第3話
昨日と打って変わったように、吉川商店街の賑わいは見られなかった。それもそのはず、現在の時刻は午前九時半。まだ、大半の店のシャッターは閉まったままだ。昨日通路に張りめぐらされていた黄色いテープも、元の場所が分からないほど跡形もなく消えている。
俺が再びこの現場を訪れようとした訳は、やはり布谷の発言が気になったからだ。確かに、今は人通りが少ないが、鳥居明美が引ったくりに遭った時間帯はかなりの人の数が通りを行き来していた。そんなリスクを冒してまで引ったくりをするのだろうかという、布谷の考えがどうしても捨てきれなかった。
「お待たせしました」
俺は後ろを振り向くと、布谷が紺色のスーツ姿で立っていた。昨日着ていたジーンズ姿と比べると、格段の差があった。結婚して刑事を辞めていなかったら、このスーツ姿の彼女と仕事をしていたのかと思うと感慨深いものがあった。
「子供はどうしたんだ?」
「母に預けてきました」
彼女は頬笑みながら、そう答えた。俺たちは話しながら、ゆっくりとした足取りで商店街の中心地へと向かった。
「ごめんな、無理言って来てもらって」
「いえ、いいんです。でも、かえって嬉しいです」
その笑顔の奥で何を考えているのかを、慮ろうとした。彼女が俺に気を使っていることは、容易に想像できた。夜中に俺には布谷の笑顔が無理やりのようにも思えた。彼女には申し訳ない気持ちでいっぱいだが、今は見て見ぬふりをしようと決めた。
「旦那には、話したのか?」
「今日、ここへ来たことですか? いえ、言ってません。それで、そのことでお願いがあるんですが……」
俺に会ったこと自体を、夫には内密にしてほしいと言われた。
「何か上手く説明できそうもないんで。話さないほうがいいような気がするんです」
布谷は恐縮そうに言った。実のところ、俺も布谷の提案に賛成だった。布谷の夫は警察官で、今は隣町の勤務だと聞いていた。だから、この付近で彼女の夫と鉢合わせすることはほぼない。だからと言って、布谷に納得できる答えが得られるまで付き合ってもらうつもりは毛頭ない。検証が終われば、布谷とは当分の間は会うことはないだろう。俺からも連絡するつもりはなく、今日で彼女とはサヨナラだ。
「安心しろ。俺もそのつもりだったし、俺からはお前の話は一切しないから」
「ありがとうございます」
よほど不安だったのだろうか、彼女はホッとした表情を浮かべた。
「久しぶりにスーツなんて着たんで、恥ずかしいです」
布谷は、スカートの裾を何度も触りながらそう言った。スーツを着てくるようにと頼んだのだからだ。
「相棒の彼は、今日はいないんですね」
「平野か? あいつは事務所で書類を作ってる」
平野に今の状況を説明したら、反対されるに決まっている。うるさい男には、蓋をしなければならない。
「ということは、私が平野さんの代わりってことですか?」
「おっ、さすが鋭いな」
布谷には、刑事のフリをして聞き込みに付き合ってもらう。彼女には、客観的にこの件を眺めてもらうつもりだ。
「でも、警察は、事故として処理しようとしてますよね」
さすが元刑事は違う、と心の中でつぶやいた。彼女はインターネットで情報を検索してきたのだろう。やはり用意周到なところは、昔から変わってない。
「まあ、お前に嘘はつきたくないから正直に言うが、誰も病死以外の死因を疑ってない。証拠がなさすぎるからな、あまりにも」
「そうですよね。せめて、引ったくり犯だけでも捕まってほしいですよね」
「俺もさ、あれから考えてみたんだよ。お前の指摘した通り、どうしてこの場所だったんだろうなぁってさ」
「あの、そのことなんですけど……」
布谷は立ち止まり、一呼吸置いてから話し始めた。
「この場所でじゃなきゃダメだったんじゃないでしょうか?」
「えっ? それは、どういう意味だ?」
俺はその意図が分からず、思わず眉根を寄せた。しかし布谷は俺の質問には答えず、逆に質問をしてきた。
「その話の前に、一つ質問していいですか? 鳥居さんは何を取られたんですか?」
「そこなんだよ、俺が一番引っかかってるのがさ。実は捕られたのはバッグじゃなくて、パンが入った袋だったんだよ」
犯人はどうして鳥居明美のバッグを引ったくらずに、パンの入ったビニール袋を引ったくったのだろうか。
「いくら引ったくり犯だってさ、バッグとビニール袋を間違えるかね?……お前はどう思う?」
「うーん、そうですねぇ……」
俺の問いかけに、布谷は腕組みをして思案し始めた。でも俺には、考えていることが何となく分かっていた。
「お前の考えてること当ててみようか。どうして、バッグを盗まなかったのかってことだろ?」
俺の指摘が的を得ていたのだろう、布谷は薄笑いを浮かべながら話を続けた。
「そうなんですよ。商店街で引ったくりをするのは、かなりのリスクを伴います。にもかかわらず、どうして犯人はバッグを盗まなかったのでしょうか? 私がもし引ったくり犯だったら、バッグを奪えないとわかった時点で犯行を断念すると思います」
俺は大きく頷いた。全く同じ考えだった。
「まあ、犯人がよっぽどお腹を空かせていたと考えたら、あり得なくはないけどな」
「だったら、店で商品を万引きしたほうがまだいい気がしますけど」
我々はあくまでも証拠があまりない状態で推理しているので、確信的なことは言えないのが歯がゆかった。このままでは話は平行線をたどるだけなので、話の方向を変えた。
「まあ、その話は置いておこう。被害者が最後に立ち寄った店が、あそこのパン屋だ」
俺は『高岡ベーカリー』と書かれた看板を指さした。今はまだ開店前なのでシャッターは閉まっている。
「高岡ベーカリーですか。ここの店のパン、とても美味しいって有名なんですよね」
「へー、そんなに有名な店なのか」
「私はまだ食べたことないんですけど、ここの店のピーナッツパンが大人気なんですよ」
どうやら、この界隈ではかなりの人気店のようだ。腕時計を見ると九時ちょうどだった。
「『高岡ベーカリー』の店員に話を聞きたいと思っててさ。鳥居明美はこの店から出てすぐに引ったくりに遭ったんだ」
被害者と最後に接触をした人物に話を聞いてみようと思った。何か不審な点がなかったか確かめておきたかった。
「えーっと、一つ質問いいですか」
布谷は右手を小さく上げた。
「店から出てきたって分かってたら、どうして昨日の段階で話を聞かなかったんですか?」
「必要ないと思ってたからさ」
布谷は俺の返答に対して、少し顔をしかめた。
「必要がないってことはつまり、部長は主任が単独行動をしていることを知らないってことですよね?」
「まあ、そういうことになるな」
「ということは、上司にバレたら始末書を書かなくてはなりませんね」
「まぁ……そういうことだな」
俺は、悪びれずにそう言った。すると布谷はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「変わってないですね。主任の、その頑固なところ」
「まぁ、そうかもしれないな」
疑問を感じたことがあったら、初心に戻るというのが俺のモットーだ。
