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第4話
公国領の西端、今では連邦傘下になったが、長閑な高原地帯があった。
街から外れて、人の足で10分ほど山を登った場所がザルムの目的地だった。
煉瓦造りの家が一軒。家の前は芝生のように、背の低い草が茂った緑地が広がっていて、数頭の山羊や羊が草を喰んでいる。
この家の元の持ち主の家畜だ。離れた場所に家畜小屋があり、運動と食事を兼ねて日中はここで過ごさせていた。その習慣を阻害しないことが、この場所に住む条件だったのだ。
先程から黒い毛並みの犬が、くるくるとザルムの周りをまわり、今か今かと待っている。
ザムルは犬の赤い目を見つめ返し、囁くように命令した。
「知らせてきてくれるか。」
それを聞くや否や、犬は家に向かって走り出し、存在を知らせるように何度も吠えた。
山羊や羊は一斉に左右に分かれて走り出したが、犬は家畜に見向きもしない。
家の前で右往左往していると、扉が開いて女性がそっと姿を現す。
微笑む彼女の傍から、まだ幼い子供が顔を覗かせた。
「コヨトル!」
子供は駆け出して、扉の前のテラス脇にある階段を降り、躊躇うことなく自分よりも大きな犬にしがみついた。
するともう一人、ウェーブがかった長い銀の髪をはためかせながら、家の中から駆け出してきた。
彼女はテラスの手摺りから前のめりになって叫ぶ
「あんた犬を走らせるなって何回言えば分かんなよ。羊は走り出したら危ないんだからね。ベルに当たったらどうすんのよ。」
丁度家の前までやってきたザルムは、数段上の高さに居る彼女を見上げる。
「そう成る前に貴女が守るだろ。」
「当たり前よ。だけどそもそも危ない状況にするなって言ってんの。」
「それもそうだが……。これに慣れない羊や山羊にも悪いと思わないか。」
そしてコヨトルの側にしゃがむと、ベルクと共にその毛並みを撫でる。
傍に立つザルムへ、ベルクが顔を上げて微笑んだ。
「おかえりなさい。」
ザルムが目を瞬かせ狼狽していると、もう一方の女性がクスクスと笑いながら側に来た。
彼女も白銀の髪をして晴天のような水色の目をしている。まるで陶器人形のようだ。
「ただいまでいいんじゃない。答えてあげて。」
女性に促され、ザルムはベルクに向かって呟いた。
「ただいま……。」
すると再び、
「おかえり。」
女性もそれに続く。
「おかえりなさい、ザルム」
「ただいま。ベルギス、ベリシア。ーーアクア。」
ザルムは相変わらず玄関のテラスから、三人を見下ろしていた女性を見上げた。
アクアと呼ばれた女性は、呆れたとばかりに息を吐いた。そして、
「何が『ただいま』よ。どうせそのうちアンタがーー。」
アクアが言葉を止めたのは、ベリシアが口元で人差し指を立てていたから。
アクアは咳払いして、手摺りに頬杖をついて澄ました様子で言った。
「はいはい、おかえりなさいませザルム君。ごゆっくりなさってねー。」
間を見てベリシアが言った。
「丁度よかった。これから下の水車小屋に手伝いに行かないといけなかったの。ザルム、ベルクの面倒をお願いできるかしら。」
「構わない。」
「シアってば、私が面倒見てるって言ったじゃない。なんでコイツに頼むのよ。」
ベリシアはアクアを見上げて微笑む。
「だって手伝ったらお裾分けしてくれるって。なら、アクアと私で行った方がいいでしょ。」
対してアクアは深々とため息をついた。
「人って変わるのね。すっかり質素倹約が身についちゃって……。」
そして手すりをフワリと飛び越えて、このまま空を舞うように地面に降り立ち、ベリシアの隣りへと歩み寄る。
その間、ザルムはベリシアに尋ねた。
「手伝うと何が貰えるんだ。」
「ヤギのミルクのチーズよ。美味しいのよね。」
そうベリシアに言われて、ベルクが頷く。
ベルクが笑顔を浮かべるので、アクアも顔を綻ばせる。
「仕方ない、ベルの為に行ってあげましょうかね。」
どうやらしばらくザルムと過ごすらしいと悟ったベルクは、ザルムに耳打ちする。
ザルムはそうかと頷き、
「ベルギスがコヨトルと出かけたいそうだ。」
「いいじゃない。行ってらっしゃい。」
「あんまり連れ回さないでよね。あの尾根の木までよ。あの木より先に行ったらダメだからね。」
ザルムとベルクが頷くのを見届けると、ベリシアとアクアはザルムが来た道を下って行った。
ザルムとベルクはアクアが指差した木の方へと歩いていく。
