第2話
肝心の夕飯の買い物をし忘れていたことに、帰りの道すがら気がついた。あんなに楽しみにしていたおやつのコロッケも、今は食べたいとは思わなくなっていた。家の中に何かないか必死に記憶を辿ると、棚の中にレトルトのカレーがあることを思い出した。家に帰ってもたぶん料理をする気になれそうにない。それぐらい、今の私の心は動揺していた。
アパートの前に着くと、桃花を抱いて鉄階段を上がる。築三十年以上が経とうとしているだけに、鉄パイプの手すりのあちこちに錆が目立つ。壁面も茶色いシミが点在し、手で触ったら塗装がボロボロと落ちそうだ。新人の警察官は、安いアパートを割り当てられる。本当ならもう少し割高のアパートに住めないことはないが、将来のことを考えて今は我慢しようということになった。
201号と書かれた扉を開けて中に入ると、すぐさま桃花をベットに寝かせた。
「やっと、着いたよ。お疲れさま」
桃花に言ったつもりだったが、自分へのねぎらいに聞こえてしまう。桃花は外出して疲れたのだろう、ぐっすりと眠ってくれている。私は立ち上がると、すぐそばにあるノートパソコンを立ち上げた。地元のローカルニュースが載っているサイトを開き、先ほどの死亡事故が載っているか調べてみた。
携帯でニュースを検索しないのは、最低限の料金設定にしているからだ。
「載ってるわけないかぁ」
事件が起きてから数時間しか経ってないから、そんなにすぐに記事が載るわけではない。今頃、被害者の家族が警察へと向かっている頃だろうか。今の時点で確かなことは、遺体が鑑識課にわたっているだろうということだけだ。
パソコンの画面をスリープ状態にして、夕食の準備をすることにした。冷蔵庫から大根を取り出すと、皮むき器で皮をはいでいく。目の前に溜まっていく大根の白い皮の帯を見つめながら、昼間の商店街の出来事を思い出していた。この街に越してきて三年ほど経つが、黄色いテープを見たのは初めてだった。そのテープを見て胸が高鳴った。その胸の高鳴りは、初めて刑事になって事件に参加したときと同じものだった。
私にとって刑事という仕事は、天職だった。刑事になって、世の中の全ての事件を解決したいと思っていた。それは、例えばアメリカやヨーロッパなどで起きる犯罪にもし加担できるとしたら、飛行機に飛び乗って現地に向かってもいい。それぐらい、私には刑事という仕事が性に合っていた。
「もう三年前かぁ。懐かしいなぁ」
脳裏に蘇ってきたのは、警察官時代の頃の出来事だった。私は、警察学校を卒業するとすぐに警視庁の刑事課に配属された。高校で飛び級をしているので、刑事になったのは二十歳の時だった。
刑事課に配属されてすぐに女子大生の事件を解決した。上司からはお褒めの言葉を頂いたが、自分としてはごく普通に事件を解決したという感覚だった。特別なことをしたとは思ってはいなかった。変化していったのは、私の周りの人たちだった。
それから数日後のことだった。私は警視庁の副総監から、事務室に来るように言われた。まず心に浮かんだのは、叱られるのではないかということだった。新人の私が出しゃばったことで、上層部が激怒したのではないか。入りたてのド新人が、上司の意見を無視して事件を解決したことへの報復をされるのだと覚悟した。
「失礼します」
ドアノブを握る手が小刻みに震えた。新人刑事が警察の中枢部に呼ばれることは、極めて稀なことだ。余計なことをした私は罰せられるのだ。出しゃばった私は、処罰の対象になるのだという思いが、何度も胸の中でリフレインしていた。しかし副総監の私への態度は、私が想像していたものとは全く違っていた。満面の笑みを浮かべ、私を目の前のソファに座るように促した。
「いやー、先日の女子大生殺害事件の件、見事でしたな。さすがお父さんの血を引いてるだけありますね」
「いえ、そんな……そんなことは、ないです」
私は引き攣った顔をごまかすために口角を思いっきり上げてみせた。首を横に小さく振った。和やかな笑みとは裏腹に、私の心の中は波打つように嫌な予感がしていた。副総監が私に向かって話す言葉の端々に使われる敬語が、嫌みにしか聞こえなくなっていた。
「このペースでいけば、お父上と同じ道をたどれるでしょう。そうなったら、警視庁初の女性警視総監の誕生ですね」
「えっ、そ、そんな……」
「こんなに早く事件を解決できた人は、今までいませんよ。あなたのような人がいれば、この先の警視庁も安泰です。まあ、次も期待してますよ」
私の戸惑いを無視するように、満面の笑みを浮かべた副総監。その笑顔に、悪意はないと思いたかった。でもこれが上司からの無言のプレッシャーだとしたら、この先も続く刑事という職業をこなしていけるだろうか。完全に被害妄想な思考に陥っていた。
そしてこの後、私は警視庁から表彰を受けることが決まった。異例のことだった。理由は新人として私の推理が事件解決に影響を与えたからだった。翌月に発行された警察新聞の一面には、警視総監である父から表彰状を手渡されている私の写真が載った。それはつまり、日本中の警察関係者に私の素性が知れ渡ることになったきっかけになった。
警視庁内で私の話題でもちきりだった時、廊下で女性の先輩とすれ違ったことがあった。先輩は私より二つ年上で、警察署で唯一心を開けて話せる人物だった。私のことを色眼鏡なく接してくれた人で、きっと先輩だったら私の気持ちを理解してくれるかもしれないはずだ。先輩が角を曲がろうとしたところで、後ろから声をかけた。
「あの、先輩……」