「もう一度聞きますけど、こんなことして本当に大丈夫なんですか?」
彼女が不安がるのも無理はなかった。原則、刑事は二人一組で行動するのが決まりになっている。ましてや、部外者と一緒に行動したことがバレたら、俺の首は吹っ飛ぶだろう。
「大丈夫だよ。バレないようにするからさ」
「でも、私は今は部外者ですよ。本当に、大丈夫なんでしょうか?」
「何だ、あいつの言ったこと、気にしてるのか」
意外にも、布谷は部外者というワードを気にしていた。
「あいつはさ、興奮すると言葉が乱暴になる癖があってさ。俺も、手を焼いてるんだ。気にするな」
「そうなんですか」
布谷は複雑そうな表情を浮かべながらも、戸惑いは隠せずにいた。俺は、彼女を元気づけようとした。
「大丈夫だ。お前の刑事の勘は完全に戻ってきてる」
布谷は眉根を寄せ、意味が分からないという表情をした。
「刑事の勘、ですか」
「お前、勘が冴えてる時は、何をやっても失敗しなかっただろ。その時の感覚を思い出してみろよ」
「感覚、ですか……なるほど」
布谷は戸惑いを隠せないようで、ただ苦笑いを浮かべていた。
立ち話に花を咲かせていると、斜め向かいの店のシャッターがゆっくりと上がっていくのに目が留まった。店が開店したのだ。白塗りの外観にガラス張りの出入り口とブルーの木枠に縁どられた窓ガラスが、おしゃれな雰囲気を醸し出している。そしておもむろに扉が開いたかと思うと、中から白いエプロンと三角巾をしたマスク姿の女性が現れた。女性は周囲を見回してから再び店の中に入っていこうとしたので、俺はすかさず声をかけた。
「お忙しいところすみません」
女性は声を掛けられたことに困惑気味な表情をみせた。
「えっと、すみません。あの、まだ開店してなくて準備中なんですよ」
「いえ、あの、僕はこういう者ですけど」
俺は女性に警察手帳を見せた。すると女性は目を真ん丸にして、更に驚いた表情を見せた。
「えっ、警察の方が、どのようなご用件ですか?」
「あの、昨日この店に来られた鳥居明美さんという方の件についてお話を伺いたいんですが。店長さんはいらっしゃいますか?」
「えっ、あの、私ですが……」
女性は、高岡奈美と名乗った。彼女は思いがけない我々の登場に、戸惑った様子を見せていた。
「お忙しいところすみません。大変恐縮なんですが、鳥居明美さんのこの店にいた時の状況を、出来るだけ詳しく聞かせていただけますか?」
「え、今ですか? 仕込みをしてる最中なんで、店が終わってからでもいいですか?」
「手間は取らせません。十分、いや五分ほどで構わないんで、話をさせてもらえないですか?」
せっかく布谷を連れてきてるのだ、今話を聞かなければならない。迷惑かとは思ったが、どうしても引き下がれなかった。布谷の方をチラリと見ると、緊張気味な顔で俺たちの話の行方を見守っていた。
「お忙しいところ恐縮ですが、少しでいいんで話を聞かせてもらえませんか?」
「……分かりました。仕事をしながらでもいいですか?」
「もちろんです」
「……どうぞ」
彼女は戸惑いながらも、俺たちを店の中に入れてくれた。店の中に入った途端、香ばしいパンの匂いが鼻をついてきた。高岡奈美は厨房に入っていくと、手慣れた手つきでパン生地をこね始めた。厨房と店内はガラスで仕切られているので、パンを作りながらも客の動向を知ることができる。縦長のテーブルの上には、三つのトレーが置かれていて、その中の一つにクロワッサンが縦一列にきれいに並べられていた。
「あっ、申し訳ないですけど、この中には入らないでくださいますか」
俺たちが厨房の中に入ろうとしたとたん、彼女から制止された。俺たちは仕方なく入り口に立って話を聞くしかなかった。そのため高岡奈美との距離は、二メートルほどになり心理的には遠く感じた。
高岡奈美はパン生地を手のひらでクルクルと丸めると、パットの上に並べていた。その手さばきはリズムが良くて、見ているこっちが心地よくなるほどだ。彼女の斜め後ろにある流し台に視線を移すと、粉まみれの麺棒やまな板が無造作に置かれていた。室内の温度も三十度以上はあるだろうか。とてもじゃないが、一時間もいられないような蒸し暑い空間だった。そんな環境の中でも、高岡奈美は忙しなく両手を動かし続けていた。
「あっ、あれが噂のピーナッツパンですよ」
布谷はテーブルの上のパットを指さした。パットの上には、焼き上がったばかりのパンが三列に並べられていた。クロワッサンの生地に、ピーナッツを混ぜ込んでいるパンだという。作業場には、ピーナッツの甘ったるい匂いが充満している。慣れないと、気持ち悪くなるくらいのレベルの匂いだ。
「すごい、いろんな調味料がある」
布谷の視点は、次から次へと変化していく。パン屋に興味があるのだろうか。布谷は入り口付近にある棚を凝視し始めた。棚には、塩やベーキングパウダーなどの瓶や缶に入った調味料が何種類も並べられていた。日本製だけでなく、英語やフランス語で書かれたものもある。
「すみません、用件をお願いできますか?」
高岡奈美は俯いたまま、我々を急かすように言った。俺たちの私語が過ぎたようだ。イラついているわけではなく、山のような仕事量に追われているため素っ気ない言い方になっているように感じた。
「すみません。えーと、ですね」
手帳を取り出すと、話を聞き取りやすくするため声を張って質問を始めた。
「改めて聞きますけど、昨日の件はご存知ですよね。鳥居明美さんがこの商店街で亡くなった件ですけど」
「えぇ」
「ちなみに、鳥居明美さんはご存知ですか?」
「いえ。鳥居病院の院長夫人ですよね。そう言われて、気づきました」
「夫人は、よくこの店で買い物をされるんですか?」
「さぁ、分かりません。私は面識がないんです」
販売の方はパートの女性に任せているということだった。高岡奈美は手を動かしながら答えているが、俺が質問している間、一回も顔を上げなかった。
「鳥居明美さんの当時の様子はどうでしたか。何か変わった様子はなかったですか?」
「分かりません。昨日は、厨房にずっといたんで」
「でも、ここからだとお客の様子が見えますよね」
俺は、店内の方へと視線を向けた。高尾奈美が立っている場所から、厨房の中でも目を配れば客の様子は手に取るようにわかる。
「何でもいいんです。何か、気づいた点があれば教えていただきたいんですが」
「申し訳ないですが、厨房にいてずっとパンを焼いていたんで、覚えてません。すみません」
高岡奈美は顔を上げると、パンを乗せたプレート手に取ると、後ろを向いてオーブンの中にそれを入れた。その瞬間、金属のカンッという高い音が厨房に響いた。彼女の額からは、大粒の汗が噴き出ていた。朝の仕込み全ての作業を一人でこなしているため、手が足りないのは明らかだった。
「あの、すみません。一つだけ質問させてもらってもいいですか?」
不意に布谷が口を挟んできた。目の前の布谷は、手帳とペンを持って完全に刑事になりきっていた。
「……何ですか?」
高岡奈美は相変わらず下を向き、手を動かし続けている。
「このお店にはアルバイトの方はいらっしゃいますよね?」
