故郷・冬

 坂の多いこの町で最も平坦な通りは、町の真ん中にある小学校の校庭に面した細く長いアスファルトで、錆だらけのフェンスに向かい合う階段状のスタンドが、その道を挟んで学校を見下ろす格好になっている。スタンドの裏には川があり、つまりは一層低い位置にある学校を守る堤防の役割を与えられている。堤防の頂点には桜の並木道があり、一帯は巡る四季という教育上有意義な景観を備えていることになる。

 私は桜並木から石階段を少し降り、その中腹に腰掛けて小学校を眺めた。コートのポケットに両手を突っ込んだまま、ぼんやりと時間を過ごした。目の前のアスファルトを左から右へと抜けていく自転車が、私を見上げると同時に少しよろめいた。平日の昼下がり、校庭は静かだった。桜は一枚の葉も残さず、黒々とした隆起を外気に晒していた。

 私は階段を降りて左に曲がり、小学校を右手に歩き始めた。新しい校舎が建っていた。音も動きもなく、ぴたりと時が停まったようだった。小さく見える窓の中に目を凝らした。私の視力では何も見えなかったが、鏡を覗いているような気持ちになった。音を拾おうと耳をすました。すると、甲高い、賑やかな歓声がかすかに耳に届いた。しかし、どうやらそれは、小学校よりも進んだ先の向こうから聞こえてくるらしかった。私は忘れていたことなのだが、小学校の隣には保育園があった。私は興味をそちらに移した。私はできるだけ真っすぐ、一定のペースで歩こうと心がけた。しかし意識するほどに、自然な動作は私から離れていった。

 そのときの私はある種の平衡感覚を失っていて、元からもつ厭世的な態度をある程度に増幅させていた。当時唯一残っていた友人にも、とうとう逃げられてしまった。そういうタイミングだった。

 保育園は背の高い檻のような柵で囲まれていた。私が近づくと檻の間から小さな腕が伸びてきた。男の子だった。寒さの中、上半身が裸だった。私は彼に興味を持って近寄った。彼の後ろでは大勢の子どもがめいめい意味不明な大声をあげながら縦横無尽に飛び回っていた。男の子は両手を外へと伸ばし、額を柵に押し付けていた。

 彼の方も私に興味を抱いたらしかった。私の顔には三つの大きな傷痕があった。それらは顔の左半分に集まり、ひらがなのように見えた。この町を出た時にはなかった傷だった。私は植え込みの段差に腰掛けた。彼は言葉を発した。

「に!」

私は声を出して笑った。すると彼も笑った。私はいきさつを話すことにした。


 ひとつめの傷は恋人に付けられたものだった。故意ではなく、不幸な事故だった。私は就職したての社会人一年目で、恋人も同じだった。その日は珍しく、恋人が家に来て料理を振る舞ってくれていた。理由があったはずだが、忘れた。二人とも仕事おわりの、つまりは平日の夜だったはずだ。恋人はおろしたてのエプロンを身につけていた。不慣れな包丁さばきだった。私は愛情を感じて、後ろからそっと抱きしめた。瞬間、彼女はギュッと身体をくねらせて、小さな悲鳴とともに私の肩を押しはねた。そのはずみで、彼女の握っていた包丁の先が私の顎を払った。彼女はごめんなさいびっくりしてわたし、というようなことを言って、私は床が血で汚れないようにじっとしたまま、右手でOKの形を作って見せた。実際痛みはそれほどでもなかった。血を見ることも平気だった。私は自分で軽く処置をした。大丈夫だよ、君の料理が食べられる程度にはね、というようなことを私は言って、彼女は台所に戻った。本当にごめんねと彼女は言った。

それから一時間くらい経って、料理が完成した。ハンバーグに、アボカドサラダだった。私たちは和やかに食事をした。彼女は初めてアボカドの皮をむいたと言い、私はアボカド産業によって繁栄するメキシコの麻薬カルテルについて語った。私たちのアボカドはメキシコの農家の苦しみと葛藤の上で成り立っている。