先輩は私の問いかけに振り向いた。だが、それからが素早かった。
「ご苦労様です!」
先輩は私の顔を見た瞬間、深々と頭を下げたのだ。そのお辞儀の仕方も会釈とかのレベルではなく、体を九十度に近く前に倒した最敬礼だった。まるで教科書に載るような理想的なお辞儀に、私は体が固まってしまった。
「えっ、いや、あの……」
私が驚きを隠せないでいると先輩は、「失礼します」と言って再び深々と頭を下げた。そして一目散に、私の目の前から去っていった。
「どうして……」
先輩だけは違うと思っていたのに。だからより一層裏切られた気持ちがした。信頼していた人間からこういった行動をとられると、ショックを通り越して怒りをも感じ始めていた。どうしてみんな私のことを理解してくれないのだろう。私のことを崇めるような態度を取ることで孤立させようとするいじめだと思うと、やるせない気持ちになった。
女性先輩だけではなく同僚の刑事たちや上司たちも、似たような態度を取り始めていた。仕事の相談を持ちかけても「分からない」と言って、無視されることが常態化していった。そのうち飲み会にも誘ってくれなくなった。それでも私は、めげずに仕事を続けた。
そんな辛い状況でも踏ん張ろうと思ったのは、似たような境遇を乗り越えてきた経験があったからだ。小学校の頃からなぜか目立ってしまうタイプだった私は、クラス全員から無視されたりいじめに遭ったりしてきた。警察学校在籍中も、私が警視総監の娘だという話は知れ渡っていたようで、常に私は一人きりだった。
そんな孤独な環境の中でも、自分は大丈夫だと常に自分自身を鼓舞し続けた。過去に受けてきた理不尽な行為を乗り越えてきた私だからこそ、目の前の困難も乗り越えられるだろうと考えていた。でもその考え方は甘かった。そして、このことがのちの私の人生を左右するきっかけになったのだ。
そんな悶々とした日々を過ごしていた頃、殺人事件が発生した。亡くなったのは男性で、二十代のサラリーマン。年齢は二十代後半だという。検視の結果、頭部や腹部などを数発殴られたことによる撲殺だった。遺体の状況からみて深夜に起きた事件として捜査を開始したのだが、捜査は困難を極めた。遺体が発見された公園は高速道路の真下にあり、深夜になると歩行者はほとんど通らない。周囲に住宅はなく、一番近くても数百メートル以上離れているため、目撃情報はゼロだった。事態が進展しないまま、一か月以上が経過したある日のことだ。
「布谷さんはどう思う?」
事務所で書類を作成している時、背後から唐突に声をかけられた。声の主は四十代の中堅刑事だった。不意の質問に戸惑いながらも、思っていることを述べてみた。
「今回は物的証拠も目撃者も少ないんで、長引きそうですね」
私は言葉少なにそう語った。物的証拠がない中で、目撃者が現れないことには捜査はまったく進まない。じれったいですよね、と中堅刑事に問いかけようとした瞬間、私は言葉を失った。なぜなら中堅刑事の表情はニヤついていて、ガムをクチャクチャと噛みながら私を見つめていたからだ。運悪く、事務所にはこの刑事と二人きりの状態で、誰も事務所に入ってくる気配は感じられなかった。
「あ、あの……何か」
喉から絞り出した私の声は、随分とうわずっていた。中堅刑事は私のこの様子を見て、この時がチャンスとばかりに、馴れ馴れしい態度で話しかけてきた。
「あなた、前の事件もあんなに簡単に解決したでしょ。今回も何か手がかりをつかんでるんじゃないんですか。隠さないで教えてくださいよ」
私をおちょくるような態度に、愕然とした。こんな刑事が存在していいのかと、心の底から怒りが湧いてきた。中堅刑事は私の戸惑った様子を無視するように、横柄な態度をエスカレートさせた。いやらしそうな目つきで私のそばに近づいてくると、耳元でささやくようにこう言った。
「ねえ、ちょっとだけでも教えてくださいよ。未来の警視総監殿」
そう言うと、ニタニタと薄気味悪いほどの笑みを浮かべた。おちょくられたと感じた私の怒りは、頂点に達した。次の瞬間、自分でも驚くほどの大声を上げていた。
「ちょっと! ふざけるのもいい加減にしてください」
私の反応を予想していたかのように、相手は落ち着いた態度で詰め寄ってくる。
「ふざけてませんよ。僕は至って冷静です。だって、あなたはとても優秀な人物だ。父親だってここのトップだし、将来は約束されたも同然でしょ。だったら少しぐらいこっちの面倒を見てくれたっていいでしょ」
人をおちょくるのもいい加減にしろ、と言いたかった。でもどうしても言えなかった。そんな目で私を見ていたのかと失望し、答えるべき言葉が浮かばなかった。悔しさと虚しさが渦を巻いて、私の周りを回り続けた。
「おう、お疲れ」
扉が開き、須永主任が団扇を扇ぎながら入ってきた。この日は真夏日で、外の気温は三十五度を超えていた。
「暑いのに、お疲れ様です!」
中堅刑事は主任に向かって恭しくそう言った。それとは裏腹に、座る瞬間ため息をつきながら、小声でこう言った。
「ケッ、邪魔しやがって」
その瞬間、私の体は主任が入ってきたばかりのドアへと突進していた。気がつくと、女子トイレの中で泣いていた。声を押し殺しながらも、涙が止めどなく流れた。
この日以降、中堅刑事とは二人きりになることを避け続けた。同僚の刑事たちに対しても、同様な行動をとっていた。事務所で仕事をすることが出来なくなっていき、トイレにノートパソコンを持ち込んで仕事したり、会議室を借りて書類を作成するようになっていた。とにかく、一人になれる空間を求め続けた。
