第19話
逃げた怪物達を追って、ライルはカシュガノの尾根を越え、事実上の公国領内へと入った。
カシュガノ側の山肌とは打って変わって、公国領側はまるで断崖絶壁だ。岩肌が剥き出しで草は殆ど生えておらず、ごく稀に岩の間から枯れ枝のような木が生えている。
その山肌を、ぼんやりと白く光る獅子が僅かな足場を飛び移りながら下っていく。大きめの岩や、絶壁の中でもやや飛び出した場所に向かって、時には数メートル降下しながら地面を目指す。ライルは獅子の動きを妨げないよう立髪を掴み、獅子の背に身を添わせらように屈めている。
程なくして100メートルほどの高さを降りて、獅子は岩の地面に四足が落ち着けた。足元に転がる石を避けながら進むと、次第に岩が土に変わり、まばらに草と藻が生えた針葉樹の森に入った。
追跡の頼りにしていた血の跡は森の中へと続いている。
先へ進むか、ここで引き返すか……。
山岳部の国境は曖昧に成りがちだが、この辺りは既に公国領で間違えないだろう。しかし公国政府がきちんと状態を把握しているか怪しい。国境近辺にあえて集落や町を作らせる国もあるのに、見たところ周囲は人影すらなく、手付かずの自然に囲まれている。
という事は、もう少しライルが踏み込んだところで公国当局に気がつかれる可能性は極めて低い。
ライルは獅子から降りて、針葉樹の森の中へと入っていった。
登ったばかりの朝日は、まだ山脈の稜線を縁取る程度にしか公国領には届いていない。しかも自然のまま茂った枝葉と立ち込める霧によって辺りは一段と鬱蒼としている。
ライルをここまで乗せてきた獅子は、星の力の具現化であり、白い毛並みは反射ではなく自ら淡く輝いている。暗い視界では僅かな光でも目につくものだ。ライルは獅子の姿を消し、枝葉の間から僅かに降り注ぐ光を頼りに森の奥へと進んで行く。
怪物の痕跡を視覚で確認するのは困難だが、代わりに立ち込める血の臭いが行先を示してくれる。それが次第に強く濃くなり始めると、源である怪物の唸り声が木々の間に響き渡った。
巨躯を持つ生き物の低く響く音の中に、大人に成りきらない年端の女が喉をすり減らして呻くような、そんな叫びが混じった声が木々の間で児玉する。
苦痛に耐える生き物の叫びは、もはやライルがねじ伏せるのは容易い状態であるこのを示していた。しかし同時に底知れぬ悍しさを纏い、本能的な部分が姿を目にする事を拒むような、嫌悪から成る恐怖心を煽ってくる。無意識に怯む脚を一括して辺りを見回す。
徐々に明るさを得つつあるが、まだ十分とは言い難い視界の中で、ライルは怪物達の様子を伺えるぎりぎりの場所に身を潜めた。
カシュガノで見た大柄の美人が、荒い呼吸を繰り返しながら上下に浮き沈みする肉塊に覆いかぶさって何やら囁いている。
「お姉さん……、姉さんもう少し。もう少しだけ動いて……。」
そして歌のような呪文を口ずさみながら怪物の体に手を添わせる。
美人が触れた場所の傷がじわりじわりと治癒していくのを確認すると、歌うのをやめた。同時に怪物が咽せるように息を吐き、治ったはずの傷は更に大きな裂け目となって血を噴き出す。
慌てた美人は、先ほどよりもはっきりと歌いながら怪物の傷口を抑える。必死さ故か、それとも集中力や体力を要するのか、美人は額に玉の汗を浮かべながら歌い続ける。
怪物は重症で、それを操る美人は怪物の治癒のために動けないでいる。
これは好機。
ライルが一歩踏み込んだときだ。
怪物に覆いかぶさっていた美人が突如コチラを向いた。
同時にライルの動きが止まる。美人の動きを警戒したのではない。
八方を囲まれている。
姿こそ見えないが、闇に溶け込む気配は熊や狼ではない、もっと強い存在のものだ。それに野生の生き物ならば、ライルに憑いた星を恐れるが、取り囲む気配には全くその様子がない。
いくら怪物達に気がいっていたとはいえ、そんなものが近づいてきたら気が付かない訳がない。
気配は突然現れたのだ。
思考ばかり目まぐるしく行き交うものの、体は動けないまま佇んでいると、気配の一つが動き出した。
まずは一歩、ライルとの距離を縮める。
それに倣って他の気配達も一歩距離を詰める。
リーダーの指示通り、完璧に行動する群れの動きだ。
また一歩、リーダーがライルに迫る。
群れがそれに倣う。
異様な雰囲気のなか、ライルは不本意にも上がる鼓動を抑えながら、周囲の気配を探る。
幸いにもライルを囲む気配の間に、一箇所だけ不自然なほどに気配同士の距離が空いている場所がある。しかも都合よく夏国との国境の方面だ。
あまりにも都合が良すぎる。罠でないはずが無い。
だったとしても、獅子の力を駆使すれば振り切れない距離ではないだろう。それに山岳の向こう側には上官率がいる連邦軍もいるはずだ。
気配のリーダーがまた一歩ライルに迫り、直後に狼のそれに似た遠吠えを挙げた。
