頭を下げるということ
頭を下げるのが苦手でした。謝ったり、感謝したり、そういうときに「動作」をするということがわからなくて。わざとらしくならないかな、どれくらいの速さで、どれくらい深くすればいいのかな。考えてしまうとますますわからなくて、みるみるタイミングを失っていく。やがて私は、謝るときも感謝するときも、頭を下げないようになりました。それで困ったことはありませんでした。まだ高校生でしたから。
大学に入って、初めてアルバイトをしました。100円ショップです。パン屋の跡地に入ってきた店で、全国チェーンではありましたが、雰囲気は個人商店のような感じでした。スタッフも多くありません。性に合っている気がしました。頭を下げなくても、なんともありませんでした。誠意をもって接していれば、悪いことにはなりません。
ところが、始めて一か月の最初の給料日の朝、店長が私に言ったのです。
「早見さん、今日はお辞儀がんばってね」
お辞儀がんばってね、何の不当な圧力もない優しい言い回しに、私の心は砕かれました。ハッタリがバレた、バレていた。そう思ったのです。
動作。それ自体は、たとえば謝罪や感謝の心とは無関係の、パフォーマンスでしかない。心がこもっていることこそが真実だ。そう考えながらも、私の体の中には矛盾する正反対の考えが血のように巡っていました。つまり、頭を下げてお辞儀をするという動作にこそ、本質が宿るのではないか、真実があるのではないか。レジの店員なんてその最たる例で、お客様への感謝を店員個人が抱いて伝える必要なんてもちろんなくて、店の一員としてそれを示すことが重要であり、「お辞儀をすること」が店員の仕事である。だから、私個人の内側にある「誠意」なんかでその代わりに足りるとするのは、ハッタリにほかならないのです。それが、バレました。
一日、体が自分のものではないようにギクシャクしていました。指は震え、笑顔は強張り、しかしなんとか、私はお辞儀をやりきりました。晴れて有罪。バレたからには、真実の行いをしよう。正しい仕事をしよう。そう思っていました。空に向かって頭を振るたびに、魂が抜けていくような気がしても、「これが真実で、私が間違っている」と自分に言い聞かせながら。
昼過ぎ、シフトが終わり、店長から給料の入った封筒を手渡されました。
「これからよろしくね」
私は最後にお辞儀をして店を出ました。
抜け殻のような気分でした。しかしすっきりしていました。手足がじりじりとして、視界はぼんやりとしていました。空が高く隅々まで晴れ渡っていたのを覚えています。苦しいのか、嬉しいのか。虚無感か、充足感か。私には判別できませんでした。とにかく、私は働いてお金をもらったのです。喜んでいいでしょう。満ち足りていいでしょう。そう考えて、ひとまずは歩き始めました。
喉が渇いていました。しかし、飲み物を買う気にもなりませんでした。給料を受け取って最初の買い物としては、物足りないと思ったのです。
すぐ近くに、公園がありました。端の方に滑り台がぽつんと佇む小さな公園です。傍を通ると、水飲み場があることに気が付きました。イマドキ珍しいな、なんて思いながら、私は真っ直ぐその水飲み場に向かって歩いていきました。グラウンドの角を切り取るように横切って、蛇口に手をかけた、そのとき。
「待った!」
大きな声が聞こえて、私は半開きの口をそのまま、ぴたりと動きを止めました。見ると、腰の曲がった老婆が、よたよたとこちらに向かってきているのです。
「そこ、出んよ!」
老婆は言いました。
「水、出んようになっとるんよ!」
数十秒かけて、ようやく私の側までたどり着いた老婆は、乾いた手で蛇口をひねり、水が出ないことを私に示して、それから深くお辞儀をして、来たときと同じ道をたどって、元いた場所へ戻っていきました。
呆然とする私でしたが、心に残ったのは、老婆のお辞儀でした。深々と、祈りのようにも見えました。ですが、その意図は、意味はさっぱり分かりません。胸がざわつきました。
老婆は去りました。声をかけようにも、その最初の一言が思いつきませんでした。
お腹もすいてきました。迷路のような住宅地の路地をあてもなく歩いていると、高いフェンスに突き当たりました。小学校でした。公園の何倍も広いグラウンドに、サッカーのゴールや鉄棒が置かれていました。小学生のグループがなにやら集まって遊んでいるのも見えました。フェンスに沿って歩いていくと、子どもたちのすぐ側まで近づく形になりました。
男子と女子が入り混じった五人組で、どうやらゲームをしているようでした。地面にいくつかの円が描いてあって、その辺りに大小さまざまな石が転がっています。決まった位置から石を投げて点数を競う、ペタンクのような遊びをしているようです。男の子が投げた石が円の中に収まり、大きな歓声が上がりました。ゲームは山場のようです。
ひとり、私の目を引く子どもがいました。石を持って、定位置につき、真っ直ぐに立ってその子は、目をつぶってじっと頭を垂れたのです。石を持った両手を胸に、まさに祈りの動作でした。何秒間か、私にはとても長く感じられましたが、その子どもはフィールドに向かって祈り、周りの子どもたちは静かにそれを見守っていました。そして、石が放たれました。高い放物線を描き、石はぎりぎり、円の輪郭線上に乗りました。全員がそれを確かめて、雄叫びを上げました。
ここに、私は答えを見ました。純粋な動作、その在り方を。老婆のお辞儀と、根本は同じものです。パフォーマンスではありませんでした。謝意を伝えるための媒体としてではなく、ただ祈る、自分が思うように祈るということ。目に映る世界が少しでも良くありますように、正しくありますようにと祈る仕草、それが私の見た答えでした。
あの子どもはゲームに勝てたでしょうか。
ラーメン屋があったので、入りました。カウンターに客が並んで食事をしていました。調理の音と、麺を啜る音だけが、寡黙に響いていました。注文をして、水を注いで飲みました。カチャカチャ、ジュワァ、ずずずずず。やがてラーメンが来たので、私は頭を垂れて一口啜りました。無心に、勢いよく。少しでも麺が冷めないように。生涯で一番うまいラーメンでした。
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