」
マイは道端に吐かれた吐しゃ物を見るような目で兄を一瞥すると、いつもの定位置にどっかりと座り込み、慣れた手つきでテレビのリモコンを操作し始めた。次々と切り替わるチャンネル……何年か前に終わったはずのニュース番組……。
もはや疑いようがない。
彼が今いるここは、10年前の2013年。
高校入学する年の、春なのだ。
永礼高太郎は、15歳の春にタイムリープしてしまっていた。
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春の朝日に揺れる桜の花のように頭がぼんやりする。常識を超えた現実に対処するには、彼の脳はキャパシティが足りないようだ。
夢かと思ったが、頬をつねったら痛かった。
母が作ってくれたトーストと目玉焼きを食べ、カフェオレを飲んだが、ろくに味わうことができない。食器を片付け、歯を磨いて顔を洗っても、まだ理解が追い付いていない。
「まさかタイムリープが本当にあったなんてな……」
口に出して、思わず自嘲的な笑みが浮かぶ。洗面台の鏡に映る自分の顔が、大人の自分よりもいくらか童顔に見えた。
時かけとかリゼロとか、昨日まではフィクションの出来事だったタイムリープ。
なぜタイムリープしたのか、と考えてみたが、考えるだけ無駄だと思い、やめた。あの夜、『高校時代に戻ったら』なんてことを考えていたのを、神様が見つけてくれて、哀れな自分にサプライズプレゼントを贈ってくれたのだと考えよう。それが当たっていようがいまいがどうでもいい。
問題は、これからどうするか。
そんなことは決まっている。
勉強だ。
社会人になってからささくれのように心に影を落としていた学歴コンプレックスを、二周目の人生で払しょくする。そのためには勉学に
青春? そんなものはクソくらえだ。青春で飯が食えるわけでもなし、現を抜かすだけ無駄。やりたい奴だけやればいい。彼は一周目の灰色の青春を擁護するかのように、そのように結論付けた。
そうと決まればやることは単純だった。
まずは学校へ行く。
学ランに懐かしさを覚えながら着替え、大学進学のタイミングで捨てたリュックサックを背負った。転勤の際の断捨離で捨てた白いスニーカーを履いて「いってきます」と言い残し、ワンボックスの隣に停めた自転車にまたがる。
大学時代に撤退したコンビニや焼き肉屋が立ち並ぶ風景に懐かしさを覚えながら、通学路を飛ばす。この頃まではまだ活気のある道路だったが、彼が最後に帰省した時は、シャッターと空き地の目立つ寂しい通りへ様変わりしてしまっていたものだった。
やがて見えてくる校門と明るいブラウンの校舎。建て替えから20年程度しか経っておらず、県内では指折りの新しい校舎だ。
10年以上の時を経て、また母校の前に立つ。しかも、また学校生活を送るために。胸いっぱい息を吸う……春めいた酸素が、血流に乗って身体中を駆け巡る。まるで、身体から花が咲いたかのようだった。
「あれ、コウちゃん?」
ふと横合いから声をかけられた。
見ると、ひとりの可愛らしい美少女が、高校の制服を着て、シルバーのママチャリを手押しで歩いてくるところだった。平均くらいの身長に、くりくりとした、人懐っこそうな目が印象的な小さな顔。肩まで伸ばした茶髪……前髪をヘアピンで留めている。そしてなにより、平均以上に成長した胸部。
幼なじみの鬼塚美樹だ。
「……鬼塚」
「おはよっ、今日もいい天気だね!」
そう言って、ニッコリと笑う鬼塚。彼女のこの笑顔にコロッとやられる男子生徒が多く、ひっきりなしに告白されていたものだった。
「最高の朝だよ。鬼塚も早いんだな」
「え? ああ、うん。ちょっとドキドキして眠れなくてさ」
「ガキか」
「なんだとぉ~っ!」
ガオー、と両手を挙げてアリクイみたいに威嚇する鬼塚。高校時代は、まだこれくらいの距離感で接することができてたんだなと、今更のように気づく。
「チャリ、置いてこようか」
「あ、うん。駐輪場こっちだっけ?」
「いや、こっち」
自転車を押して並び、ぺちゃくちゃと四方山話をする。鬼塚が話題にするのは、やはり高校生活に関する期待と不安が主だった。
「クラスちゃんとなじめるかな~」
「大丈夫だろ。鬼塚はコミュ力高いし」
「えーそうでもないよ? わたしだって初対面の人にはうまく話しかけられないのです!」
「そこ自慢げに言うところじゃないだろ」
「そう言うコウちゃんはどうなのよ? 高校生活楽しめそう? 彼女はもうできた?」
「まだ会ってすらない女の子を彼女と思い込むのはヤバい奴だろ」
しかも二回目の高校だ。特に期待や不安は抱いていない。強いて言えば、これから勉強に励むモチベーションを維持するために、互いに
「まあ、ほどほどにやるよ。友達つくって勉強もやって、って感じで」
「部活は? 入らないの?」
「入らない。勉強に集中したいんだ」
「ふう~ん……え? コウちゃんってそういうキャラだったっけ?」
「逆に、俺のことどういうキャラだと思ってたんだよ」
「ん~と、ちゃらんぽらんに生きてる奴?」
「泣いていい?」
期待してはいなかったが、幼なじみからの評価は思っていたよりも低かったらしい。
「勉強に集中するってことは医学部行くの?」
「医学部もいいけど……情報科学かな。コンピューターサイエンス」
「なにそれ、難しそう」
「俺もよくわからない」
「分からないのに目指すんかい!」
ボブカットの頭を揺らしながら、楽しげにツッコミを入れてくる。「まあでも」と、鬼塚は顎に手を当て、
「ちょっとコウちゃんのこと見直したかも。わたし全然将来の夢とかないし」
「将来の夢か……」
鬼塚は高校卒業後、地元大学の経済学部に進学し、新卒で都内のIT企業に就職していた。そこで出会った同僚とゴールインしていたが……。
――今ここで、鬼塚に未来のネタバラシをしたらどうなるのだろう。
彼女はどんな反応をするのだろうか。その通りの道を歩むのだろうか、それとも別の道を選択するのだろうか。
ふと思い湧いた邪念に惑わされそうになったが、慌てて首を振って払った。
人の人生を軽い気持ちでおちょくるべきではない。万が一、何らかの歪みが鬼塚に生じても、責任を取ることができないのだ。
「まあでも、鬼塚なら大丈夫だろ。鬼塚なんだし」
「なんかテキトー」
リスみたいに頬を膨らませる鬼塚。思わず指でつついてみたくなったが、中身26歳の彼がやるとセクハラになりかねないので自重した。10年後のコンプラ意識は伊達じゃない。
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