【短編集】至天ショートストーリーズ

古成おこな

ザリガニの恋

 居酒屋でこんな会話を聞いた。


「武智さんは奥さんがいるじゃないすか」

「君ね、俺だって色々投資して努力して、つまりは大恋愛の末、やっとその関係を作れたんだから。その上、継続するにはもっとコストがかかるときた。一大プロジェクトなのよ。相手を作るってのは」

「そういうもんすか」

「君のそういう話は、そういえば聞いたことがないね。みんな言ってるよ、恋愛なんか興味なさそうだって」

「でも、僕だって最近、恋愛してますよ」

「え? そうなの」

「夢の中に出てくる女の子がいるんです」

「ん?」

「その子に、いま僕は恋をしているんです。今朝だって……」

「待って待って」

「今から夢の話をします。いいですか」

「よくないけど、まあ、仕方ない。今日だけだ。聞いてあげよう」

「初めて会った時は、高校の文化祭か何かでした。そういう設定なんです、よくある話。

 彼女はなんていうか、ちょっと変な子で、ほかの女の子とはひと味もふた味も違っている。どんな風にかというと、そう、一つは、映画好きなんです。熱烈な。それで、その文化祭で、何か映画を撮ろうとあれこれ動き回っている。周りのクラスメイトたちは呆れてるっていうか、ちょっと付いていけない感じなんですけど、僕はその子のやってることとか、趣味嗜好が理解できて、やれやれしつつも、なんだかんだ懐かれてる、みたいな。

 文化祭中の学校は、まあとんでもなく広大で入り組んでいて、迷路じゃないんですけど、ショッピングモールとダンジョンを足して割ったような不思議で楽しい空間。僕はそこで教室を探して歩き回っていたんです。その講義に出ないと、単位が危ないって。これは大学の設定が入り込んでますね。まあ、夢ってそういうものです。

 奥まったところにあるヒト気のない廊下で、彼女に出会いました。彼女は何かをやらかして、先生に追われているんです。角から飛び出してきて、誰かいる! とぎょっとするんですけど、それが僕だとわかると、途端に安心して緩む表情。そのとき僕は、胸がギリリと、締め上げられるわけです。好きってことなんです。

 そもそも、彼女が現れる前から、ちょっと期待してたりするんですよね。ぷらぷら歩きながら、もしここで今、あの子が来たら……。二、三の会話のやり取りを用意したりなんかしちゃって。そして本当にやって来る。流れキテる。運命なのかもって思う。

 僕は講義のことなんか忘れて、場面は文化祭ですらなくて、ただただ純に、一緒にいるその時間を引き延ばそうと、ぐるぐるぐるぐる目を回しているのです。

 実は、二人きりではありません。彼女には親友ポジションの女子が一人、常に隣にいます。だから中々、彼女と本格的にそういうイイ雰囲気になることはありません。恋敵はいないので、いわばその友達こそが最大の敵でしょう。しかし、僕は僕で、実はその友達のことも少しだけ、いいなと内心思っている。内心ね。

 三人きりの世界で、僕はぐるぐる目を回している。ぐるぐる、ぐるぐる。気付けば朝、僕は二十六歳で、平日七時の白い天井。胸の高鳴りだけを現実に持ち帰って、彼女の顔も思い出せない。そんな恋愛です」


「それって、最高に報われない恋なんじゃないの?」

 武智先輩は真面目な顔でそう尋ねた。後輩は前を見据えた。

「世界のルールが変われば全然あるんで」

 それを聞いた武智先輩は、くっくと笑って静かにグラスを傾けた。普段の武智先輩なら、「なんだそれ」「それを言ったらなんでもありだろ」と正しく返していたことだろう。何かが変わり始めているのかもしれない。


 妻が会計をして、私は外に出た。日が沈み間もない、暑気の名残。店の裏手で一服していると、足下にうごめく気配を感じた。見ると、細い溝の内側でザリガニが二尾、交わっていた。ザリガニの恋も実る夏。

 妻――正確には、元妻――が出てきたので、並んで帰った。それきりだ。その日私たちは、別れ話をしていたのだ。

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