かわいいお茶碗
ミナトが7歳、サキが4歳のときでした。サキのお気に入りのお茶碗が割れてしまったんです。花柄がプリントされた小さなピンクのお茶碗でした。
サキはそのお茶碗を本当によく気に入って、大事にしていました。だから、私は割れてしまったことをはじめ伝えず、しれっと別のお茶碗を食卓に出しました。きっと機嫌を損ねるから、忘れちゃうのを待とう。きっと気付かないだろう、と。しかし、それは間違いでした。
「ちがうよ?」
サキが言いました。
「ママ、これちがうよ?」
あちゃー、と内心思い、しかし仕方がないので、「いつものやつは洗ってるから、今日はそれにしてね」と言いました。
「いやだ」
ダメな方に入ったか……。
「食べない!」
こだわりの強いサキのことですから、そうなると簡単には済みません。私が困っていると、ミナトが助けてくれようとして、「サキ、ほら、美味しいよ」なんて言って、妹の前でご飯をかっこんだりして。それを見たサキは兄のそんな調子が気に入らないようで、ますます堅く口を閉じてしまう。いつも通りの光景でした。
「じゃあ、食べるまで置いとくからね」
それが始まりでした。一時間、二時間……サキは冷えたご飯を前に、沈黙を貫きました。五時間、六時間……。夫が帰ってきたので、事情を話しました。私はとっくに根負けしていました。
「それじゃあ、オムライスかパスタにでもしようか。俺作ろうか?」
夫は言いました。どこか楽しそうでした。
「サキ~、夜ごはん何食べたい? パパが作るよ?」
「いらない」
「そっか~じゃあ、オムライスにしよっかな」
「……」
夫が作ったオムライスは、やがて娘の前で冷めきってしまいました。ケチャップで書かれた星マークが虚しく乾いていきました。私は少し安心しました。しかし、問題をこのまま放っておくわけにはいきません。
「サキ、食べないと、病気になって大変だよ? 痛い痛いになるよ?」
サキは黙って椅子から降りて、ソファに寝転んでしまいました。
「サキ!」
サキは私の顔をじっくりと、多分睨みつけているつもりだったのでしょう、突き刺すように見つめてきました。夫がミナトを連れてお風呂に入っている間、私はオムライスの皿を持って、ずんずんとソファに向かって歩いていきました。
「パパが作ってくれたのに、残したらかわいそうでしょ! サキがおいしい~って食べてくれると思って一生懸命作ったんだよ?」
私はサキの顔に皿を近づけました。サキは小さな口をもごもごさせて、それからごろりと、反対側に寝返ってしまいました。無理やりこっちを向かせて、スプーンを近づけました。「あーん!」サキは力を込めて口を閉ざしていました。
結局、その日はサキの機嫌を直すことはかないませんでした。次の日も、その次の日も。サキは食事を拒み続けました。
同じような柄のお茶碗を買いました。まったく同じものは、残念ながら見つけられませんでした。サキは冷ややかにそのお茶碗を見つめ、それからふいとそっぽを向きました。
プレートに、ハンバーグやご飯を一緒によそって、お子様ランチ風にしてみました。サキは遠くを見ているような表情で、やがて食卓から離れていきました。同じものを出したミナトは、丸々残ったサキの分まで食べてしまいました。
食育のアニメや、料理が出てくるテレビ番組を見せました。バラエティのグルメリポート、ドラマの食事シーン、お菓子のCM、どれも不発でした。
次第に、分かっていたことですし、また恐れていたことでもありますが、サキの元気がなくなってきました。一日中ぼーっとしているようで、頬の赤みが薄れていきました。少しずつ瘦せていきました。私には、骨と皮のように見えました。
作っても作っても、無視され続ける食事。食欲を掻き立てるような創意、興味を惹くような工夫、あらゆる方法を試したような気がしました。かかりつけ医に連れて行くと、「本当は食べさせてあげてほしいんだけどね」などと言われながら、点滴を打たれました。初めての経験でしたが、サキはけろっとしていました。私の方は情けなく恥ずかしく、ただただ下を向いていました。
