ママさん刑事

絵本真由

第1話

「あっ、事件の臭いがする」

 その瞬間、田辺美月(みつき)の鼻先がピクピクと動いた。それは約三年ぶりの感覚だった。とても懐かしく感じた。その感覚に従って体が勝手に吉川商店街の方へと向かっていく。歩みを進めるにつれ、胸騒ぎと化して胸の鼓動を高鳴らせた。

「おっと! 危ない」

 急ぎすぎたせいか、途中でベビーカーの車輪がコンクリートのくぼみに挟まりそうになった。ベビーカーには、娘の桃花が乗っている。吉川商店街は駅から南に真っ直ぐ延び、二五〇メートルほどの長さがある。この周辺の町の中で一番の長さを誇っている。飲食店やディスカウントストア、雑貨店などのテナントがひしめき合っているこの商店街は、しばしばメディアや雑誌などに取り上げられる。おしゃれな店などが多く存在するため、休日はもちろんのこと平日でも混雑する。

 周囲を見回してみても、事件が起きたような騒ぎも起きていない。こんな平穏な場所で事件があるわけがない。そう、自分に言い聞かせた。実は私は、三年前まで警視庁の現役の刑事をしていた。今は結婚して退職し、一児の母として子育て真っ只中だ。

「何だ、気のせいか」

 気を取り直して、目的の場所に向かうことにした。その場所は、『精肉店 斉藤』だ。国産和牛肉の精肉店なのだが、この店の野菜クリームコロッケは毎日行列ができるほど人気の品だ。マッシュされたじゃがいもがシチューのように口の中でとろけ、柔らかい肉と共に相乗効果を生み出している。しかも値段も五十円とリーズナブルなので、主婦のみならず学生やOLなどにも大人気なのだ。ご多分に漏れず、私もその仲間入りをして半年以上が過ぎたのだが味に飽きることはない。

「うわぁ、やっぱり混んでる」

 店の前にはすでに五十人以上の行列ができていた。主婦やお年寄りはもちろん、学生服を着た女子学生たちも列に参加していた。今日は開店五十周年の記念の日ということで、目的のコロッケが半額の二十五円で売られている。午後二時だというのに、普段の三倍の長い列ができていた。

「キャ、キャ」

 ベビーカーに乗った桃花が、何故か両足をバタバタと上下に振り上げた。桃花は今年で二歳になる。振り上げる力も、少しずつ力強くなってきたのが成長を感じられて嬉しい。

「えっと、最後尾はどこだ?」

 店は十字路の一角にあるので、列の先が脇道まで繋がっているのがわかる。いつもなら三メートルほどの長さだが、今日はもっと長い列が出来ているはずだ。早く並ばないと、帰る時間が遅くなってしまう。小走りでベビーカーを押し出そうとした、その時だった。

「あれ?」

 吉川商店街の先は、吉川駅へと繋がっている。その手前辺りに人だかりができていた。その人だかりはど真ん中にあるため、大きな岩のように通行人の行動を妨げている。この商店街に通い始めて約三年になるが、こんな光景は見たことがない。普段は人々が忙しそうに行き来している場所に、そんな人だかりができるとは。

「ちょっと、見に行こうかな」

 私の足は自然と人だかりに吸い込まれるように歩きだしていた。

「す、すみません、ちょっとごめんなさい」

 私は今、迷惑な野次馬だ。ベビーカーを人だかりの中に突っ込ませて中を覗き込むのだから。

キープアウトと英語で書かれた黄色いテープが巡らされている中心には、数人の警察関係者らがいた。既にある程度の作業が終わったのか、現場の状況を話し合っているようだった。

「事件かな」

 私は思わずつぶやいていた。やはり、事件の臭いがしていたのは気のせいではなかった。黄色いテープを見てしまうと、血が騒いでしまう。何故なら、現役の頃は目の前のテープを当たり前のようにくぐり、警察関係者らと話し合いをしていたからだ。警察官たちがしゃがみ込んで作業をしているのを目の当たりにすると、どうしても懐かしい気持ちが蘇ってくる。現役を退いた今でも、刑事という仕事を誇りに思っているからだろう。