「います」
「昨日、店頭で販売をした方はどなたですか?」
「パートの女性ですが」
「ちなみにその方は、今日出勤されますか?」
布谷の問いに答えるように、高岡奈美は顔を上げた。
「……ちょっと待ってください」
彼女は壁に掛けられたバインダーを手に取った。おそらく、勤務表だろう。
「えーっと……今日は来ませんね」
高岡奈美は、パートの女性を三人雇っているという。
「じゃあ、作業場の方は、高岡さんお一人でやられてるんですか?」
「今は基本、そうですね。それが何か?」
「え、いえ、何でもないです。ありがとうございました」
布谷は、俺を見て頷いた。もう、済んだという合図だった。
「お忙しいところ、すみませんでした」
俺たちは頭を下げた。高岡奈美は相変わらず手を動かし続けながら、無言で頭を下げ、その場を後にした。
「すごいな、もう並んでるよ」
店の外に出ると、開店三十分前だというのに行列ができていた。その顔触れは、やはり女性が多いが男性の高齢者なども列に参加していた。
「これじゃあ、午前中に売り切れるはずですね」
「でも、こんな朝早くからがんばれるよな。俺は無理だわ」
元来の性格が、美味しい物を食べたいということに興味がない。だから、生まれてこのかた、行列というものに参加したことがない。食べ物に労力をかける気持ちが、全く理解できない。
「まあ、主任が行列に並んでるなんて想像できないですけど……ちょっと、話をパン屋に戻しますけど、一人で忙しそうでしたね、高岡さん」
「まあ……そう言われれば、そうだな」
確かに、高岡奈美はトレーを持ちながら厨房を右往左往していた。人手が足りないのは明らかだった。見ている俺の方が、思わず手助けをしてあげたくなったほどだ。それくらい、高岡奈美は時間に追われていた。
「厨房の作業って、一人じゃ無理な気がしますけど。主任はどう思います?」
「まぁ、店によって事情があるんだよ。いくら人気店だといっても、中身は火の車っていうケースもあるしな」
商売繁盛だからと言って、必ずしも経営が上手くいっているとは限らない。俺の高校の同級生はラーメン屋を営んでいた。食材にこだわったラーメンを作ると息巻いていたが、結局思ったような成果があげられず、一年も経たないうちに店を閉めてしまった。理由は、材料費や人件費との兼ね合いと味が客に飽きられたからだという。
「店の事情があるってことですね……あれ、彼女がパートの女性ですかね」
店内に目をやると、パートの女性が店内に現れていた。彼女は手に持ったトレーの上の焼き立てのパンを、トングで素早い手つきで棚へと置き始めた。
「山田さんっていう方ですね」
布谷がつぶやくように言った。胸の名札を見ると、『山田』となっていた。二人のパートのうちの一人らしい。ポニーテールを揺らしながら、せわしなく手を動かしている。
「彼女にも話を聞きたいですけどね」
布谷は、名残惜しいのか世話しなく働いている店員の姿を眺めていた。高岡奈美は、パートの女性を三人雇っていると話していた。山田という女性は、そのうちの一人であるのには間違いはない。
「お待たせしました」
扉を開けて山田さんが出てきた。開店時間になったようで、並んでいた客は待ってましたとばかりに中に入って行った。
「やっぱり、ピーナッツパンが一番人気ですね」
客の大半は、店の中央に置かれているピーナッツパンに手を伸ばしていく。みるみるうちにピーナッツパンはなくなり、山田さんが奥からパンを持って来ては補充するのを繰り返している。
「あの主任、ちょっとお願いがあるんですけど……」
「何だ?」
「ここのパン、一度食べてみたかったんですよ。何度か買おうとしたんですけど、いつも売り切れで。今ならすぐに買えそうなんで……いいですか?」
布谷は、恐縮しながら俺にパンの購入を懇願し始めた。彼女には子供を預けてまで付き合ってもらっているのだ、断る理由は何もなかった。
「分かった。じゃあ、あっちで待ってるから」
「ありがとうございます」
布谷は嬉しそうにほほ笑むと、混雑する店の中に入って行った。買い物が終わるまで缶コーヒーでも買って飲むか、と思った瞬間に携帯が鳴った。
「先輩、何やってんすか。何にも言わないで勝手に出ていくなんて、どういうことですか!」
平野は怒鳴り声をあげて、怒りをぶつけてきた。彼が怒るのも無理はなかった。なぜなら、俺が書くはずだった報告書を彼に押し付けてきたからだ。
「すまんな。ちょっと確かめたいことがあってさ」
「何ですか、確かめたいことって」
お前が部外者だと思ってる人と一緒だよ、などと言ったらこいつは憤慨するだろう。だから今は誤魔化すしかない。
「ちょっとな……それより何かあったのか?」
平野は俺の受け答えに満足がいっていないようだったが、不貞腐れた声でこう答えた。
「自首してきたんですよ、例の引ったくり犯が」
「えっ? マジかよ」
「マジに決まってるじゃないですか。これから聴取ですよ」
こんなに早く引ったくり犯が捕まるとは、正直驚いていた。だから少し面食らっていた。
「ちょっと、先輩、今どこにいるんですか。いい加減、教えてくださいよ」
平野のイライラ度は思っていたよりも強いらしく、俺の居場所をしつこく聞いてきた。どうやら、俺から一方的に仕事を押し付けられたのが気に食わないらしい。
「分かったよ。今からそっちに行くから」
「ちょっと、先輩」
平野が反論する声を無視して、電話を一方的に切った。そこへ、布谷がパン屋から戻ってきた。
「お待たせしました。ほら見てください、おいしそうでしょう」
布谷はパンの入った買い物袋を開けると、俺の方に向けた。ピーナッツのパンの香りが鼻を突いてきた。布谷は、袋の中を俺に見せるように右手を傾けた。
「一つ、食べますか?」
「ごめん、布谷。帰らなきゃならなくなった」
俺は平野から電話があったことを告げた。するとすぐに布谷の表情は、硬い表情へと変化していった。
「そうですか、捕まったんですか引ったくり犯」
「そうなんだ。なんか、中途半端な感じになっちゃったな」
実はこの後、鳥居明美の夫の自宅へ聞き込みをする予定だった。そこで彼女の意見も聞いてみたかったが、水の泡に消えてしまった。
「いえ、ありがとうございました。久しぶりに、刺激的な時間を過ごさせてもらいました」
布谷は頭を下げてお辞儀をした。顔は満面の表情を浮かべていた。
「じゃあ、またな」
俺は後ろ髪を引かれる思いだったが、その場を後にした。
署に戻ると、平野が拗ねたような表情をしながら俺の方へと近づいてきた。俺の胸に書類を突き刺すように差し出した。俺が平野に頼んでおいた書類だった。
「どこ行ってたんですか? 俺に内緒で」
「ちょっとな」
書類に目を通しながら、気のない返事をした。平野は、ここぞとばかりに深いため息をついた。
「やめてくださいよ、内緒で動くの。調子狂うじゃないですか」
平野は俺にストレートに不満をぶつけてきた。こいつは、若い年齢の割には思ったことをはっきりと口に出すタイプだ。上司によっては、彼を苦手な部下だと思う人が多いだろう。上に楯突く人間は、どこか地方に飛ばされるのが警察関係者だけでなく世の常だ。