その遠吠えを合図にライルは気配の包囲を抜けるべく走り出す。同時にライルを囲んでいた気配が一斉にライルへの猛襲を開始した。
赤黒い鉄錆のような毛並みをした、ライルと同じぐらいの体高を有する、大きな狼のような獣が八方からライルを狙う。
その跳躍力と躯体の頑丈さは凄まじく、ライルとの間に針葉樹があるならば、それごと薙ぎ倒してライルを狙う。
ライルは退路の選定を本能に任せて、茂みを駆け抜け、絶壁手前まで差し迫ると再び獅子の姿を出現させ、その背に飛び乗る。
獅子は現れた時から止まる事も速度を緩める事もなく、来た時とは反対に、僅かな足場を飛び移りながら断崖を登っていく。
獅子が山肌を登っていくのを確認すると、錆色の狼達は茂みの中へと戻っていった。追う様子など一切なく、獲物を逃した事を悔いる風もない。
獣達が命じられたのは、ライルを公国領から退ける事。それが達成できれば相手には何の興味もない。それが彼らだ。
美人は怪物の体に手を添えたまま周囲を見渡す。
背後に感じていた気配は、どうやら自分達を狙ったものではないらしい。しかし安心してはいられない。気配を操る正体が、どういう目的でここへ来たのか分からないのだから。
獣が走る音がして、美人が顔を上げると、目の前に体高が2メートル以上ありそうな、黒曜石の艶と色の毛並みを持った狼が現れた。
「シャームは居るか?」
狼の頭上から張りのある男の声が降ってきた。
シャームと呼ばれた美人は声の主を認めるとニヤリと笑った。
黒い髪に白磁の肌、鉱石のタンザナイトを彷彿とさせる青い瞳が一方、もう片方は本来白い部分が黒く、中心がルビーのように赤い。厚手の外套に隠されているが、着ている服は公国軍内部でも皇室に出入りする者が袖を通す代物だ。
「見ての通り、私は居るわよ。ところでザルム、まるでフェンリルじゃない。美しい私を奪いに来たのかしら?」
「戯言はいい、ナーディエルが呼んでいる。乗れ。」
ザルムは狼を促し首をシャームに向けて降ろさせる。
シャームは躊躇いがちに狼の首に手を掛けると、遅いとばかりにザルムがシャームの襟を掴んで引き上げる。
こ綺麗にしているが、シャームは上背があり、美しさのために鍛えている。見た目以上に重さがあるにも関わらず、ザルムは片腕で容易く引き上げてしまった。
シャームはまるで荷物のような扱いが不満で仕方がない。かといって頭の硬い冷血漢に、女性を扱うように丁寧な対応されるのもピンとこない。だから礼を言う代わりに毒づいた。
「インペラトルを呼び捨てするなんて。飼い犬にしては頭が高いんじゃない?」
既に移動を始めている狼の首の上で、シャームは体制を整えながらザルムの方へ振り返る。しかしザルムはシャームを見向きもしない。
「アイツが呼べと言った。」
「同郷のよしみですっけね。妬けちゃうわね。」
「心にもない事を……。」
シャームは鼻で笑うと、徐に怪物へ目を向ける。
錆色の毛並みの獣が、丘の上の魚のように無様にも必死に息を繰り返す怪物を取り囲んでいる。
「一思いに噛み殺してやってよ……。」
「生憎だが殺しはしない。まだ鯨を取り出してないからな。」
「ならカグノエを使って。姉さんの声で耳が痛いの。」
シャームは片手は狼の毛並みを掴んだままに、もう片方の手を耳添えた。
ただでさえ周囲に響く歪な呻き声だが、シャームにとっては脳の中に直接響いているのだ。
高音と低音が混ざり合った不協和音のお陰で、先程から偏頭痛と眩暈に襲われている。
気を抜けば吐き出してしまいそうだが、ザルムにそんな汚い様を見せるのはプライドが許さない。
シャームに憑いた星の歌が、怪物、つまり鯨という星を刺激するように、鯨の声はシャームに強く影響する。
シャームと怪物は星を介して互いに作用し合っているのだ。
「カグノエは考えなしに使うと面倒だ。悪いがお前も鯨も、皇都まで耐えてもらう。」
夏国国境から皇都まで、通常の移動手段ならば陸路で4日、空路で8時間といったところか……。例えこの獣が光の速さで駆け抜けるとしても、シャームはもうしばらく意地を張っていなければならないようだ。
怪物を取り囲んでいた内の一匹が、徐に怪物の胴の辺りで口を開く。そして獣の親が子を運ぶのと同じように、怪物を咥え上げた。生憎互いの大きさが似たり寄ったりなため、怪物の頭はやや宙に浮いているが、後ろ足は地面を擦ってしまっている。
それも仕方がないとばかりに、獣は怪物を咥え直す様子もなく、踵を返して歩み始めた。獣達が動き出したのを合図に、ザルムとシャームを乗せた狼が走り出す。
狼は地面を蹴るたびに加速し、やがて疾風の速さに至る。狼が過ぎ去った後には、巻き起こされた風によってしばらくの間、木も草も端に退き道を作る。続いてその道を錆色の獣達が、走り抜けていく。
群れは針葉樹の間を抜け山を下り、皇都を目指す。
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