だが皮肉にもその行為が、新たな火種を生むことになってしまった。私が残業をしていない状況が父親のおかげであり、書類作成は別の人にお金を出してやらせているという噂が広まったのだ。好き勝手に言われたが、私は目の前の仕事に集中することで何とか乗り越えることができた。不謹慎な話だが、難事件が発生したことに感謝さえしていた。
そんな状況下の中、私は淡々と仕事をこなし続けた。そして今日も、私は仕事場にいた。この場所は、周囲を住宅に囲まれたアカツキという名の公園。入り口近くには、見上げるほどの高さの桜の木が一本植わっている。春の季節にこの場所に来たことはないが、この桜の木が、近所の人たちの心を和ませるシンボルになっているだろうことは想像に難くなかった。
時刻は午後十一時半に差し掛かろうとしている。当たり前だが、深夜なので人通りはほとんどない。その桜の木の陰にしゃがみ込みながら、周囲に注意をいきわたらせる。街灯が照らすのは、桜の枝の先に生えた葉っぱだけだ。その街灯も電球が切れ気味のようで、ついたり消えたりを繰り返している。いつの間にか蚊に刺されたようで、首筋をポリポリと左手で搔いていると、足音が聞こえてきた。
「おい、布谷」
「えっ、主任、どうしたんですか?」
目の前に現れたのは、須永主任だった。私は驚きを隠せなかった。まさか、主任自らがこの場所にやってくるとは思ってもいなかったからだ。
「そんなに驚くことじゃないだろ。お前が一人で動いてるっていうからさ、来てみただけだよ。どうだ、何か見つかりそうか」
野太い声の主任の問いかけに、私は弱々しく頭を振った。
「いえ、何も……」
正直、私の心は折れかけていた。もう二週間以上、この場所にいて何の進展がないのだ。刑事課の人間は皆、積極的に解決しようとはしなかった。その一番の要因が、目撃証言が全くないことだった。警察官としてはあり得ない話だが、はなから解決する気もないように思えて仕方がなかった。正直な話、こうやって現場に足を運ぶのは、私くらいしかいなかった。
主任は私の右肩をポンと軽く叩くと、わざとらしく声を弾ませながら続けて言った。
「そんな弱気でどうすんだよ。俺はな、お前が諦めずにいてくれることが嬉しいんだよ。ありがとな」
「いえ、そんなこと……」
涙があふれそうになるのを必死で堪えた。私が孤立していることを、主任は十分に理解してくれていた。私が仕事をしやすくなるように、同僚の刑事たちを説得しているのも知っていた。だから、余計に主任の優しさが身に染みてくる。
「でも、一つ教えてくれ。この場所は、遺体発見現場じゃないよな。どうしてお前は、この場所を、ずっと張ってんだ?」
そう言うと、主任は周囲を見回した。そうなのだ。男性の遺体は、このアカツキ公園で発見されたのではなく、ここから百メートル離れた別の公園で見つかった。本来であれば、そっちの公園の方をマークするはずなのだが、私はアカツキ公園にこそ、犯人逮捕につながるものがあると確信していた。
「実は、あの住宅に住んでる高校生が、証言してくれたんです」
私は道路を隔てた向かいにある赤いレンガの一軒家を指さした。二階には男子高校生の部屋がある。事件当日の深夜三時頃、男性たちの怒鳴り合う声を聞いたことを証言してくれたのだ。
「お前、よくそこまで調べられたなぁ。感心するよ」
主任は、感嘆の声を上げた。
「じゃあ、その男子高校生は犯人を見たのか」
私は主任の問いに、首を横に振って否定した。
「この周辺は、酔っ払いのたまり場になっていて、喧嘩は頻繁にあるみたいなんです。だから、外が騒がしくても外を絶対に見ないようにと、母親から言われてたようなんです」
「そうか。じゃあ、意図的に見なかったってことか。残念だな」
主任は、悔しそうにつぶやいた。
「でも、騒ぎが収まってから外を見たらしいんですけど、誰もいなかったらしいです」
「まあ、深夜だしな。たとえその高校生が犯人の顔を目撃したとしても、はっきりとは分からなかっただろうな」
私はレンガの家を見つめながらうなずいた。昼間だったら人の姿は確認できただろうが、それでも遠すぎてハッキリとは分からないだろう。深夜だったら尚更のことだ。それに高校生の主張する、騒ぎ声が聞こえたという事実だけでは状況証拠にならない。
「今のところ、それだけか」
主任は、私に質問をしてきた。
「それと、遺体の頭部には陥没がありました」
「陥没、だと?」
「はい。被害者は顔と腹を何発も殴られています。どちらの箇所も内出血していることから、殴られたことが致命傷になったと考えられます。ですが、詳しく調べてもらった結果、左側頭部にも小さいですが内出血の痕が見られたんです」
「詳しくって……また鑑識に頼み込んだのか」
主任はため息をつきながら、呆れた様子で言った。
「はい、無理やり調べてもらいました」
「桜井のやつ、迷惑そうじゃなかったか?」
「まあ……どうですかね」
私は肩をすくめながら言った。確かに鑑識課に行くと、桜井さんはため息をついて私を出迎える。私も無碍な態度を取られることに、もう慣れていた。
「その陥没ってのは、倒れた時に地面にぶつけて出来たのか」
「いえ、違います」
「違う? じゃあ何なんだよ」
「それは、あれです」
私は、公園の片隅にあるブランコを指さした。
「あそこの鉄柵に頭をぶつけたんだと思います」