平野は部長にも文句を言うときがある。俺は冷や汗をかきながら、二人の間に入って仲裁を取ったこともあるほどだ。俺が平野を守る理由は、こいつが俺の部下で良かったと思えるから。俺は思いつきで行動することが多々ある。俺のモットーは信念に基づいて行動すること。その信念は、残念ながら他人に理解されない。今日だって勝手に布谷に相談して、勝手に捜査を始めてしまったのだから。その暴走するのを止めてくれるのは、今のところ平野しかいない。
「そんなことより、例の引ったくり犯の情報をくれ」
平野は渋い顔をしながらも、ポケットから手帳を取って話をしだした。
「犯人の名前は村岡拓也で、二十三歳。現在は近所のコンビニとスーパーのレジのバイトをしてますね」
「フリーターか」
「はい、それとですね、彼の犯罪歴を調べたんですよ。そしたら、四年前に逮捕歴がありました。窃盗の罪で有罪判決を受けています」
「窃盗犯か」
村岡は住宅やマンションに忍び込み、宝石や高級ブランドのバッグなどを盗んだという。そして盗んだ品物をインターネットのサイトで売りさばいたため、犯行が発覚したらしい。金額にすると、総額で一千万にものぼるという。
「逮捕されたのは、この時だけみたいだな」
「そうみたいですね」
村岡は、逮捕されたが執行猶予付きで釈放された。それからは、真面目に働いていたらしい。
「……あれ?」
俺は、ふとした疑問を感じた。だから、平野に確かめるために話をふろうとした。
「あのさ……」
そう切り出そうとした瞬間、平野はさっきのお返しとばかりに俺の質問を完全に無視した。
「じゃあ、さっそく取り調べしましょう。時間がないですから」
平野は俺を急かすように立ち上がると、取調室へと向かった。
「えっ、おい……わかったよ」
後輩におちょくられているのに、俺は何故か怒りが湧いてこない。それは、平野といい関係が築けているからだ。そういえば、布谷も俺たちのことを『ナイスコンビ』と言ってたことを思い出した。改めて布谷の勘の鋭さに感服してしまう。
取調室は一番奥の部屋だった。中にはいると、俺は面食らってしまった。なぜなら椅子に座っていた村岡がいきなり立ち上がり、俺たちに向かって深々と頭を下げたからだ。
「この度は、とんでもないことをしてしまって、どうもすみませんでした」
村岡の突拍子な行動に、俺は正直なところ戸惑いを隠せなかった。村岡の行動はそれだけにはとどまらず、終いには土下座をし始めた。
「本当に、申し訳ありませんでした!」
「お、おい!」
「ほんの出来心だったんです。本当なんです。本当にすみません!」
「いいから、立てよ」
俺たちは懸命に謝り続ける村岡の腕を取ると、椅子に座らせた。村岡の外見はダブダブのズボンにヒョウ柄の上着を着ていて不良っぽく感じるが、彼の態度には犯罪者特有の反抗心のようなものは感じ取れなかった。
「謝るくらいなら、どうして引ったくりなんかしたんだ」
村岡の前に座った平野が、取り調べを始めた。俺は平野の後ろで腕を組んで立ち、二人のやり取りを見守ることにした。
「お腹が空いてたんです。もう三日も飲まず食わずだったんで」
村岡は自らの腹を右手でさすった。
「働いてるんじゃないのか?」
「リストラに遭ってしまって。今は無職です」
村岡はうつむくと、深くため息をついた。どうやら、バイトを転々としているという。
「鳥居明美が亡くなったことは知ってるよな? お前がひったくりをした女性のことだ」
「はい。ニュースで見てビックリしました」
「じゃあ、そのニュースを見て自首したのか」
自首という言葉に素早く反応した村岡は、申し訳なさそうな声で答えた。
「はい、僕が引ったくりをしたばっかりにその女性は亡くなったんですよね。本当にすみませんでした」
村岡は、申し訳なさそうに何度も何度も頭を下げ続けた。
「先輩、どうしますか。窃盗罪で処理しますか?」
平野は、眉根を寄せながら俺に聞いてきた。村岡の一方的な謝罪を信用しているのは確かなようだった。だが俺は、正直迷っていた。村岡の謝罪には違和感はなく、村岡を窃盗犯として逮捕するのが当然に思われた。それはつまり、鳥居明美の死亡は事故として処理されることになる。でも、それを全て鵜呑みにしてもいいのだろうか。
俺が黙って考え込んでいると、平野はこれ見よがしにため息をついた。
「今度はそっちが無視ですか。もう、子供じゃないんだから、やめてくださいよ、そういうの」
どうやら、俺がわざと仕返しをしていると勘違いしているようだった。愛想を尽かせた平野は、俺が承諾したと強引に決めつけにかかった。
「じゃあ、部長に報告してきますよ、いいですね?」
平野は、腰を上げて出口へと向かおうとした。俺はすかさず平野を呼び止めた。
「おい、ちょっと待て」
「何ですか?」
「俺が代われ」
「代われって言われても」
「いいから代われよ」
「……分かりましたよ」
俺の強い口調に気おされたように、平野は渋々立ち上がった。俺は椅子に腰かけると、村上を真正面から見据えた。
「どうして自首したんだ?」
「どうしてって……」
その時、村岡の目が泳いだ気がした。でもすぐに俺の方を見据えると、キッパリとした物言いで答えた。
「悪いことをしたからですよ、決まってるじゃないですか」
「三年前に捕まった時は、現行犯逮捕されてるよな。どうして今回は、自ら罪を認めたんだ?」
俺は、わざと語気を強めて言った。村岡の反応を観たかったからだ。でも村岡は表情を変えずに、ハッキリとした口調で答えた。
「魔が差しただけですよ」
「魔が差しただけだと? じゃあ、どうしてバッグを盗らなかったんだ?」
「失敗したんです。本当はバッグを盗るつもりでした。本当にどうかしてたんです。すみません」
村岡は首を垂れると、しばらくそのまま動かなくなった。村岡の主張は、筋が通っていた。バッグを盗るつもりだったのだが、誤ってパンの入った袋を盗ってしまったということらしい。
「これではっきりしましたよね。鳥居明美は引ったくりによる病死ってことが」
平野は俺を諭すように言った。俺は、それに同調するしかなかった。でも心の中ではスッキリとはしない感情が渦巻いていた。
「まあ……そういうことだな」
「じゃあ、それで処理します」
平野はせいせいした様な顔で、俺を見返した。その顔を思わず殴りたい衝動に駆られた。
「じゃあ、後はよろしくな」
その場を平野に任せると、俺は廊下に出た。時刻は午後五時になろうとしていた。窓から夕陽が差し込んでいて、その光が両目に突き刺さってきてまぶしかった。
「おい、須永」
後ろを振り向くと、柴田部長が俺に向かって声を掛けてきた。
「ちょっと、いいか」
部長は、俺を喫煙所へと誘った。ポケットからタバコの箱を取り出すと、俺の方へと勧めてきた。
「ありがとうございます」
俺は、一本受け取ると火をつけた。
「どうだ、例の引ったくり犯は、進展したのか?」
「はい」
俺は、村岡が素直に反省している旨を説明した。
「じゃあ、お前は最初から今回の件に疑問を感じていたんだな?」