 でも……もう、私は刑事ではない。今は、子育て中の専業主婦にすぎない。もう、事件を裁くことはないのだ。

「ごめんね、桃花。行こうか」

 我に返った私は、ベビーカーをバックさせようと後ろを振り向いた。まさに、その時だった。

「布谷(ぬのや)」

 懐かしい声がすぐそばで聞こえた。低い音程の渋い声のその人物は、私の人生の中で一人しか思い浮かばなかった。前を向くと、目の前に須永(すなが)主任の姿があった。

「主任、お久しぶりです」

 警察を辞めても、主任のことはそう呼んでしまう。色黒で吊り上がった目をしているので、怖いイメージなのは変わっていない。でも、頭の髪は白いものが増えているように感じた。

「布谷も元気そうだな。あっ、いや、そうか。苗字が違うんだったよな」

「田辺です。この子は娘の桃花です」

「へぇー、そうか。かわいいなぁ」

 主任はおもむろにベビーカーの前にしゃがみ込むと、桃花に向かって笑みを浮かべた。その瞬間、私の胸はバクバクと動悸がし始めた。桃花は人見知りが激しくて、知らない人が近づいてきただけで泣きだしてしまう。厳つい主任ならなおさら怖がってしまうはずだ。私は、ベビーカーを強く握りしめて身構えた。桃花が泣きだしたら、すぐに抱き上げてあやす準備をするためだ。だが、私の考えは杞憂に終わった。何故なら、桃花は主任の顔を見つめながら嬉しそうにほほ笑んでいたからだ。主任も珍しく笑顔で桃花の笑みに反応している。

「この子、主任のことが好きみたいですね」

「へぇー、そうか、そうか」

 気をよくした主任の顔は、ますますほころんでいった。

「主任も、まだ捨てたもんじゃないですね」

 声の主は、紺色のスーツを着た二十代半ばぐらいの男性だった。主任は親指を突き立てて、私に男性を紹介した。

「こいつはお前の後輩で、平野だ」

 平野刑事は主任とは違って色白で、か弱そうに見えた。その一方で、眼光の奥に意志の強さを感じさせるものがあった。主任とはウマが合うのではないか。

「頼もしそうな後輩でよかったですね」

「まあ……、そういうことにしておこう」

 主任は苦笑いを浮かべると、平野刑事の方を振り向いた。だが一方の平野刑事は、こちらとは別のことを考えていたらしく、半ば目を白黒させたような表情で私の方を見つめていた。

「えっ、後輩ってことは、もしかして、刑事だったんですか?」

「えぇ。三年前まで主任と組んでました」

「えー、そうなんですか。なんか想像できないですね」

 平野の驚きようはかなりのものらしく、口をあんぐりと開けて私を見つめていた。ベビーカーを押している主婦が元刑事だったとは、想像しがたいのだろう。私はそんなことよりも、何が起きたのかが知りたくて主任に質問をした。

「ところで、何かあったんですか?」

 主任は立ち上がると、目線を現場へ向けて現状報告をしてくれた。

「引ったくりに遭った女性が、この場所で倒れて亡くなったんだ」

「引ったくり? ですか」

 私はぐるりと周囲を見回した。相変わらず商店街は、主婦や学生たちで混雑していた。夕方に近づくにつれて、この通りは一層の賑わいを見せ始めようとしていた。

「被害者のご主人とは連絡は取れたのか」

 主任の問いかけに、平野刑事は口元を引き締めながら答えた。

「はい。ついさっき連絡が取れました」

「で? どんな反応だった?」

「えっ、ここで言ってもいいんですか」

 平野刑事は躊躇した。私がいる前で、内部情報を話すことに抵抗感があるのだろう。

「彼女は大丈夫だから、いいから言えよ」

 主任は平野刑事に促すように言った。

「……分かりました。夫の話によると、女性は心臓に持病を抱えていたそうです。そのため、肌身離さず薬を持ち歩いていたそうです」

 平野刑事は戸惑いながらも、私がいる前で集めてきたばかりの情報を話し始めた。そして私の顔をチラリと見て、すぐに主任へと視線を移した。一方の主任は、平野刑事が気を使っている表情を知ってか知らずか、お構いなしに話し続けた。