ブランコの周りには、鉄パイプの柵が巡らされている。ブランコは、遺体発見現場にはないものだ。鑑識の結果を見てみたところ、頭部の陥没の形は鉄柵の形状とほぼ一致した 。
「犯人と争った被害者は、何かの拍子に転倒してしまい、後頭部をぶつけたんだと思います」
主任は、軽くため息をつきながら言った。
「だとするとだな、被害者はこの公園で殺害されてから、犯人によって遺体発見現場に移されたと考えてるのか、お前は」
私は静かにうなずいた。遺体発見現場である公園まで、ここからだと車で五分ほどの距離にある。
「えっ、ちょっと待ってくれ。じゃあ、お前の考えが正しいとしよう。じゃあ、なぜ、犯人は遺体を移動させたんだ? だっていくら何でも、リスクがありすぎるだろ」
「犯人は、この周辺を熟知していた人間であり、深夜に外出できる人間です。しかも年齢層が低くて、十代か二十代の若者だと思われます」
「ハッキリと言い切るなぁ、お前は……まあ、夜中に公園をたむろ出来る人間は、不良グループか半グレ集団ぐらいだろうなぁ」
私は力強くうなずいた。犯人は、この公園に頻繁に訪れていた。だから、自分たちの存在がすぐにバレてしまうと考えたはずだ。だから遺体を移動させる必要があったのだ。
「なるほど。犯人は疑心暗鬼になったということか」
「自らの犯行がニュースになって、ここに来るのをやめてるんでしょう。でもほとぼりが冷めたらまたきっと来ると思います」
「なぜそう思う?」
「油断ですよ」
人間は警戒心が少しでもなくなったら、行動を起こす。犯人が若者だとしたら、それは尚更だと感じていた。
「犯人は現場に戻るっていうしな……あっ、これ渡し忘れてたわ」
主任はポケットから缶コーヒーを取り出すと、私の方へと差し出した。
「ありがとうございます」
一口飲むとホッと一息ついた。時刻は夜中の0時を回っていた。ゴクリとコーヒーを飲む音さえも響きわたりそうなくらい、辺りは静まり返っている。
「お前も大変だな。何かと注目の的になってさ」
「えっ、まあ……でも、もう慣れましたから」
「お前は強いな。それは父親譲りか? それとも母親か?」
「まあ、両方ともですかね。どちらとも精神的に強くないとできない職業ですから」
両親に共通するのは、粘り強くて決して諦めない精神が強いということ。父親は警視総監になるのに、約五年もの歳月をかけてた。途中、もう無理だという状況にまで追い詰められたが、執念で警視総監にまで上り詰めた。母親も探偵事務所の所長に就任し、数々の案件を解決し続けた。二人ともその道のりは険しかっただろうが、執念で成し遂げてしまった。
主任はコーヒーを啜ると、ため息にも似たトーンで話を続けた。
「まあ警察ってのは因果な商売だよ。こんな夜中に張り込みしたって、結果が出なきゃこっぴどく叱られる。経費削減しなきゃならないし、時にはタクシー代さえも節約しなきゃならない」
「あっ、これ」
缶コーヒーを右手の爪で叩くと、すみませんと言った。
「いいんだよ。部下が頑張ってんだから、このぐらいはな」
主任はズズズゥとコーヒーを飲みほした。と同時に、バイクのはじけるような音が遠くから聞こえてきた。
「主任、隠れて」
咄嗟に主任の腕を下へと引っ張ると、私たちはその場にしゃがみ込んだ。バイクの音が近づいてきたかと思ったらすぐに止んだ。しばらくすると、男性たちの声が聞こえてきた。
「本当に大丈夫なのかよ」
「平気だよ。ほら、誰もいないじゃん」
「もうテレビでやってねーし」
「まあ、それもそうだな」
話声はいつの間にか笑い声に変わっていた。
「犯人か?」
主任の問いに、私はゆっくりと首を縦に動かした。柱から少しだけ顔をズラして見ると、声の主たちは公園の中にある街灯の近くに立ち止まって話を続けていた。残念ながら街灯の光が弱いので、顔の表情などははっきりとは分からなかった。
「私、近づいてみます」
私が小声で問いかけると、主任は人差し指で公園の外にあるバイクの方を指差した。それは主任自らがバイクがある方へと向かい、挟み撃ちをする作戦という意味だとすぐに分かった。幸運なことに、私たちがいる場所には街灯がない。しかも公園の周りにはツツジの木が植えられているので、慎重に動けば相手に気づかれずに移動ができる。
私は暗がりの中、姿勢を低くしながら彼らの方へと近づいた。彼らはというと、自らの武勇伝を語り合うのに夢中で、周りに意識が向いていないようだった。
「……まさかさ、死ぬなんて思ってなかったよな。ホントにビビったよ。大体さ、お前が、あいつのこと突き飛ばすからだろ」
「だって、あいつが生意気な口きくからじゃねーか。俺だって、あのまま動かなくなるなんて思ってなかったしさ」
「スゲー、ビビったけどさ、あいつ、意外と弱っちい奴だったな」
「俺たちにイチャモンつけなきゃ、死ななくてもよかったのにな」
男たちは、そうだよなと言いながら笑い声をあげた。私は腰が痛くなるくらいの中腰のまま、男たちへと近づいていた。人数は三人で、若い男性というのは分かった。彼らの言うあいつとは、亡くなったサラリーマンの男性のことだ。死体を解剖の結果、多量の飲酒をしたことが分かっている。被害者の妻に話を聞いたのだが、サラリーマンの男性は相当な酒乱だったらしく警察沙汰にもなったこともあったという。
「でもよ、財布でも盗みゃよかったなって思わなかった?」
「だよな。それは、失敗したなよな、ホント」
彼らは再び笑い声をあげた。私の脳裏には、サラリーマンの妻が涙ながらに話していた様子が浮かんでいた。妻は明らかに自らを責めていた。もっと夫の行動に気を配っていたら、夫は死ななくても済んだのではないかと。人の死を笑いのネタにしている彼らに、次第と怒りがこみ上げてきた。