部長は俺の話を聞き終わると、静かに話をそう切り出した。
「はい、そうです」
「だったら、最初からそう言えよ」
「すみません。でも証拠がないのに、現時点ですべきでないと思いまして……部長はどう思いますか? あんな人混みがある場所で、引ったくりなんかしますかね」
俺は何となく、部長は俺の考えに賛同してくれるのではないかと思った。部長も刑事としての感に優れているからだ。しかし俺の予想に反して、部長は全く別の話をし始めた。
「お前、布谷に会ったそうだな」
俺の胸はドキリと脈を打った。何で部長が布谷のことを知っているのだ? と思案したのもつかの間、すぐに平野がチクったのだと分かった。あの野郎、どこまで俺の足を引っ張れば気が済むのだろうか。
「会いましたけど、それは偶然ですよ。現場でバッタリ会ったんです」
「偶然? 本当に偶然なのかよ。さっきの話は全部、布谷の受け売りだろ?」
「いや、それは……」
俺の口調は、しどろもどろになっていた。俺の推理じゃないとバレていたことに、恥ずかしさを感じたからだ。
「まあ、布谷は優秀な刑事だったからな。お前が彼女の意見に感化されるのも無理はないさ」
部長も、布谷の刑事としての能力を高く買っていた。布谷が刑事を辞める時には、俺と一緒に彼女を引き留めた過去かある。
「確かに今日、布谷と事件現場で会いました。彼女の意見を参考にしたのも事実です」
「どうして、平野を連れて行かなかった?」
「それは、俺だけで十分だと思ったからです」
「お前がしたのは立派な捜査だろ。それだったら、一人での行動はダメなはずだ」
基本的に、刑事は単独行動が禁止されている。一般の主婦を連れて行ったと知られたら、恐らく始末書どころでは済まないだろう。だから是が非でも、布谷との出会いは偶然だったと貫き通すしかない。
「そんなことないですよ。ただ、確かめたいことがあったから、一人でいいと思ったんです」
「本当か? 正直に言えよ。お前は布谷と一緒に捜査をしたんだろ」
部長は、はなから俺の話を信じてはいないようだ。明らかに、俺に対して疑念を抱いている。ここで引き下がるわけにもいかない。嘘をつき続けるしかない。
「いえ、違います。一人で捜査してました。本当なんですよ、信じてください」
「……そうか」
これ以上俺が口を割らないと諦めたのか、部長は収まらない俺への怒りを他へと転嫁し始めた。
「お前は、単独行動をして、その間、後輩に自分の仕事をやらせていた。それは、事実だな」
「はい。その通りです」
上司が部下に書類を作らせるなどは、日常茶飯事のことだ。俺だけが咎められることじゃないことぐらい部長だって分かってはずだ。
部長はこれ見よがしに大きなため息をつくと、俺へと鋭く突き刺さるような視線を向けた。
「そんなんじゃ、俺のポストは任せられないな。期待を裏切らないでくれよ」
「……すみませんでした」
俺は深々と頭を下げた。本意ではなかったが、今はこうしなければ終わりが見えなかった。部長のポストの話をされるとこちらとしても我慢せざる負えない。誰だって最終ゴールは、部長の椅子に飛び乗りたいのだ。
部長は、俺の新人並みの謝り方に誠意を感じたのか、頬を少しだけ緩めてから、俺の肩をポンと軽く叩いた。
「布谷と何を話したか知らないが、彼女はもう警察の人間じゃないんだ。部外者の話を鵜呑みにして、捜査の邪魔をするのだけはやめてくれ」
「いや、それは……分かりました。気をつけます」
これ以上反論しても無駄だから、俺は反論するのを止めた。それよりも部外者という言葉が、俺の心に重くのしかかっていた。部長は、布谷のことを元部下だとは考えてはいないらしい。彼女の刑事能力を忘れ去ってしまっていることに、寂しさを感じずにはいられなかった。
俺たちは廊下に出た。俺が再び取調室に入ろうとすると、おもむろに部長が俺に向かってこう言い放った。
「じゃあ、今回は引ったくり犯として処理するから。後の処理を頼むぞ」
部長の言葉に驚きを隠せなかった。どうやら部長は、取り調べを全て見ていたらしい。
「えっ、いや、それはちょっと待ってください」
「何でだ? 村岡は、正直に自白したんだろ」
「そうなんですが。これは俺の直感なんですが、村岡は何かを隠しています」
「それは、お前の想像だろ、全部」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ、証拠を出してみろ。村岡が怪しいっていう証拠をよ」
「それは……」
証拠なんてないに決まっている。そんなもの、あるはずがない。もしかすると、そんなものは見つからないかもしれないとも思っている。でも、ないと決めつけてしまうのも違うと感じていた。
「もう少し、答えを出すのを待ってもらえませんか? 時間をください。お願いします」
俺は頭を下げて懇願した。まだ、時間が必要だった。俺の脳裏には、布谷のスーツ姿が思い浮かんでいた。布谷の協力があれば、証拠の一つぐらい見つかるかもしれない。
「ちょっと、先輩何言ってんですか。ただの引ったくり犯をそんなに拘束できませんよ」
取調室から出てきた平野が口を挟んできた。
「村岡は、まだ吐いてないことがあるはずだ。お前だって何か感じなかったか、さっきの取り調べの時にさ」
「いえ。何も感じませんでしたけど」
平野は、平然とそう言い放った。堂々とした態度を取れるのは、部長に追随しているからだ。
「先輩、いい加減にしてくださいよ。ちゃんと現実、見てくださいよ」
「現実? どういう意味だ」
俺は、平野の高飛車な態度に腹が立ち始めていた。だから、声も少しずつ荒げていく。
「目撃者は全員、同じ証言をしてるんです。鳥居明美は、引ったくり犯を追いかけている途中で、心臓発作を起こして突然倒れたと。そこから何の証拠を見つけるっていうんですか?」
「そんな決めつけんなよ」
「決めつけてるのは、先輩の方でしょ? 大体、あの人に感化されすぎですよ。いくら現役時代、凄腕の刑事だったとしても、今はただの主婦なんですよ」
「おい! 彼女のことを、悪く言うのはやめろよ」
俺の声は、廊下中に大きく響いた。
「今日だって、その元刑事と一緒だったんですよね? 何を話したか知りませんけど、あの人はもう捜査には口出しはできない立場なんですよ。部外者の話を真に受けないでください」
「だから! 彼女の悪口は言うなっていってるだろ!」
俺は、平野に詰め寄っていた。平野も負けることなく応戦してくる。彼の顔は真っ赤になっていた。
「だから、どうやって捜査するんですか! 彼女の死因は心臓病だって、結果が出てるんですよ」
「そんなのやってみないとわかんねーだろ」
「じゃあ、鑑識よりその元刑事の話を信じるってことですか。そんなの間違ってますよ!」
「うるせーな! 俺に指図するんじゃねーよ!」
「おい、やめろ! 喧嘩してる場合か!」
部長の稲妻のような大声は、俺の声よりも大きく響いた。
「とにかく、俺の言ったように引ったくり犯で処理しろ。いいな?」
「……はい」
俺は渋々、そう答えた。そう答えるしかなかった。もうこれ以上、この二人に何を話しても無駄だ。こうなったら、自分の力で証拠を探すしかない。