道中ベルクは小石を拾い、それを投げてコヨトルにとって来させて遊び始める。
20分程して、木の下まで辿り着いた。
ここでコヨトルとベルクを遊ばせておくのも構わないが……。
ベルクは尾根を超えた先の湖をじっと眺めている。あんなに遊びたがっていたのに、コヨトルが擦り寄っても視線の先は変わらない。
「ここまででは物足りないだろう。」
ベルクはザルムを見上げた。
「ベリシアとアクアには秘密だ。守れるな。」
ベルクは目を輝かせて頷いた。
ザルムがコヨトルを撫でると、その体が膨張し始める。大型犬ぐらいだった体は、精悍な佇まいはそのままに、馬ほどの大きさになった。
指示されるでもなくコヨトルはその場に伏せ、ザルムはその首元に跨り、ベルクに手を差し出す。
ベルクは待ちかねていたようにザルムの前に座ると、コヨトルは徐に立ち上がり、尾根を蹴った。
風の一部となったように斜面を駆け降り、その下に広がる森を疾走する。
吹き抜けていく風は爽快ではあるものの、呼吸を塞ぐ
ザルムはベルクの背を押してコヨトルの毛並みに顔を埋めさせる。身を屈めた方が風の抵抗は少なく、毛並みの間から呼吸を確保できるはずだ。
しかしそんな気遣いも徒労に思えるほどの間に、
風の一部となったコヨトルは、湖の辺に到達してしまった。
コヨトルは誰に言われるでもなくその場に伏して、ザルムとベルクを降りやすいようにした。
二人が降りたところでむくりと立ち上がり、ザルムの背に体を沿わせる。
ザルムはその毛並みを撫でながら頷いた。するとコヨトルの影から錆色の毛並みの犬が2頭姿を表す。元の大きさのコヨトルよりも2回りほど小さい、中型犬程の大きさだ。
錆色の犬達は真っ直ぐにベルクに駆け寄ると、戯れ付いて、遊べと催促する。
ベルクは犬達を恐れる事なく走り始める。
「ベルギス。水には入るな。そいつらは陸のものだ。」
ベルクは木の枝を湖向かって投げようとしていたが、「はーい」と返事して手を止めた。
大人しく水面を眺めて透き通った水の底を眺める。
水辺を離れて遊び始めたのを見届けると、ザルムは、木陰で身を丸めるコヨトルに歩み寄った。コヨトルをソファー代わりにして身を預け、犬達と駆け回るベルクを眺める。
肌寒いぐらいの空気に、日差しの温もりが心地よい。つい微睡みに沈んでしまった。
幸い、そう長くは眠らなかったようだが、うたた寝ではなかったようだ。
日はやや西に近づいている。
コヨトルに預けていた背を起こすと、側にベルクと犬達が、ザルムとコヨトルを真似るような体制で寝息を立てている。
「お前達にすっかり甘えてしまったな。」
そう呟いて、ザルムは犬達を撫で、続いてコヨトルの毛並みを撫でた。
ザルムが立ち上がるのに倣って、コヨトルも身を持ち上げる。犬達はコヨトルの陰に駆け込み、姿を消した。
ザルムは犬達から預かり受けるようにベルクを支えて、起こさないように抱え上げる。
頭を下げるコヨトルの首元に跨り、再び風となって帰路についた。
尾根の木の下まで来ると、
コヨトルは犬の大きさに戻り、ザルムは眠ったベルクを抱えながら家へと向かう。
丁度手伝いが終わったのだろう。
坂を登ってくるベリシアとアクアが手を振っているのが見えた。
ザルムがベルクを抱えているのが分かり、ベリシアとアクアは家を超えて坂を登り、ザルムのもとまで歩み寄ってきた。
「ありがとうザルム。重たかったでしょ。」
ベリシアはベルクを受け取るべく腕を伸ばす。
ザルムは慎重にベルクをベリシアへ渡した。
「起きてきている時とはだいぶ違うな。」
そしてザルムは表情を曇らせる。
「まるで何が抜け落ちたようで……、まだベルギスでいるのか不安だった。あなた達はいつもこんなに苦しいのか。」
「時々ね……。それよりも、今は残りの時間を大切にしたいから、不安よりも幸せに目を向けるのよ。」
慈愛の心と、悲しみと、諦めと……。
ベリシアの声音と表情は、複雑な彼女の心境そのものだった。
彼女達の背に続き、家の前まで来ると、ベリシアはザルムに夕食を進めた。
先程貰ったチーズを食べてみないかとのことだったが、ザルムは誘いを断った。帰らねばならなかったのだ。
ベルクを部屋に寝かせて、ベリシアはザルムの見送りに家の外にやって来た。
日が西に沈み始め、夕闇が迫る中「道中気をつけて」「いずれまた来る」と、もはや合言葉のような別れの言葉を交わしていると。
ベリシアが胸を抑えて蹲った。
