ある美容師の告白

 ある新人の美容師が、施術中に硬直した。高校一年生になったばかりの女の子の頭頂部に、ぽっかり直径三センチくらい、不毛の円が顕れていたのだ。

 珍しい話ではない。円形脱毛症の発症率は、およそ2パーセントほどともいわれる。が、そんな数値は、当人には関係のないことだ。 美容師は、持ち上げていた髪をそっと降ろした。恐る恐る見ると、若々しい水気を保った髪の毛が数本、抜けて指に絡んでいた。

 残酷なことだ、と美容師は思った。彼女もかつては同じ年頃の少女であったわけだから、共感、同情、憐憫の感情がすぐに心の器を満たした。それと同時に、彼女は職業人でもあった。新人とはいえ、むしろ、新人だからこそ、美容師としての矜持が重要だった。いま、この子の頭髪の責任者は私だ。

 私が言う。そう決意した。

 そのとき、少女が一言、こう言った。

「ちょっと伸ばしてみようかなって・・・・・・」

 それから、とうとう美容師は、少女のその憐れな円のことを態度のおくびにも出さずに、カットを終えた。死刑執行人の外れくじは引きたくない。たいした給料も貰っていないのだから。


 瑞希は家に帰って、真っ先に鏡の前に立った。美容院に行った直後は、まるで新品のような髪が見ていて嬉しい。右へ左へと様々な角度から楽しんでいた、そのとき、異変が目に入った。

 白い表面。瑞希は鏡から仰け反った。血の気が引いた。

 しかし、それから彼女は今一度、今度は好奇心から、ぐっと鏡に身を寄せた。最適な角度を見つけると、じっと患部を観察してみた。凹凸がなく、しかしいやに有機質な表面。ゴムのようでもあり、泥のようでもある。肌はやはり白く、輝くほどだ。生え際は少し青く見える。丸っぽい形になっている。

 円形脱毛症というやつだ。瑞希はそう思い当たって、すぐに検索してみた。原因は? 症状は? 悪化するの? 治るの?

 母親がやってきた。

「髪、伸ばすの?」

 瑞希は思わず頭頂部を押さえた。

「うん、一応……」

「いいねー」

 母親はごそごそと洗濯機を漁り始めた。瑞希は、いっそ今、と思い、母親に話しかけた。「お母さん、ちょっと見て」

 そう言って、頭頂部を思い切り母親に向けた。

「え、なに?」

「見て」

「なにー?」

「見てよ」

 反応がないので顔を上げると、母親はちらりともこちらを見ていないようだった。瑞希はため息をついた。

「私、円形脱毛症になったかも」

「え!!??」

 今度はばかに大きな声を出すものだから、瑞希はほとほと、うんざりしてしまった。

「見せて」

「いまずっと見せてた」

 腹が立つ気持ちから、思わずそう言い返すと、母親はふいとそっぽを向いた。

「いいよ別に。好きにしなさい」

 瑞希は絶望した! なんて、なんて子供っぽいんだ、この中年は。口答えされて腹が立つというだけの「反応」で、娘を心配したり、慰めたりする気持ちはなくなってしまうのか。私の親ってそんなもんなのか。

 たまらなくなって、駆け出した。そのまま、家を飛び出した。


 桜並木は、既に若々しい緑が映え、日曜の日差しを浴びてきらきらと輝いていた。瑞希は禿げゆく頭を想った。中学のときに好きだった佐伯は、ショートボブの北村さんと付き合った。定期考査の一位は、ポニーテールの長瀬ちゃん。うちのチームのエースは、セミロングの美里。円形脱毛症の発症率は2パーセントとあった。禿げの2パーセントと、禿げてない98パーセント。きっぱりとした境界線。まるで! 私の生え際のように!

 往来で突然立ち止まった瑞希を見て、周囲を歩いていた人たちはぎょっとした様子で、しかしそれ以上の関心もなく、去って行った

 しかし、一人、肩で息をする瑞希の前に、毅然として立つ女性がいた。

「あの……!」

 あの美容師だった。彼女は神妙な面持ちで、瑞希に語りかけた。

「私、分かるかな」

「あ、さっきはどうも……?」

「いや、こちらこそ。それでね、えっと、あなたに伝えたいことがあるの」

 瑞希はつばを飲んだ。

「近づいてもいい?」

「どうぞ……」

 美容師は正面から真っ直ぐと、瑞希に向かって歩いて近づき、そしてそのまま、背中側へと回り込んだ。

「ここにね、円形脱毛症がある」

 瑞希は黙って頷いた。

「それと、ここ。ここにも」

 そう言って美容師は、瑞希の耳の後ろや後頭部に次々と手を当てていった。頭皮に直接ぺたりと、指の腹が当たる感触があった。

「さっきは言えなくて、でも、大事なことだから」

 想像するのも恐ろしかった。森の焼け跡のような私の頭。瑞希は思った。しかし、絶望はしなかった。美容師の言葉や態度には希望があった。

 ぺこりとお辞儀をして、瑞希は駆け出した。新しい髪型を、もう決めていた。

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