「心臓病か。じゃあ、引ったくりを追いかけている最中に、発作を起こして倒れたってことか」

「まあ、その可能性は高いでしょうね」

 二人が話しているのを聞きながら、私は再び商店街を見回した。そして、主任へ質問した。

「ちなみに、女性が倒れたのって何時ぐらいですか?」

「えーっと、確かお昼ぐらいだったかな」

 引ったくりが行われた時刻が正午だとすると、今よりも人通りが多かった可能性も考えられる。そうだとすると……私の中で何かが引っかかった。

「どうした? 何か気になることでもあるのか」

 すぐに私の様子に気付いた主任が、声を掛けてきた。

「あ、いえ、何でもないです」

 私は右手を顔の前で大きく左右に振って否定した。まさか、この場所で自分の意見を言っていいものだとは思ってもいなかったからだ。

「いいから言ってみろ」

 主任は意外にも真剣な面持ちで、私に意見を求めてきた。平野刑事も複雑な表情で、私の動向を見守っている。意見の異なる二人の狭間で、私は静かに自分の考えを伝え始めた。

「どうして、『ここ』なのかなって思ったんです」

 主任と平野が顔を見合わせた。

「『ここ』ってのはどういう意味だ」

 私は慎重に言葉を選びながら、話を続けた。

「普通引ったくりっていうのは人通りが少ない場所とか、人目につかない場所で行われると思うんです。でも、どうしてこの商店街だったんだろうと思って」

「うーん……そう言われてみれば、商店街で引ったくりされたなんて、あまり聞いたことないな」

 主任は腕を組むと、そのまま体を回転させて周りを見回した。主任は今も変わらず、年下の意見をきちんと聞いてくれている。現役時代、自らの意見を反論と捉えられてしまい、鬱になった同僚がいた。後輩の意見に向き合ってくれる主任の姿勢は、平野刑事にも伝わっているはずだ。

「ちょっと、待ってください。一体何が言いたいんですか?」

 慌てた様子で、平野は私の話を遮った。彼の表情は少し怒っているように思えた。

「私が言いたいのは、この人混みの中で引ったくりを行うという行為が納得いかないというか……」

「それじゃあ、あなたは被害者が誰かに殺されたとでも言いたいんですか?」

 私の言葉に覆いかぶせるように、平野刑事は発言してきた。その様子は、かなりムキになっていた。やはり彼は芯がある性格だと感じたのは、間違っていなかったようだ。

「そうじゃなくて、ただ、この状況に少し疑問が残ると感じてるだけで……」

「疑問が残るって曖昧な言い方、やめてもらっていいですか。あなたはもう部外者の人間なんですから、口を挟まないでください」

平野は、柔和な顔から一転して険しい顔つきで抗議し始めた。

「おい、やめろ。俺が彼女に話を振ったんじゃないか」

 主任は平野刑事を睨みつけるように言った。どうやら私は、知らないうちに捜査の邪魔をしていたようだ。

「すみませんでした。私が言ったことは忘れてください。失礼します」

 私は頭を下げると、その場から逃げるようにベビーカーを押して走り去った。急いで離れようとしてるので、頭に血がのぼっていくのがわかる。それでもただひたすら、足を止めずに前へ前へと進んでいった。

 気が付くと商店街を出て、横断歩道を渡っていた。それでも歩みを止めずに進んでいくと人通りがない道になり、少しずつ歩みを緩めていった。

「何やってんだろ、私」

 思い上がりもほどほどにしろ、と自分に言い聞かせた。自分は何様のつもりなのだ。警察とはもう関係ないのに図々しく進言なんかして、恥ずかしくないのか。私はもう刑事じゃない、ただの主婦なのだと言い聞かせながら、アパートまでの残りの道を歩いた。


 俺は布谷の遠くなる背中を見つめながら、彼女の胸の内を案じた。今は警察とは一線を画してはいるが、かつては共に事件を解決してきた仲間だ。悪口は言われたくない。

「おい、生意気な口たたくなよ」

 平野に険しい口調で文句を言ったが、それ以上に彼は反論してきた。

「だって、あの人はもう刑事じゃないんですよね。元刑事っていう立場で口出ししていいんですか。もしそのせいで、捜査に影響があったらどうするんですか」

 平野の言うのは正論だった。布谷は一般人であって、もう刑事ではない。当たり前だが、彼女の考えを聞く必要は全くない。

「主任も主任ですよ。何で部外者の話なんか真に受けるんですか」

「部外者か……」

 部外者という言葉が、やけに胸に響いた。布谷とは三年間ほどしか仕事をしたことはないが、俺にとって忘れられない濃密な時間だった。二十年以上刑事の仕事をしているが、彼女ほど刑事という仕事が天職だと感じた人間はいなかった。