ほどなくして私たちは別れ、連絡は途絶えた。私が入社した会社はなんとその年のうちに倒産した。自分の力が及ばない破滅に向かって足掻いているだけだったと、後になってから初めてわかる。社会とはそんなものかと、私は思った。


ふたつめの傷は、左の頬骨のあたりを斜めに横切る切り傷だった。これも事故によるものだった。会社が潰れたあと、実家に戻るのもつまらないなと私は思い、しばらく都会の友人たちの元を転々として暮らそうと考えた。友人はそれなりに多かった。訪ねると皆、私の境遇を面白がってくれた。二、三日居候をして、また別の友人の家で数日暮らした。ひと月以上をそのように過ごした頃、私たちに共通の先輩の結婚式の話が舞い込んできた。

友人たちは皆喜んで出席することに決めた。私もそれに倣った。そのうち誰かが、ちょっとしたサプライズのようなものを思いついた。私は、花から花へと蜜を集めて花粉を運ぶミツバチのように、そのアイデアを方々で話してまわった。アイデアは私を媒体として、徐々に形を成していった。

それはちょっとだけ派手な計画だった。簡単に言えば、私たちで用意したケーキを爆発させて、紙吹雪を散らせるというものだった。ほんの小さな爆発で、一瞬だけハプニングのように思わせて、あとは暖かい安心が訪れるという計画だった。ある者は爆発の機構を考え、ある者は材料を調達し、ある者は製作の指揮を執り、ある者は当日の段取りを整えた。連絡役が私だった。

結果から言えば、その計画は失敗した。怪我人が一人出たのだ。私だ。爆発が予定よりも少しだけ大きく、少しだけ位置がずれたことで、想定されていないグラスがはじけて破片が飛んだ。予定と違う花吹雪が舞ったのを見た。顔を切った私はすぐに退室し、手当を受けた。借り物のスーツに血がにじんだ。

それから随分と時間が経ったあと、関わった者たちが見舞いに来た。私はじっとしていようと、ロビーのベンチに座っていた。彼らは失敗の原因についてあれこれ言っていた。そしてそれには、私に対する非難の色が混じっているようだった。自分の仕事に確信を持つ人間たちの間に、原因は連絡の齟齬に違いないという共通意識が形成されたらしかった。破片が飛ぶような場所に呑気に座っていた私を責める気持ちもあったことだろう。とにかく、結果私一人が怪我をしたことで、自業自得の形となってこの一件は落着したのだと、彼らは考えているらしかった。

その後私は彼らの家に厄介を掛けるのをやめた。私は結婚式に来なかった知人を訪ねた。彼はかつて新郎に片思いしていた。彼は孤独だった。私は彼の家で居候をしながらぽつぽつと職探しを始めた。顔の傷は就職に不利だったが、エピソードはどこでも喜ばれた。人は他人の不幸が好きなものだと、私は思った。


 みっつめの傷は、前日に作ったばかりの生傷で、最も大きく、最も深い傷だった。左目を縦に裂く三日月形の傷だった。最後の友人に紹介された仕事を程なくして辞め、彼の家を去った私は、この町に帰ってきたのだった。家族とは二年間連絡をとっていなかった。両親は私がまだ最初の会社で働いていると思っているはずだった。妹は、順調にやっていれば、この春から社会人になるはずだった。

 日が落ち辺りが暗くなってから、私は実家に辿り着いた。私は鍵を持っていなかった。そして、家に灯かりはなかった。家はどうやら無人だった。一応インターホンを鳴らしてみたが、静寂が返るだけだった。私は観念して、母親に電話を掛けた。繋がらなかったので、私はメッセージで事情を簡素に告げておいた。