「でもよ、ここに来るの、もうやめようぜ」
「何でだよ」
「もしかしたら誰かに見られてたかもしんねーじゃんか」
「何ビビってんだよ。誰にも見られてねーから捕まってねーんだろ」
「まあ、そうだけどよ……イテェ!」
誰かが相手の体を叩いたようで、バチンという大きな音がした。
「イッテぇな。なんだよ、止めろよ」
「お前は小心者だなぁ、もしかして小便チビッてんじゃねのか」
やめろよ、という大きな声が公園中に響いた。そして一瞬の静寂が空間を包み込んだその瞬間、暗闇から人影が現れた。主任だった。
「おい、お前ら、そこまでだ!」
主任は大声を張り上げた。
「おい、ヤベェ、逃げるぞ!」
連中は、慌てた様子で私の方へと向かってきた。
「止まりなさい! もう逃げられないわよ」
挟み撃ちされたことで観念したのか、両手を挙げて観念をした。その後、男たちは容疑を認めたため、事件は解決した。
この事件を解決した後も、私は再び上司からお褒めの言葉をいただいた。当然のことながら、それに呼応するように周囲の私への態度は相変わらず冷たかった。私に話しかける人などなくなり、勤務中に誰とも話すことがないなんてことはザラにあった。
今思い返してみると、この頃の自分はずいぶんと無理をしていた。寝られなくなったり偏頭痛に悩まされたりしたことを、事件をスムーズに解決できないことへのストレスだと思い込んでいた。なぜなら事件を解決するたびに、満足感に酔いしれる自分がいたからだ。それはまるで観客のいないコンサート会場で、自分の演技に満足している感覚に似ていた。
でもそれは幻覚でしかなかった。今なら、昔の自分のことを「無理をしていた」とハッキリと言える。でも当時の私は苦しい気持ちを共有する人もおらず、一人で全てを抱え込みながら我慢を重ねていた。その結果、自らの体を壊していくことになってしまった。
ある日のことだった。席を立とうとした瞬間、頭がグルグルと回り始めたのだ。立つことも困難なほど上下左右に頭が揺れた。激しい吐き気にも襲われ、その場に倒れこんだ。病院に担ぎ込まれ診察してもらうと、メニエール病と告げられた。約二週間、自宅で療養することになった。
私は毎日のように、ベッドに横になりながら泣き続けた。自分でも想像していなかったのだが、大量の涙がとめどなく流れた。早く仕事がしたいという焦りと、今の環境で仕事を続けることの絶望感との狭間で気持ちは揺れ続けた。
休んでいる最中にも、世間では事件が発生し続けている。私以外の現場に向かう刑事たちは、懸命に作業をしている。けど、一方の私はベッドに横にならなければならない。参加することのできない不甲斐なさと、自分はなんてダメな人間だという自己嫌悪に陥る。その悪循環を繰り返していた。
そもそも私が患ったメニエール病とは、過度のストレスによって引き起こされる。そして再発率が高いという。もし、犯人を逮捕するような時に発作が起きたとしたら、もしかしたら犯人は私の腕からスルリと逃げ出してしまうかもしれない。そんなポンコツ刑事が仕事を続けていけるのかという漠然とした不安に苛まれた。病気になって感じたのは、自分はメンタルが強くなく、むしろ弱い人間なのだということだった。いくら優秀な刑事だとしても、周囲の人間と上手くコミュニケーションが取れなければ刑事としては失格なのだ。かといって、仕事を辞めることはしたくなかった。それは、自分の築いてきたキャリアを捨ててしまうことになるから、それだけは避けたかった。
「ハァ……」
こんなことを毎日考え続けていたら、あっという間に仕事復帰する日になった。めまいは全くなくなったわけではないが、仕事をするには支障がないほどには回復していた。
いよいよ明日は仕事復帰の日だという夜のことだった。携帯の着信音が鳴った。同期の田辺進からのメールだった。田辺進は同じ時期に警察学校を卒業した。表向きは同期なのだが、私は飛び級しているので彼の方が二つ年上の先輩だった。
『明日復帰だってね! おめでとう! もう、完全に治ったのかな?』
彼は、私が倒れてから何度かメールをしてくれていた。このメールが三回目になる。
『ご心配かけてすみません。完全には治ってないんですが、軽い仕事をするぐらいには回復しました』
そう返信すると、田辺進はものの一分もしないうちに返信してきた。
『そう、それは良かった! じゃあ復帰祝いに、今度 一緒に食事しませんか』
普通なら、えっ? と戸惑うところだが、この時の私は何故かそれを快く受け入れてしまった。
『いいですね。楽しみにしてます』
それ以降、返信はピタリと止まった。何故だろう、心寂しい気持ちになった。たわいもないメールなのに少しだけ心がホッコリとした。仕事復帰すれば、周囲の人間に気を使い続ける毎日が待っている。緊張し続けなければいけないのは、自分の思い込みだったりする。そんなことを考える自らを、少しだけバカバカしくも思えた。もしかすると、幸福というのはこんな気持ちにさせてくれることをいうのだろうか。
でも、そんなプチ幸福感は仕事復帰してからは、微塵も感じることはなかった。仕事から復帰しても、私に対する周囲の反応は冷たいままだった。相変わらず話しかけられることはなかったし、私からも話そうとは一切なかった。以前のように病院に運び込まれるようなことはなかったが、めまいには何度も襲われた。病院に行っても主治医の先生からは、あまり考え込まずに環境に適応することを考えなさいと繰り返し言われるだけだった。私に出来ることは仕事に没頭することしかなかった。