「部長、急で申し訳ないのですが、明日休みをもらいます」
そう言った途端、部長は顔をしかめた。普段、俺から休暇を進言されることがないから驚いたようだった。
「まあ、少しは休んで、頭を冷やしてこい。でもな、お前が何をしようと勝手だが、今回の件は覆らないからな」
部長は、俺が何をするか見透かしているようだった。
「わかってますよ」
俺はあえて、素っ気なく答えた。俺はこの休みを利用して、単独で捜査するつもりだった。窃盗罪の勾留期間は十日間だが、村岡の場合、引ったくりという軽度の犯罪に加え自首していることを考えると、拘束期間は短くなるだろう。一日で、証拠が見つかるとは思えなかった。それでも、やれるところまでやるしかない。
「それじゃあ、後は頼むな」
部長は俺の右肩をポンと右手で叩くと、その場を去っていった。部長がその場を離れるや否や、すぐに平岡は俺に向かって詰め寄ってきた。
「先輩。明日、この件を調べる気ですよね」
「別に俺の休みで何しようが、お前に関係ねーだろ」
俺は、冷たく言い放った。こいつには、心底頭にきていたからだ。
「お前、部長にチクったな」
「チクる? ちょっと、違いますよ。部長が俺に聞いてきたんですよ」
「ホントかよ、それ」
「ホントですって。先輩が何か言いたそうな顔してたから、何か知ってることはないかって」
まさか、部長にそんなところまで知られていたなんて意外だった。
「別に、先輩から口止めされてたわけじゃなかったし……名前を言ったら、部長は直ぐに反応してきたんで、知ってることを話しただけです。でもそれは、部長の指示に従っただけですから……それじゃあ、俺はまだやることがあるんで」
平野はそう言うと、そそくさと仕事へと戻っていった。
俺はズボンのポケットからおもむろに携帯を取り出すと、布谷の番号を表示した。実は明日、鳥居明美の夫である鳥居益男の自宅を訪れて話を聞くことにしている。そこへ布谷を呼び出そうと考えていた。数時間前までは……でも、今は正直迷っていた。
布谷と再会して改めて感じたことは、布谷の刑事の勘はまだ衰えていないということだった。しかも彼女のその鋭い観察眼は、俺を超えていた。それは平野にもないものだった。刑事という職業は、決して間違いがあってはならないからこそ壁にぶち当たる。決断しなければならない事柄が、全て正しくなければ刑事として失格の烙印を押されてしまう。そして大事なのは、それが一人の人生を左右してしまうということだ。あってはならない誤認逮捕というのは、決断力の欠如から生まれる。刑事である以上、これはやりたくないと俺自身は願っている。この勘というのは不思議なもので、真剣に事件を解決しようと思うと外れないのだ。一旗揚げたいとか、同僚を出し抜きたいという邪念があると必ずといって失敗をする。布谷には、この邪念がないのだ。だから俺は布谷のことを蔑ろにはできないのだ。
「そうはいっても、なぁ」
布谷の勘を頼りにしたいからと言って、彼女を連れまわすのは無理がある。彼女は結婚して、子育ての真っ最中だ。布谷にだって生活がある。万が一夫にこのことがバレてしまい、夫婦の仲に溝が出来てしまわないとも限らない。
「ハァ」
俺の口から、ため息が自然と漏れた。もしかすると、俺はとんでもない間違いを犯していたのだろうか。手に取った携帯をゆっくりとポケットに戻した。とりあえず、明日の聞き込みは一人で行くことにした。
「一服するか」
胸ポケットからタバコを人巻き取り出しながら、廊下を歩いた。廊下に出ると空気がひんやりとした。まるで、俺の火照った頭を冷やしてくれているように感じた。
母親には、午後四時まで桃花を預かってほしいと頼んでいた。それまでにまだ四時間ほどある。商店街を抜けてしばらく歩くと、吉川公園に行き着いた。この公園の中心には大きな池があり、春になると恋人たちを乗せた小舟が浮かぶ。デートスポットで有名な公園で、その池を囲むように楓の木がそびえ立っている。楓のほかにもイチョウや緑葉樹林などの木々が連なっている。その木々が木陰を作るおかげで、お昼時には人々がランチを持ってこの場所にやってくる。道に沿ってベンチが何台か置かれている。その一つに腰を下ろした。右隣には仲睦まじく話をしている老夫婦と、左隣はお弁当を食べている親子連れがいる。
「あー、お腹空いた」
高岡ベーカリーからここまでの間に、何度かお腹が鳴った。袋からのピーナッツの匂いが、何度も私のお腹を鳴らした。早速ピーナッツパンを袋から取り出すと、一口食べた。
「美味しい!」
思わず声がでてしまった。ピーナッツの甘い香りとバターの香りが程良くマッチした、美味しいパンだった。特に今は、空腹をずっと我慢していたから、このパンの美味しさが格別だと感じる。だから、食べる手が止まらないのだ。こんなに美味しいパンを食べたのは久しぶりだった。いつもは節約のために、値段の安いパンを購入しているから余計にその美味しさが際立っている。
現役時代は、その日食べる食事の値段など気にせず買い物をしていた。それが主婦になってから、節約生活が当たり前になっている。十円でも安い物を買うことが時々、そんな自分を想像していた自分がかつていただろうかと、感慨にふける時がある。
私は大学を卒業して刑事になったので、キャリア組に入る。このキャリア組は、ノンキャリアと比べると初任給から給料の差がある。ちなみに夫である進は、高卒で警察官になったのでノンキャリア組だ。私はキャリアを捨てて、ノンキャリアの夫と一緒になった。ハッキリ言って夫の給料は高くはない。キャリアとして働いていた頃の給料と比べたら雲泥の差はあると言っていい。
「はぁ、お腹いっぱい」
美味しいパンを食べて満足感に包まれて、ベンチのせもたれに背中をつけて大きく伸びをした。空を見上げると、飛行機雲がゆっくりと右から左へと動くのが見えた。こんなにのんびりとした時間を過ごしたのは何か月ぶりだろうか。子供の世話をしていると、子供に視線が向かうので視線が自然と下へと向かってしまう。だから、空を見つめるだけで心が安らぐなんて、ここ何年かは感じたことがなかったかもしれない。
「もう、一時か」
桃花を迎えにいくまで二時間あまりになっていた。予想より早く主任と別れることになったので、時間がだいぶ余っていた。この時間でやりたいことが一つだけあった。それは、髪を切ることだった。吉川商店街の近くに位置する『ミューシャ』という美容院に、半年前ぐらいから通い始めていた。電話をすると、すぐに来てくれても大丈夫だと言われたので直行することにした。
「何か、雰囲気が違うわね」
店に入るなり開口一番、店長の草間さんが私を見てそう言った。私より十歳年上の彼女は、とてもおしゃべりが上手で気さくな人だ。しゃべりが得意でない私にも、気軽になんでも話しかけてくれる。
「だって、そんなスーツ姿で来たことないじゃないの。それに、化粧もバッチリ決めちゃってさ、別人に見えるわよ。どこかのOLさんみたい、もちろん独身の」
「そう、ですか?」