 私は家の前で階段に腰掛け腕を組んだ。そうしていると、昔同じように鍵を持たずに締め出しをくらったことを思い出した。母親の帰りを待てばよかったのだが、私は一秒でも早くオンラインゲームにログインしたかったのだ。小学生のときだった。そのとき私は、家の側面の管やら塀やらをよじ登って、二階の私の部屋の窓から家に侵入した。普段から窓に鍵を掛けていなかった自分の性格に心から感謝したのを覚えていた。

 母親からメッセージで返信があった。家族三人はいま、妹の家探しのため、東京に滞在しているとのことだった。私は昔と同じように、二階から侵入してみようと決めた。二階の窓が開いているとは思えなかったが、試してみるだけ損はないと思った。私の部屋は家の正面に向かって右側、奥にあった。

 私は花壇の縁を通って柵に手を伸ばした。大股で柵の下の部分に足をかけ、そのまま上に乗った。大きな音を立てないように気を付けながら、私は柵の上で移動し、立ち上がって雨戸の縁に手をかけた。触れる場所すべてが埃にまみれていた。排水管の継ぎ目部分に指をかけて、体重を分散させた。目的の二階の窓にもう少しで手が届きそうだったが、使えそうな足掛かりはなかった。私は昔のように、思い切って排水管に飛びついた。そのとき、ポケットの中で電話が鳴り、同時に排水管が私の重みで壁から剥がれた。もはや救いはなく、私の身体は宙に投げ出された。落ちていきながらも着信音に気を取られていたのが、我ながら可笑しかった。

 私は受け身を取ろうと空中で体をひねり、うつむけで地面に落ちた。そのときに私は最後の傷を負った。落下の衝撃と、左目が開けられないことに呆然としたまま、私は横たわっていた。家の壁と、古い柵と、鉢やら、簾の子やらに囲まれた狭い隙間に、私は横向きにうずくまっていたのだ。閉じたまぶたに温かい血が伝うのが感じられた。しばらくして、携帯電話を見てみると、予備の鍵が室外機の下にあると母からメッセージが届いていた。私は起き上がって、実家で一晩を過ごした。

 それから私は、家族が戻ってくる前に再び家を出て、次に向かう場所を決めかねていた。家族には何も言わず、排水管もそのままにしておいた。朝になって左目が無事に見えることがわかった。傷口には全体にうっすらと血が滲んでいたが、私はそれを隠すことをしなかった。私は冷たい空気の中で、新しい傷の存在を感じながら、両手をコートのポケットに突っ込んでそぞろ歩いていた。傷は不思議と痛くなかった。


 「僕はこれからどこに向かえばいいのかな」私は尋ねた。

男の子はその場に座り込んで地面をいじっていた。無邪気なものだと私は思った。頭が大きく、今にも転んでしまいそうだった。肌は真珠のようだった。檻の向こうの男の子は、この世で最も無垢な存在に思えた。

「もはや生きがいといえるものはない。どうか意見を聞かせてほしい。選択肢くらいは用意してある。一、病院へ行き、家族の帰りを待つ。ふりだしに戻る。でも人は、いま以前には戻れない。二、このまま存在を消す。心残りが無いではないが、一生に一度の機会。自殺するなら今だろう。三、友人をもう一度頼る。頭を下げて、彼らを信じる。僕を信じてもらう。できれば、の話だけど」

 私が檻の向こうに手を伸ばすと、男の子は顔を上げて、私と顔を合わせた。

「2」

と彼は言った。

 私は何度も細かく頷いて、手を引っ込めた。背筋を伸ばして立つと、道の向かいに黄色いゴムボールが転がっているのが見えた。彼は初めから、園外に飛び出したボールを求めていたのだ。私がボールを拾うと、彼は立ち上がって手を伸ばした。真剣にボールを求める表情だった。私は柵の上からボールを渡し、彼のところにそっと下ろすその瞬間になって、ふと気が変わり、彼の頭上を越えてはるか向こうにボールを投げた。

 そのときの男の子の表情を「無垢」と表現することは私にはできない。私はそれを見て満足し、おかげで今日まで生きていられる。

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