夫は夫で、色々と調べたり、プレゼントでサキの機嫌を取ろうとしたりと善処してくれていました。しかし、つきっきりの私に解決できないことが、夫に何とかできるわけもないのです。それがつまらないのか、夫はやがて「時間が解決する」「医者に任せる」という態度を取り始めました。
「一時的なものだろう。イヤイヤ期で苦労したなんて話もそこら中で聞くし。よくあることなんじゃないか? 大人しく点滴受けてくれてるだけエライじゃないか」
「よくあるって……、なんにも食べないなんて、どう考えてもおかしいでしょ。ミナトのときだってこんなこと……」
ミナトは、日々丸々と太っていきました。サキの分まで食べることが習慣になっていたのです。夜、暗がりの中でサキの細い腕を撫でながら、その向こうにごろりと転がる豊かな体が目に入ったとき、私の中に、決して口にできない感情が、ぬるりと湧き上がってくるのを感じました。しっかりと感じたのです。私は唇を噛みました。二つの穏やかな寝息が、重なり合って宙を舞い、毒のように私の心に染みました。はじまり。お茶碗を割ったのは、ミナトだったのです。
(墓場まで……)
持っていこうと、私は思いました。
サキばかりに苦しい思いをさせられない。そう考えた私は、自分も食事を断つようになりました。一日、二日と食事を抜いて、サキの気持ちにだんだんと近づけている。そういう実感のようなものがありました。
三日目の夕方、私はチキンスープを作っていました。その頃、私は、いつサキの食欲が戻ってもいいようにと、断食の後でも食べられるようなチキンスープを毎日作っていました。
「ママ~、俺それいらない」
横からミナトが言ってきました。
「ママ?」
聞こえてはいたのですが、反応できませんでした。ぼーっとして、お玉を持つ手の力がどこから来ているのか、分かりませんでした。私は焦点の合わない目で、鍋の中を見つめていました。ふつふつと煮える黄金の水面から昇る細やかな蒸気、温かさ、鶏の油と玉ねぎの甘い匂い。目がくらみました。私は空腹だったのです。
我慢ができませんでした。ミナトがいることにも構わず、私は小さな器にスープを注ぎ、ぐいと飲み込みました。熱さが喉を通りました。一瞬、息が止まりました。それから「っはあ~~」と息を吐きました。続けて二杯、三杯。無心にスープを飲みました。
横にミナトが目を丸くして立っていました。
「ミナト?」
私はようやく、ミナトに気が付きました。なぜか上半身裸でいました。
「そんなにおいしいの?」
そう言われて、ハッとしました。サキはスープすら飲めずにいるというのに、私は……。
「服着なさい」
そう言って、スープを器に注ぎました。食卓に二つの器を置き、テレビを見ているサキを引っ張ってきました。薄く軽くなっていく体が、このときだけは石のように重たく感じるのでした。
「ほら、サキ。よいせっ」
そうしてサキの体とともにぐいと前を向いたとき、奇妙な光景が目に入りました。スープの入った皿の前に半裸のミナトが立ち、おもむろに両手を前に出して、スープをその手にすくったのです。
「やっ何してるの!」
ミナトはそのまま、ゆっくりと首を下げて、手の中のスープを啜りました。
私はサキを置いて、ミナトの方へ駆け寄りました。
「手ヤケドするでしょ、ほらこっち」
「熱くないよ、おいしいよ」
ミナトは言いました。すると、サキがひょこひょこと歩いてきて、兄の横にぴたりと付きました。ミナトは慎重な動作で、スープが入った自分の両手を妹の口元まで運びました。ふーっと息を吹いて熱を冷ましながら、丁寧に、念入りに。サキは、兄の手の中を覗き込み、やがて兄と同じ動作で、黄金のスープに小さな口をつけました。ちゅるちゅるとチキンスープを啜るサキ。ミナトは真剣な表情で、じっとその様子を見守っていました。
啜れる分がなくなって、サキはぺろぺろとスープの付いた兄の手を舐め始めました。ミナトは笑って、その手を引っ込めました。
私はその場にへたり込んで、声を上げて泣いてしまいました。
私の、忘れられない出来事です。二人とも最期はそんなこと、覚えていなかったかもしれませんが。
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