そうか、いつもはスカートとシャツ姿だから、見慣れないのも無理はなかった。化粧をしたのもスーツを着たのも久しぶりだったが、刑事として頑張っていた頃の自分が懐かしく思えてきたのも事実だ。スーツを着た瞬間、キリリとした緊張感が全身を包み込むような感覚が蘇ってきて背筋が自然と伸びたのだ。
「どこかに行ってきたの? 結婚式とか? あっそうか、結婚式だったら、式の前にここに来るはずよね」
「ちょっと面接に行ってきたんです。パートで働こうかなって思って」
とっさに出てきた嘘に、自分でも驚いていた。
「えー、そうなの。どこで?」
「えっと……近くのスーパーのレジ係を」
「へー、スーパーの面接でも、スーツ着ていかなきゃいけないんだね」
「え、ええ……まぁ」
「まだお子さん小さかったわよね?」
「はい、まだ二歳です」
「でも、いいんじゃないかしら? 子供が小さくても働いてる女性はたくさんいるし、少しでも家計の足しにしたいものね」
「まあ、そうですね」
嘘とはいえ、日ごろお世話になってる人に嘘をつくのは心苦しかった。だから、無理やり話題を変えた。
「えっと、今日はショートボブにしてもらえますか」
「えっ、ショートって、かなり切るけど、大丈夫?」
草間さんは戸惑った様子で、鏡の中の私を見つめた。いつも毛先を整えることしか頼んだことがないので、まさかの答えに驚いているようだった。
「はい。肩に髪が掛かるくらいまでで、お願いします」
「分かったわ」
草間さんは髪の毛を濡らしてから、ゆっくりと私の髪を切り始めた。シャリシャリという音が耳元で響き始めた。床に髪の毛が落ちるたびに、鏡の中の自分が少しずつ変わっていくのを感じ続けた。長さ的には、二十センチ以上切っただろうか。スッキリとして、我ながら似合った髪型になった気がする。
「あれ? ここ、どうしたんですか?」
鏡の中の草間さんの胸元が、真っ赤にカブレているのに気が付いた。色が白いので、その胸元は余計に目立っていた。
「私、金属アレルギーなのよ。この間さ、デパートで安売りしてたペンダントを買ったら、真っ赤になっちゃってさぁ」
そのペンダントは見た目はプラスティックだったのだが、中にごく少量の金属が含まれていたという。
「安物買いの銭(ぜに)失い(うしない)って、このことよね」
草間さんは一旦手を止めると、鏡で胸元を確認しだした。結局、問題のペンダントは処分したという。
「痒いんですか?」
「多少はね。あなたはないの? アレルギーとかさ」
「私は大丈夫ですね、たぶん」
「そう。でも気を付けた方がいいわよ。急になったりするから。若い頃は、アレルギー持ちじゃなかったのにねぇ。きっと老化現象よ。抵抗力が弱くなってるせいよ。嫌よね、年取るってさ」
ため息をつきながら、手元のドライヤーを動かし始めた。免疫力が低くなると、思いがけない病を発症するのだろう。他人ごとではなく、私も数年後には、誰かとこんな会話をしているのだろう。
「どうかしら?」
私に手鏡を手渡し、頭の後ろを確認させた。肩の線で綺麗に整えられていて、左右に首を振ると髪の毛がサラサラと揺れた。それが、とても気持ちよかった。
「スーツによく似合ってるわ、その髪型。ショートも似合うわね。仕事ができるキャリアウーマンみたい」
「そうですか? ありがとうございます」
キャリアウーマンと言われて、まんざらでもなかった。まだまだ現役でもいけるんだという気持ちにさせてくれた。
支払いを済ませて店を出ると、午後三時を回っていた。
「あっという間だったなぁ」
自由な時間が名残惜しいといったら、桃花に怒られるだろうか。一度アパートに戻り、服を着替えてから、桃花を預けている実家に向かった。
実家は、商店街の喧騒とはかけ離れた閑静の中にある。高級住宅街が立ち並ぶ街並みを通り抜けると、白い壁に囲まれた屋敷が現れた。チャイムを押すと、母親の珠代がイヤフォン越しに甲高い声で「空いてるわ」と声が聞こえた。
「ただいま」
そう言って扉を開けると、母が奥のドアから顔を出した。母に抱かれている桃花は、気持ちよさそうにぐっすりと眠っている。
「おかえりなさい……あら、ずいぶんバッサリと切ったのね。何かあったの?」
「何にもないわよ。ただ、切りたくなっただけ」
私は壁に掛けてあったベビーカーを組み立てると、桃花を母親から受け取りそっと寝かせた。ぐっすり眠っている娘を見てホッとすると同時に、母には主任の話がバレないようにしなければと気を引き締めた。もし知られてしまえば、主任との出会いから遡って説明しなければならないだろう。母は物事に対して、絶対に納得しないと気が済まない性格だ。もしかすると、というか絶対に主任と会って話をしたいと言い出すに違いない。そんな面倒なことはしたくないので、ここは何とかして母には悟られないようにしないといけない。
「ふーん。そう……だって、あなたが刑事になってすぐにさ、同じように髪を切ったことあったじゃない? 確か、捜査をするのに気合いを入れたいからって言ってたわよね」
ドキッと、心臓が強い鼓動を打った。そして、身震いもしてしまった。どうしてこの人はこんなにも記憶力がいいのだろうか。どうでもいいようなことを覚えているなんて。まるでUSBメモリーのような記憶力を持っている人なのだ。
「そうだっけ? よく覚えてるね。それだけ覚えてるんだったら、ボケないわね」
私はワザと話題を変えた。でも残念ながら、母親は、私の話には乗ってこなかった。
「そうよ。私が『短く切りすぎたんじゃないの』って言ったけど、あなたは、全く気にしてなかったのよね」
母は、私の髪の毛を右手でさらりと触った。そう言われてみれば、同じようなことを主任に言われたことを思い出した。『ボーイッシュになったな』と言われ、ちょっと切りすぎたかなと何度も鏡を見て確認した。それに、同僚の刑事たちにも、話のタネにされたことも……。いけない。このままでは母に感づかれてしまう。
「子育てするには、短い髪の方がいいからよ。それ以上の意味はないわ」
「だったら、先にそう言えばいいじゃない。ハッキリと言わないから、疑ってみたくなるのよ」
母はそう言って、急に黙り込んでしまった。また始まったと思った。この沈黙が、私を苦しめる時間へと変わる。なぜなら、母親が今何を考えているか、容易に推察できるからだ。簡単に言うと、母は私の話を信じていないはずだ。私が何かを隠しているのではないかと、疑っているにちがいない。母の疑り深そうな目つきは、昔から変わらずに私を苦しめる。その証拠に胃がキリキリと痛くなってきた。もうこれ以上、ここにはいられない。
「じゃあ、どうもありがとう。お父さんによろしく言っておいて」
「分かったわ。あなたも、気を付けて」
私はドアを開けると、やや急ぎ足になりながら外に出た。案の定、母親も同じように外に出てきた。鉄門を開けて後ろを振り返った。案の定、母はドアから顔を出して無言で私を見つめていた。その姿は探偵をしていた頃の母親を彷彿とさせた。
探偵をしていた頃の母親も、塀の陰からターゲットの人物を観察し続けたのだろう。そんなことをふと考えてしまう。母に一度だけ探偵の極意がどのようなものか尋ねたことがある。