誰も私のことを必要としていないと考えるようになっていた頃、現実が動き始めたのだ。それは進からの突然のプロポーズだった。
「もう、君の苦しむ姿は見たくないんだ」
進は復帰してからも周囲の軋轢に苦しむ私の姿を、陰ながら見守り続けていたという。
断ろう。この時の私の気持ちはそうだった。彼とは付き合っているという感覚はなく、恋人というより気の許せる友達という感覚だった。だから、進と結婚をするということは考えてもいなかった。この当時の私は、結婚よりもキャリアを積んでいきたいという気持ちの方が強かった。状況的には、断る理由は出来上がっていた。でも、自分では思ってもいない言葉が、口から飛び出していたのだ。
「はい、お願いします」
私がそう返答すると、目の前の進の顔がみるみるうちにほころんでいった。いや、違うの。そうじゃないの。すぐに本心を言わなきゃ、誤解されてしまう。口を開こうとしたが、言葉が出てこなかった。後から思い返すと、進の存在が自分の中で大きくなりつつあることを認識してたからかもしれない。
仕事をしたくないという理由で結婚する女は必ず不幸になる、と何かの雑誌で読んだことがあった。私はそれには当てはまらない人間だと思い込んでいた。だけど、人生は分からないものだ。自分でも思わぬ形で仕事から逃げることになるなんて思ってもいなかった。
彼との結婚が決まってから、めまいに襲われることもなくなったし、不眠に悩まされることもなくなった。数年ぶりに解放感という毛布に包まれた私は、ゆっくりと眠ることができた。その日のことは今でも忘れられない。だから、結婚と同時に辞職をする決心をした。これでもう、自分を警視総監の娘だと揶揄する人もいないし、妬む人もいない。これからの人生は、進の仕事が上手くいくようにサポートすることを一番に考えることにした。彼が昇進できるようにしよう。それは私自身のキャリアを積んだことになるのだと、自分で自分を納得させた。
結婚してすぐに桃花が生まれた。子育てに追われる毎日で、キャリアという言葉さえ毎日の生活の中から完全に消えてしまっていた。
でも主任と再会して、事件を解決する気持ちよさが少しだけ蘇ってきた。そんな気がした。それは、自分の中で封印したパンドラの箱を、少しだけ覗き込んだような感覚に似ていた。
「鍋、焦げてるよ」
「へ?」
不意に後ろで声がした。振り向くと、進が立っていた。
「ほら、鍋、焦げてるって」
視線を鍋に移すと、肉じゃがが焦げていて、そこから煙がモクモクと出ていた。
「うわぁ! どうしよう!」
慌てて火を止めると、鍋の柄をつかんで流しに置き、蛇口を開けて水を出した。焦げ臭いにおいが台所に充満し、すぐに換気扇を回した。
「あーあ、やっちゃったね」
進が残念そうな顔で、鍋の様子を見つめている。いつから彼はここにいたのだろう。彼の気配に全く気付かなかった。
「ごめん、夕食が駄目になっちゃった。どうしよう」
冷蔵庫の中を物色したが、明日の朝食の食パンとヨーグルトしかなかった。買い物しそこなったから、最低限の食材しかなかった。
「まあ、いいさ。確かカップ麺があったはずだけどな」
進は、食器棚の下の扉を開けて中を物色し始めた。
「あった。最近さ、ちょっと出てきたと思わないか?」
そう言うと、進は自分のお腹をさすった。
「そうかな?」
「最近食い過ぎなんだよ。昼飯にさ、カレーの大盛り食ったから、ちょうどいいさ」
手慣れたしぐさで蓋を開けると、ポットのお湯を注ぎ始めた。彼の優しさは、まるで傷薬のようにどんな痛みもオブラートに包んでくれる。そんな彼が大好きだと改めて感じる。
「でもさ、珍しいな。美月がこんな失敗するなんてさ」
進は苦笑いを浮かべながらそう言った。
「えっ、そうかな。私だって人間だし、失敗くらいするわよ」
進の指摘に動揺しながらも、鍋を洗っていて良かったと思った。動揺した顔を見られなくて済んだからだ。私は鍋をこするたわしを持つ手を、更に大きく動かし始めた。
「あっ、そういえば、商店街で事件があったのよ。知ってる?」
話をそらそうと、昼間の出来事の話をした。今は私に注視してほしくはなかった。進は箸でカップ麺の中をかき混ぜながら、顔を上に向けて考えを巡らせていた。すぐには思い出せないのは、大きな事件ではないからだろう。
「ほら、院長夫人が倒れたって事件よ。あなたのところにも話が来てるはずよね」
「……あぁ。そう言えば、そんな話が入ってきてたなぁ。でも、あれ事件じゃなくて、病死じゃなかったか」
「病死か……やっぱりそうか」
思わず独り言が口を突いて出た。警察は、今回の件を病死として処理するつもりだ。病死で処理されたってことは、事件としては扱わないということになる。それはつまり、私が主任に主張した話は完全に無視されたということになる。
「何だよ。何、落ち込んでんだよ」
いつの間にか進が私の隣に来て、カップ麺を流しに置いていた。そして、まさかの質問を私に向かって投げかけてきた。
「えっ、もしかしてだけどさ。お前、院長夫人と知り合いなのか?」
「は? 何言ってんの? 知り合いなわけないでしょ。そんな接点ないわよ」
進の見当違いの問いかけに、私は面食らいながらも笑顔で受け流した。
「そうか。お前の義父さんが知り合いだと思ったけどな」
「病院に知り合いがいるなんて聞いたことがないから、多分違うわ」