 布谷とは三年ぶりに再会したが、彼女の鋭い観察眼は衰えていないと感じた。彼女の能力を認めている俺からすれば、余計に布谷の悪口を言われたくなかった。

「いいんだよ。あいつは、俺たち警察にとって特別な存在なんだから」

「特別? それってどういう意味ですか。納得できるように説明してくれますか」

 平野は、ムキになって俺に食ってかかってきた。どうやら、特別という言葉が気に入らないようだ。ここは、布谷の経歴を話さなければならないようだ。

「布谷の出身大学は東大だ。そこを首席で卒業して、警察学校もトップの成績で卒業してる。しかも、警視庁に入ってすぐに大きな事件を解決した。何の事件かわかるか」

「知りませんよ、そんなの」

「女子大生刺殺事件。四年前にあっただろ。犯人が恋人じゃなくて、義理の父親だったっていう事件」

 平野はしばらく腕を組んで考えていたが、何かを思い出したように顔を上げた。

「……そう言われてみれば、そんな事件ありましたね。確かDV男だったんですよね、その恋人ってやつが」

「布谷は警視庁に入ってまだ三ヵ月だったが、聞き込みに参加したんだ」

 彼女は、警察学校を卒業してすぐに警視庁の刑事課に配属になった。布谷はその頃からベテラン刑事のような落ち着きがあり、新人という初々しさは全く感じられなかった。

「へー、そんなすごい人だったんですね」

 平野は腕を組みながら、頭を上下に動かした。心の底から感心しているように見えた。

「その当時、俺たちは彼女の恋人を徹底邸にマークしていた。でも、一向に証拠があがらなかったんだ」

 そこで平野が大きくうなずいた。

「あー、思い出してきた。それって、俺も彼女の恋人が犯人だって思ってましたよ。義理の父親は人の良さそうな人だったから、絶対にないって決めつけてました」

 当時義理の父親はマスコミのインタビューを受けていた。

「俺もだよ。だが、あいつは、初めから義理の父親を疑っていたんだ」

 女子大生の母親は、その当時再婚したばかりだった。捕まった義理の父親は、母親と交際している時から娘のことを狙っていたと、取り調べで供述をした。

「でも、どうして義理の父親が怪しいって思ったんですかね」

「聞き込みの最中の時、男の眼がずっと泳いでいたって言うんだ。集中力に欠けた態度が怪しいと感じたらしい」

「すごいなぁ、表情一つで解決できるなんて。もしかして先祖に優秀な人がいたりして。例えば、金田一耕助とか」

「お前、鋭いな」

「えっ、嘘でしょ。冗談で言ったのに」

 平野は目をパチクリさせて驚いていた。金田一は大げさだが、彼女の家系も似たようなものだ。

「ヒントは、お前も知ってる人だよ」

 平野にクイズを出したまま、近くにあった自販機へと近づき、ポケットの中にある小銭を機械の中に入れた。

「知ってる人、ですか。えー、誰だろ」

 平野は全く思いつかないらしく、腕を組んだまま天井を見上げると、そのまま動かなくなった。俺は缶コーヒーを二つ手に取ると、一つを平野に差し出した。平野はありがとうございますと受け取りながらも、右目に視線を馳せながらクイズの答えを考え続けていた。