焦ったザルムはベリシアの傍に跪き、顔を覗き込み、しかし言葉は無く問いかける。
「大丈夫よ。この冬は乗り切るから。」
ベリシアは喘ぐような息の合間に言葉を発する。
「だって、雪の中放り出すなんて、可哀想だもの。」
そしてザルムに告げた
「だからザルム、雪が溶け始めたら、ここへ来て。そして後はお願いね。」
ザルムは静かに頷いた。
風が窓を叩く音で瞼を開けてると、
漸く自分が眠ってしまっていたことに気がついた。
まさか移動中に眠り、夢まで見てしまうなんて。
しかも目の前には、さして面識もない女が居て、表情を作る事なくじっとザルムを見つめている。
今ザルム達は、帝国領に向かうべく高速列車で連邦領を移動している。
ここは一車両丸ごと使った一等車のラウンジだ。
ソファースペースの傍に備えられた窓辺のテーブル席で外を眺めていたのだ。
確か目の前の女、ベロニカと今後の調整をしていたような記憶がある。
話の途中で眠ってしまったのか、
夢うつつのところにベロニカが話しかけてきたのか、記憶が無い事に若干の焦りを覚える。
ザルムは傍に置いた鉄の箱に目を落とす。
眠る前からずっと手を添えていて、目が覚めてもなおそのままだ。表情には出さないが胸を撫で下ろした。
「それが、前皇帝陛下の第三皇妃様の結晶ですか。」
ベロニカは淡々とした口調で問いかけてきた。
「そうだが。」
「あなたはその方とどのような間柄なのですか。皇妃様の子息は今どこに居られるのでしょうか」
子息、何故ベロニカがそれを知っているのか……。
ベリシアの子供が男児であった事を知る者はザルムの他はナーディエルのみ。
「俺は彼女に恩がある。それだけだ。彼女の子供が今どうしているかは知らない。」
ナーディエルがベルギスの事をベロニカに話しているなら、
ザルムとベリシアの間柄を尋ねるのは可笑しい。
「そうでしたか……。ご心配ではないのですか、親しかったのでしょう。皇妃様達と。」
鎌をかけているのか、
或いは覗かれたか……。
「親しかった訳ではないさ。俺にとって彼女は恩人だ。しかし彼女にとって俺は便利な存在でしかない。」
ベロニカの星神は
そうであるならば、覗かれたのがあんな平凡な記憶であったのだから上々だ。
おそらく彼女はベルギスのことも、ベリシアのことも風の噂程度にしか知らないのだ。
理由は知らないが、詳細をつかみナーディエルへの近づきたいのだろう。
「そろそろトンネルに入る。車内を攫っておこう。」
幸いな事に話題を変えるには丁度いいタイミングだった。
間も無く列車は、連邦領と帝国領の間の海に差し掛かる。ここから30分ほど海峡トンネルの中を進むのだが、逃げ場のない30分間は、騒動を起こすには丁度いい。
皇弟殿下の護衛をしている今、不穏因子の存在を改めるのは必須だ。
「ならば私が行きましょう。貴方は結晶を管理していて下さい。」
そう言ってベロニカが立ち上がる。
しかし車内の見回り程度に、わざわざ出歩く必要はないだろう。
ザルムは赤い方の目を閉じて手を添える。
人の目には見えず、触れられず、しかしザルムの背後には確かにコヨトルが居る。
ベロニカは見えない気配と目が合った事を悟り、硬直した。
気配が扉へと向かい、隣の車両へと姿を消してもなお、ベロニカはまともに息ができずに静止しする。
ベロニカがか細く二度呼吸した頃。ザルムは目から手を退けて、呟いた。
「後方に真っ当とは言い難い連中があるが。殿下の脅威ではないだろう。到着次第降車を急いだ方が良さそうだがな。」
ザルムの赤い瞳はコヨトルのものだ。
コヨトルが見たものをザルムも見ることができる。
コヨトルは車両内を人が気にも留めないようなそよ風となって先頭から最後尾まで移動した。
後部車両では、国境を越えるには適さない荷物を運ぶ者たちが居たようだ。
直接の被害は無いだろうが、帝国に入って検問に引っ掛かったなら、間違いなく巻き添えを喰らう。
もし皇弟の存在が明るみにならば、帝国と公国間は穏やかにはゆかないだろう。
「今のが、貴方の星ですか……。」
ベロニカの瞳には明らかに動揺の色が浮かんでいる。
「あぁ、しかし本調子では無い。大分気配を消したからな。いざという時は頼ってくれて構わないぞ。」
ベロニカは生唾を飲み込む。
「それは、心強いですね。」
ベロニカも星に憑かれているから、分かるはずだ。
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