納得した様子でそうかとつぶやくように言うと、進は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。そして再び椅子に座った。
「でも、鳥居病院って、大きな病院だよな。院長夫人が死んだとなると、大きなニュースになると思ってたけど、案外そうでもなかったな」
テレビのニュースになっていないのは、私も意外ではあった。でも、その理由は何となく察しはついていた。
「もしかしたら、病院側が圧力をかけたのかもしれないわね」
「何のためにだよ」
「患者に心配かけたくないからでしょ?」
都内でも有名な病院だからゆえ、大事にしたくはなかったのだろうか。その理由は分からないが、マスコミに公表しないことなど簡単にできるはずだ。進はほろ酔いなのか、頬を赤らめながら話を続けた。
「ふーん、なるほどね。さすが名探偵だな」
「えっ、な、何よ、名探偵って」
「だって、元は優秀な刑事だっただろ。それにお義母は、元探偵だし。血筋は争えないってことだよ」
「ちょっと、止めてよ! からかわないでよ!」
私は思わず大きな声を上げてしまった。「元刑事」というフレーズが、私の怒りへと駆り立てたようだ。「元」という言葉に、自分でも思っている以上に「元」という言葉に敏感になっていた。
「いや、ちょっと待てよ。なに、マジになってんの。俺はお前のこと褒めてんだぜ」
進はまさか私が怒り出すとは思ってもいなかったようで、なだめるように話を続けた。
「お義父さんだって警察庁のトップだしさ。一家で日本の治安に貢献してるって、すげーことじゃんか……まあ、そんなの今さら言われてもって困るよな……じゃあ、風呂でも入るかな」
進はおもむろに立ち上がると、浴室の方へと向かった。
「はぁ……何かムカつくなぁ」
どうしてだろう、腹が立つなんて筋違いだって分かっているのにイライラが募ってしまう。「元刑事」という言葉が、どうしても胸に突き刺さる。
進が浴槽の扉を閉じた音がした。彼は長風呂なので、しばらく私一人だけの時間ができる。ノートパソコンを開き、インターネットのニュースサイトを開いた。
「……あっ、あった」
お目当ての記事は、ローカル版のサイトに載せられていた。
『鳥居病院の院長夫人である、鳥居明美さん(三十歳)が吉川商店街で突然倒れ、病院に運ばれたが死亡が確認された。鳥居さんは亡くなる前、商店街で引ったくりに遭い、その犯人を追いかけている途中で心臓の発作で亡くなったと見られている。鳥居さんは心臓に持病を抱えていた。この引ったくり犯は依然逃走中で、警察は行方を追っている』
この記事を普通に読めば、ある女性が引ったくりに遭い、運悪く心臓発作を起こして亡くなった不幸な事故だと誰もが思うだろう。でも私には、違和感しか感じなかった。
まずは最初から疑問に思っていたことだが、どうして犯人が人混みの中で引ったくりをしたのかということだ。商店街にも防犯カメラは設置してある。そんなリスクがある場所で、リスキーなことをするだろうか。
それに鳥居明美の行動にも疑問が残る。持病を持っていると知りながら、どうして引ったくり犯を追いかけたのだろうか。何を盗られたかまでは分からないのであくまで推測だが、犯人は財布の入った鞄を引ったくったのだろう。仮に彼女が正義感の強い人間だとしても、自らの体のことを顧みずに犯人を追いかけたりするだろうか。鳥居明美の夫は医者であり、当然のことながら金には困らない生活をしている。よほど大事なものが入っていたのだろうか。
「何か、しっくりこないな」
思わず髪の毛を掻き上げた。刑事時代も上手くいかない時はこうするのが癖だった。最近はイライラすることがないから、自分でも懐かしく思えた。
「頭、そんなに痒いの?」
振り向くと、バスタオルで頭を拭きながら立っている進がいた。再び私の胸はドキリと大きく脈打った。彼はいつからここにいたのだろう。私のこの仕草を、進は何度も目撃している。だから、少しだけ不安になった。
「えっと……うん、ちょっとね……ほら、これよ、見て。記事になってるわよ」
笑いでごまかしながら、視線をパソコン画面へと向けた。
「ホントだ、記事になってるな」
私の思惑通り、彼は記事の方へと意識を向けてくれた。真剣な進の眼差しは、私の中でくすぶっていた疑問を投げかけるきっかけをくれた。
「ねぇ、ちょっと質問していいかな?」
「えっ、何だよ」
「そもそもさ、犯人があんな人通りの多い場所で引ったくりするなんて変じゃない? そう思わない?」
「えっ?……うーん、そうかな。別に変じゃないと思うけど」
やっぱりか。どうやら、進も疑問に思わないらしい。
「よっぽどカネに困ってたらやっちゃうんじゃないのかな。今の犯罪って、わからないからね。だって、無差別殺人なんか、あんなの逆に捕まりたいから罪を犯してるようなもんだろ。自暴自棄っていうかさ、捕まったっていいやって感じの犯罪が増えてるしな。自分を大切にしない奴らが多くなったってことじゃないかな」
「まあ、確かにそうね」
最近のニュースを見ていると、憂さ晴らしのために罪を犯すような人間が増えている。むしゃくしゃしてたからとか、相手は誰でもよかったとか短絡的な理由で犯罪を起こしてしまう。捕まることを前提にした犯罪は確かに増えている感は否めない。すると進は話を続けた。
「まあ、お前の言うようにさ、人通りが激しい場所で引ったくりするっていうのは、勇気がいるよな。だからさ、犯人はよっぽど足が速い奴なんじゃないのか」
