ウェルツの景
私が会社員だったとき、つまりは十年ほど前のことだが、ある外国人の男と知り合った。名前はウェルツ。赤毛の中年男。彼は芸術家だった。
出会ったのは、港だった。私はその頃、休日に電車で出かけることが多かった。一時間以上、住んでいる町からも会社からも離れた知らない町へ、清潔な格好をして行くのが好きだった。ウェルツとは、その先で出会ったのだ。
海沿いの町だった。工業用の船が停泊するような大きな港が並ぶ隙間に、ぽっかりと百メートルほど、ボートの一席もない静かな湾があった。
そこに、彼がいた。後ろ手に手を組んで、足下に揺れ動く波を眺めていた。
私は何の気もなく、彼の後ろを歩いて通り抜けようとした。そのとき、彼が何か小さな声で呟いていたのに気が付いた。少し気になって、私はその内容を聞き取ろうと、歩みを遅らせた。
「ちゃぽ、ちゃぽ」
そう聞こえた。そう言っていたのだ。私は思わず、彼の真後ろで立ち止まってしまった。
「ちゃぽ、ちゃぽ」
聞いてみると、彼のその発音がいかにも日本人風なのに気が付いた。それで、私はますます興味を持って、ついに声をかけてみることにした。
「何か、見えますか」
隣に立ってそう問いかけると、身じろぎもせず彼はこう言った。
「音が聞こえるようになりました」
「音、波の音ですか」と、私は尋ねた。
「そうです。波の音です。日本語で、聞こえるようになりました」
「はあ……」
もう一度「ちゃぽ、ちゃぽ」を期待した私は、肩透かしをくらった気分になった。
それから彼の話を聞いた。そして私は納得した。彼の故郷も、海沿いの港町だったという。同じように、岸に打ちつける波を眺めることが好きだった。ウェルツ少年期の名もない思い出。やがて彼は成長し、一人の日本人女性と出会い、結ばれ、彼女の母国へと旅立つことになる。日本で暮らした時間が本国のそれを超える頃、彼はやっと、日本に落ち着くことに決めたという。
「私の国では、穏やかな波の打ちつける音が、もちろん違う言い方をしました。うぇるえいうぃー。と、こういう発音です。ついこの間まで、この足下の波の音も、私にはそのように聞こえていたのです」
うぇるえいうぃー、うぇるえいうぃー。と、私は彼が聞いた波の音を想像した。しかし、それははっきりとしない、曖昧なものにしかならなかった。
「それが、ある日。聞こえたのです」
彼は言った。
「ちゃぽ、ちゃぽ」
耳を澄ました。確かに聞こえてくる、なじみ深い音だった。
「私は、日本語の習得にそれほど苦労しませんでした。日本語のシステムや、日本人の感受性は、私にとって十分自然に受け入れられる法則でした。私も、不便は多多ありますが、日本に受け入れられているという実感を持つことができています。私は安心していました。しかし、この度、私のその安心は揺るがされることとなりました」
私たちは歩きながら話し、石のベンチに腰を下ろした。
「全然違ったのです。妻や子供たちが見て、聞いて、感じている世界と、私の世界は、あまりにも違ったのです。あまりにもです。それに気付かされました」
ウェルツは、赤い毛の生えた太い腕を膝に置き、手を組んで空をにらんでいた。
それから、私たちは毎週、そこで会った。私も、彼に自分のルーツや仕事の悩みの話をした。もはや知らない町ではなくなった。私たちは友人として、互いに受け入れ合っていた。
ある日、私は土産を持って彼に会いに出かけた。大判焼きと呼ばれる菓子で、地域によってさまざまな呼ばれ方をしているのだと、彼に説明するつもりだった。
彼はいなかった。代わりに、黒い服を着た一人の女性がいた。
「ウェルツから、貴方へ」
彼女が差し出してきたのは、貝殻だった。美しい虹色の大きな巻き貝。彼女は一礼して去っていった。
私は、貝殻をしばらく転がしてから、ふと耳にあててみた。空気が響く音がするだけでつまらなかったので、やがてやめた。波の音に耳を澄ませてみた。ちゃぽ、ちゃぽ。そう、聞こえるだけだった。
【短編集】至天ショートストーリーズ 古成おこな @furunari
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