「ヒントは、警察内部の人間だ」

「警察官ですか? 布谷って名字の人、いたっけな」

「じゃあ、聞くが、警察庁のトップって誰だ」

「トップ? えーと、警視総監ですよね」

「その、トップの名前って、一度は聞いたことあるだろ」

 平野の顔つきがみるみるうちに変化していった。

「えっ、じゃあ警視総監の娘ってことですか? えー、マジですか。ヤバい、俺、すごいヤバいこと言っちゃいましたね」

 平野は口を右手で押さえながら、信じられないといった表情を浮かべていた。

「ちなみに、彼女の母親は元探偵だ。かなり優秀な探偵だったらしい」

「マジですか。じゃあ、サラブレッドじゃないですか。だから推理力が半端ないんですね」

「サラブレッドか。上手いこと言うな。じゃあ、そのサラブレッドの彼女は、高校を飛び級して十七歳で大学に入学してる」

「じゃあ、二十歳で警察に入ったってことですか」

「まあ、そうなるな」

「すげーな」

平野は、感心しまくっていた。これでこいつは、布谷に大きな顔ができないだろう。

「でも、なんで辞めちゃったんですか、そんな優秀なのに」

「それは……」

 今度は俺の方が言葉に詰まった。確かに、布谷の華麗な履歴を聞いて疑問を持たないはずがない。彼女が警察を辞める時、必死に引き留めたのは俺だった。布谷の刑事としての勘の良さは、他の刑事に比べてずば抜けていたし、その能力を生かさないのは勿体なかった。事件が多発する現代社会で必要な人材を野放しにはできない。

でも、俺の必死の説得も虚しく、彼女は退職した。結婚しても仕事を続ける女性の方が多い世の中で、彼女は頑なに辞職にこだわった。その理由は知っていたが、布谷なら乗り越えられると思っていた。でも、彼女は勤続四年という短さで辞職してしまった。

 平野にそう告げようと口を開いた瞬間、午後三時を知らせるベルの音が駆け抜けていった。商店街には、主婦の姿が多くなり、俺たちの肩スレスレにすり抜けていく人が増えてきた。

「さあ、戻るぞ。部長も待ってる」

 俺は気を取り直して、平野の方をポンッと叩いた。


 吉川警察署へ戻ると、刑事課の事務所には柴田部長の姿しかなかった。ノートパソコンの画面を見つめていた部長が俺たちに気付くと、おもむろに右手を挙げた。

「お疲れさん」

「お疲れ様です」

 俺は内ポケットから黒い革の手帳を取り出すと、調べてきた情報を部長に報告し始めた。

「亡くなったのは、鳥居病院の院長夫人の鳥居明美さんで、年齢は三十二歳です。彼女は買い物をして店を出た後に引ったくりに遭い、そのまま倒れて死亡しました。夫の話によると、彼女は心臓病を患っていたということです」

 部長は立ち上がり、腕を胸の前で組みながらデスクの前をうろつくように歩きだした。

「心臓病か。じゃあ、引ったくりに遭ったショックで心臓麻痺が起きたってことか」

「その可能性が高いです。それと、その……」

 俺の脳裏には、昼間出会った布谷の姿が浮かんでいた。引ったくりが商店街のような人通りの多い場所で行われるのはおかしいと、彼女は僕らの捜査に異を唱えていた。正直、布谷が主張していることなど無視すればいい。なぜなら、彼女は警察関係者でも何でもないのだから。だが、どうしても気になるのだ。

 実は、柴田部長も布谷の能力を認めていた。俺たちは共に布谷の辞職を阻止しようとした、言わば同志のようなものだった。もしここで布谷の名前を出せば、この場の雰囲気が変わるだろうし、今のモヤモヤした感情もスッキリするかもしれない。

「実は、その……」

 話を切りだそうとしたまさにその瞬間、平野が俺の心を見透かしたように口を挟んできた。

「現場には多くの目撃者がいました。鳥居さんは犯人を追いかけている途中、道の真ん中で倒れたという意見が大半でした。それと彼女の様子なのですが、とても苦しそうだったと証言しています。ですから、持病である心臓発作で亡くなったと考えるのが妥当だと考えられます」

「まあ、状況からしてそうとしか考えられないよな」

 部長は平野に同調するように頷いた。

「はい、その通りです」

 平野は自分の意見を念押しするかのように、力強く頷いた。

「そうなのか」

 部長は、俺の顔を窺うように言った。さっきまでは布谷のことを言わなければという思いに駆られていたが、余計なことを言わないほうがいいのかもと思い直していた。なぜなら鑑識の結果がまだなのに、憶測で物を言うのはよくない。結果が出てから検討すればいいし、布谷のことは別の機会に部長に話せばいい。

「彼の言う通りです」

「そうか……分かった。じゃあ、この後の処理は頼むな」

「分かりました」

 俺は部長にそう言うと、自分の席に座った。平野の方をチラ見したが、ヤツはわざとらしく俺に背を向けるように椅子に座っていた。余計なことは言わんばかりの態度に腹が立たないわけがなかったが、部長がいる前で怒りをぶちまけることができなかった。

「外に出るか」

俺は独り言をつぶやきながら事務所を出ると、怒りを静めるために喫煙所へと向かった。

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