カタルシス

 幼少期、ある日、ある朝、母がこう言った。「大事な話をするから、よく聞いてね。返事は?」

 母のそんな調子は聞いたことがなかったので、驚いた。よく覚えている。


「あなたはママの子どもだから、周りのみんなと違って、特別なの。ママが特別だから、あなたも特別になったの。ママのママも、特別だった。あなたが将来結婚して、子どもが生まれたら、その子もきっと、特別になる。特別な力をもっているのよ。

 呪い。よく聞いてね、の・ろ・い、よ。ママもあなたも、呪いの力をもって生まれたの。あなたが何かに対して執着したり、強い感情をもつと、その感情は呪いに転じる。願いや考えが、他人や自然の動きに干渉して、現象を引き起こす。それが呪い。強く思うだけで、何かが起こる。それが、呪い。起こることが、良いこととも悪いこととも限らない。それによって、あなた自身が危険な目に遭うかもしれない。

 呪いの力はコントロールできない。それが、代々伝えられてきた最も大事な教訓。だから、呪いを引き起こさないように、何かに対して強く思うことを避けて暮らしなさい」


 母が発した言葉の半分以上は、当時の私には理解が及ばなかった。しかし、母の言いたいことは欠かさず伝わった。私は、自分の生まれと生き方を理解した。母が、そう強く願ったからだったのかもしれない。

 とにかく、私は母の言いつけを守って暮らした。

 嫌いな野菜を残さず食べた。ブロッコリーは青臭くてボリュームが多い。トマトはジュレのような食感と、薄い皮が口に残る感覚が耐えがたかった。しかし、耐えた。我慢していることすら忘れるように、そう心がけたことすら意識しないように。

 美味しいと感じたものを何度も食べた。飽きるまで食べた。特別な好物にならないように。おかげで、アイスクリームを食べると蕁麻疹が出る。

 運動は苦手だった。特に走るのが遅くて、小学校の体育では注目を浴びた。視線を肌に感じた。視線を振り切り、自分の足の動きに集中しようとした。そうすればするほど、足はもつれ、ついには転んだ。顎、肘、膝に細かい砂が食い込んだ。私ははっとして、速く走ることも、皆の視線も、こけて擦りむいた膝も、どうでもよいのだと思い込んだ。

 得意なことはなかった。図画工作や楽器の演奏はすぐにコツを掴むことができたが、コツを掴んだと思ったらすぐにやめた。あとは、同じだ。

 親しい友人はいなかった。しかし、そのことは、周囲に比べても特別劣っていると思わなかった。私のような事情がなくとも、友達のいない人は、そこら中に平然としていた。 異性との関わりがあった。中学の教室には、性がもたらす緊張と興奮が充満して見えた。異性を魅力的に感じたと、私自身が気付いたその瞬間に、私はその異性の母親を想像した。そうすると、すぐに気持ちが落ち着くとわかった。

 腹を立てることはなかった。他人にも、物にも、ルールにも、自分にも、期待しなければ、腹は立たない。すべて自分でなんとかする。今ある状況でなんとかする。無力な自分ができる範囲でする。それなら、腹は立たない。


 母が死んだ。癌の治療を続け、しかし徐々に衰弱し、やがて死んだ。私は三十歳になっていた。葬儀を執り行った。初めての経験だったが、そつなくこなせた。思ったよりも費用がかかった。

 母の仕事の関係者が数人、顔を見せていた。そこで私は次のような会話を聞いた。

「本当に、残念です。太陽みたいな人でしたから」

「そうですね、本当。太陽と言うよりは、嵐のようだと言った方が的確かもしれませんけど」

「もっともですね・・・・・・」

 家庭と職場で見せる表情というのは、そんなに違う物だろうか。母は、死の間際に何を思ったのだろうか。


 雨の降る、ある日の夕方、スーパーに行った。白ネギが細くて高かったので、その日は買うのを見送った。

 店を出ると、傘立てに置いていた私の傘がなくなっていた。

 私のビニール傘。

 雨が降っている。

 はじめから雨だったのに。

 他人の傘を?

 は?


 閃光。とてつもない爆音が轟いた。近くに雷が落ちたのだ。見ると、広い駐車場の端の辺りに、焦げた肉のようなものが横たわっていた。

 雨がやんだ。雲の隙間から光が差し、口の中はアイスクリームでいっぱいになった。足下では好みの異性が裸で尻を振っていて、たくさんのクラスメートが指をくわえて私を見ていた。私は、太く艶やかで逞しい立派な白ネギを、小さな尻に向かって猛々しく打ち付けた。

 私の、天国がやってきたのだ。

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