「足が速い、ねぇ」
「まぁ、どちらにしろ犯行に違和感は感じないってことだよ」
進は自分の意見を言い終わると、バスタオルで頭を掻きながら洗面所へ向かった。ドライヤーで髪を乾かし終わると、おやすみと言って寝室へと入っていった。
「足が速い、か」
私は再びため息とともにつぶやいた。確かに足の速さに自信があれば、人混みの中でのひったくりも可能かもしれない。いずれにしろ、私以外の人間は、疑問を持っていないということらしい。
「あーあ、バカバカしい」
こんなに真剣に考えたって、自分で証拠を確かめることが出来なければ全くの無意味だ。もう止めよう。そう区切りをつけたとたん、あくびが口を突いて出た。時計を見ると、午前零時を回ろうとしていた。
「さぁ、いい加減寝なきゃ」
パソコンの電源を切ろうとしたその瞬間、携帯のバイブ音が響いた。出ると、須永主任からだった。
「いやぁ、ごめんな、こんな夜遅くに。電話番号変わってなくてよかったよ」
「どうしたんですか、こんな時間に……ちょっと待ってください」
私は小声でそう告げると、襖の向こうへ耳を傾けた。進のいびき声が聞こえているのを確認すると、トイレの中に入った。ここなら寝室から一番遠い場所にあるから、進に聞かれることはない。念のため、いつもより声のトーンを落として話を続けた。
「すみません、お待たせしました」
「すまんな、こんな時間に。実はちょっと頼みがあってね。明日、昼間の商店街へ来て欲しいんだ」
「えっ、明日ですか」
「そうなんだ。もう一度、あの場所を検証してみたくてね。都合がよければなんだけど」
主任が現場を見たいだなんて。予想外の展開に、驚きを隠せなかった。
「布谷が言ってたことがさ、ちょっと気になってね。お前の意見をもう一度聞きたいと思ってるんだ」
やはり、主任も引ったくりの件が気になっているのだろうか。これはある意味チャンスだ。主任にきちんと自分の考えを話して、心のモヤモヤを晴らしたかった。
「わかりました。じゃあ、明日伺います」
「じゃあ、待ってるぞ」
「失礼します」
会話をし終わると、自分の顔がほころんでいくのを感じていた。どうしてだろう、何だか嬉しいのだ。主任が私を頼っている。必要としてくれている。その事実だけで、満足感に浸れた。
トイレを出て居間に戻った。
「ちょっと、何やってんのよ。寝てたんじゃないの」
なんと進が私が座っていた場所を陣取って、パソコンの画面を見つめていた。進は頬杖をつきながら、ネットニュースを見つめていた。
「何だか熱心に見てるからさ。まだ寝ないのか」
「寝ようとしてたところよ。ちょっと、どいてよ」
進の手からマウスを奪い取ると、パソコンの終了ボタンをクリックした。
「何だよ、コソコソしてさ。何か、隠し事してるみたいじゃん」
「か、隠してなんかないわよ。変なこと言わないで」
「ふーん」
進は意味ありげな表情で私を見つめると、続けざまにこう言った。
「さっき、誰かと話してなかったか」
再び私の心臓は、バクバクと大きく鼓動をし始めた。小声で話したつもりなのに、聞かれてたのか。ここは、とりあえず笑って誤魔化すしかない。
「やだ、誰もいないのに誰と話すのよ。寝ぼけてたんじゃないの」
「そんなことねーよ。確かに話声が聞こえたし。それにさ、トイレから出てきたお前の顔が、嬉しそうに見えたし」
「……」
次の言葉が何も浮かんでこない。でも、何か答えなきゃ逆に疑われてしまう。でも、口が固まって動かない。焦れば焦るほど、言葉が出てこなかった。
「ひ、独り言よ、独り言。最近多いのよ、ストレス溜まってるのかな」
私は無理やり口角を上に引き上げるように笑顔を作った。進には、ぎこちない表情に映っているかもしれない。けど、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「ふーん。独り言ねぇ。そうは思えなかったけどなぁ」
唾をゴクリと飲み込んだ。トイレの中とはいえ、耳をすませば聞こえてしまう距離だったようだ。
「まあ、いいや。でも、夜も遅いし。いい加減に寝ろよ」
「うん、分かったわよ」
そう言うと進はおもむろに立ち上がった。そして寝室へと入っていった。彼の表情を見る限りは、納得してないように思えた。でも何とかこの場を切り抜けられたことに安堵した。でもそれよりも、気になることが一つあった。私は洗面所へ行くと、鏡の中の自分を見つめた。私が、嬉しそうだって? 確かに、口元はほころんでいたのは自分でも自覚していた。でも、改めて指摘されると、事件を捜査することが嬉しいのだということに気づかされた。刑事として舞い戻ったわけではないが、その一端にでも携われることに心を揺さぶられていた。
寝室へ入ると、進がいびきをかいて寝ていた。その隣には桃花が寝ている。その瞬間、一気に現実に引き戻された。これが、現実の姿なのだ。それを認めなければならない。そっと布団にもぐりこんだが、しばらくはなかなか寝付けなかった。朝からいろんなことがありすぎた。主任との出会いから始まり、捜査への疑問を感じたり、夫への疑念を払しょくすることだったり。たった一日の出来事なのに、一週間も経っているような感覚なのは否めない。目まぐるしい一日だったけど、とても充実した一日だったな……そんなことを思い返しているうちに、ストンと眠りに落ちていった。
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