『相手を根気よく観察し続けること。それには、待つことが何よりも大事なの』
ハッキリと言い切った母のこの言葉が、今も忘れられない。
母も結婚を機に仕事を辞めた。でも、母は仕事を続けたかったはずだ。洞察力を父がエリート警察官だったから叶わなかった。周囲の目を気にしたからだ。母が探偵を辞めていなかったら、その観察眼は十分世間の役に立てたはずだ。そう断言する。
母は、私のちょっとした異変に気付いただろうか。母とは別々の生活をしているから、これからしばらくは顔を合わせることもない。でもどうしてだろう。今頃になって、両手の指先が小刻みに震えてきた。学生の頃から、母からのこの無言のプレッシャーを感じると起きる現象だった。正直、母が苦手だ。母といると息が詰まるような息苦しさを感じてしまう。全てが見透かされているような感覚になる。それがとっても苦痛で、そこから逃れたくてたまらなかった。
その重荷が取れたのは、社会人になってからだった。どうして心が軽くなったかというと、苦痛でしかなかったこの経験が、仕事に役立つことに気づいたからだ。刑事という職業は、その場の空気を読むことや洞察力が求められる。犯人に対して物怖じしない冷静さも必要で、それは母と対峙したことによって自然と鍛えられていたのだった。冷静でいられれば、直観力が高まり、推理する力も備わってくる。だから新人刑事という立場でも、冷静に推理ができた。そのことに関しては感謝しているが、どうしても慣れることができない。
自宅に戻り、夕食の準備に取りかかろうとした。でも、椅子に座ったっきり立ち上がれなくなった。今日は、主任と一緒に、久しぶりにスーツを着て緊張したからだろうか、体が重くてだるい。
「やっぱり作りたくないなぁ」
冷蔵庫の中を見たら、キュウリやトマトの野菜があったのでサラダを作って後はレトルトのカレーに決めた。
食事の用意が済むと、テーブルの上の携帯を手に取った。数日前から、幾度となく手を伸ばし続けている。主任からの連絡が、もしかしたらあるかもしれない。そんな期待を抑えることがどうしてもできず、携帯の着信履歴を確認している。主任が私を必要としてくれるのではないか。そんな幻想めいた私の勝手な思い込みを、どうしても押し殺せない自分がいる。主任から声を掛けてもらったことが、予想以上に嬉しかったからだ。それともう一つは、事件を捜査する懐かしさが沸々と蘇ってきているから。
商店街の事故現場に到着した時、私は思わず武者震いしてしまった。現役時代に現場に入るたび、いつも背筋にゾクゾクと虫唾が走る。その時の感覚が、走馬灯のように蘇ってきたのだ。事件を捜査するのは、骨の折れる仕事だ。犯人を捕まえるのには証拠を探し当てなければならない。当然のことだが、その答えが間違ってはいけない。かなりの神経を使う仕事だ。時には身の引き締まるような緊張感に苦しめられる時もあれば、事件を解決した時の爽快感に酔いしれる時もある。その何とも言えない高揚感が、徐々に私の中に芽生え始めていた。
「おい、何見てんだ?」
ギョッとして振り返ると、進が私の携帯の画面をのぞき込んでいた。
「やだ、いつの間に帰ってたの」
思わず、携帯の画面を下に向けた。進が帰っていたなんて。いつから、ここにいたんだろう。全く気付かなかった。
「ちゃんと、『ただいま』って言ったぞ」
「そう? 全然、気づかなかった」
「気づかないくらい、集中してたのかよ……で? 何、見てたんだよ」
「何って……ニュ、ニュースよ。例の引ったくり犯が捕まったって話。この間、話してたじゃない?」
「へー……あれ? それって、もう世に出てるんだ。俺もさっき知ったばっかりなんだけどな」
ヤバい、と心が波打った。そうだ、主任からの情報だから、まだ世の中には出ていないのか。私はその場をごまかすために、携帯をポケットに入れて台所へ向かい夕飯の支度をし始めた。だが、当の進は、それほど気にならなかったようだった。一旦奥に消えて紺色のスエットを着て再び姿を現すと、そのまま冷蔵庫へと向かった。中から缶ビールを取り出し、三口ほど一気に飲み始めた。
「あっそうだ、その件だけどさ、窃盗罪で処理されるみたいだな」
「へー……そう。そうなんだ」
まあ、そうだろうとは思っていた。部外者の私の意見など聞く耳を持つはずがないじゃないか。でもどうしてだろう、そう聞いた途端に気落ちしている自分がいる。
「でもさ、窃盗罪だけで収まるのかな?」
レトルトカレーの袋を切ろうとした瞬間、進が疑問を投げかけてきた。
「それって、どういう意味?」
「どういう意味もなにも、罪を犯したせいで、人が亡くなってるわけじゃん。すんなりと窃盗罪だけで収まるのかなってさ、思っただけだよ」
私はレトルトの中身を皿の上のごはんに掛けると、皿をレンジの中に入れるとボタンを押しながら進の問いに答えた。
「引ったくりだけじゃ、殺人として立件することは無理よ。故意だっていうよっぽどの証拠が出ない限り、事故として処理されてしまうはずよ。だから今回の件は、警察は引ったくりが故意ではなかったと判断したんじゃないかしら」
事件性が疑われる証拠が出ない限り、ひっくり返されることはほぼ皆無だ。
「ふーん、なるほどね」
そう言うと、進は私をジッと凝視し始めた。それに、彼の顔は気持ち悪いくらいにニヤついていた。
「な、何よ。顔に、何かついてる?」
「いや。何かさ、お前が刑事に戻った感覚になったからさ。昔も、俺が知らないことを、そうやって話してくれたじゃん」
「えっ、そ、そうだっけ」
「それにさ、何だか嬉しそうに見えるし。最近、いいことあった?」
その時、ピピピッというレンジの終了の音が鳴った。それは、私の心の動揺のようにも思えた。
「何で? 何で、そんなこと聞くの?」
「だって、最近のお前……まあ、いいや。腹減ったわ。飯くれる?」
進は途中で話を終わらせると、椅子に座ってテレビを見始めた。進は何を言いかけたのだろう。どうしてだろう、胸がドキドキする。彼に対して後ろめたいことをしているからだろうか。知らないうちに、心の変化が顔に現れていたらしい。
食事が終わると、進はいつものように浴室へと向かった。
一人になり、再び携帯を手に取った。いつもの癖で主任からの連絡を待っている自分がいる。
冷静になってみると、これでよかったんだと思えてきた。刑事でもない私が、横から口を挟むのは間違っていたのだ。実は、私は主任に嘘をついていた。私の名前を表に出さないでくれと頼んだことだ。私が現場の状況に異変を感じたのは私だと、本当は主任に言いたかった。現役の頃みたいに、胸を張って主張したかった。
「でも、まあ……これが現実かぁ」
ミステリー小説にありがちな、元刑事の主婦が謎解きをするなんて話、あるわけがない。現実を見よう。主任に遭遇したのは偶然で、少しだけ事件に首を突っ込んだだけなのだ。
「おーい、石鹸がないぞ」
浴室から進の声が聞こえた。
「今、行くわ」
そう言うと、重い腰を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます