第4話

「ふー、やっと着いた」

 高級住宅街が立ち並ぶ道を歩いていると、長い坂道に辿り着いた。そこを上り終わった先に、鳥居邸が現れた。レンガ造りの洋風の建物で、セレブという名にふさわしい立派な造りの屋敷だ。目の前には鉄格子のような門扉があり、玄関に辿り着くまでには数段の階段を上らなければならない。鳥居明美の夫の益男は、鳥居病院の院長を長年勤めている。心臓外科が専門で、その分野ではかなり有名らしい。それは国内だけでなく、海外からも患者が手術にやってくるという。この町で一番の納税者なので、当然だが住んでいる自宅も高級住宅街にある。

 チャイムを押すと、しばらくして女性の声が聞こえてきた。

「はい、どちらさまでしょうか?」

「鳥居院長にお会いしたいのですが」

 俺はカメラに写るように、警察手帳を顔の横に近づけた。鳥居夫人について話をしたい旨を伝えると、チャイム越しの女性は沈黙した。警察がここに来たことに、戸惑っているのだろう。俺は相手を安心させるように、なだめるように言った。

「お手間は取らせませんし、簡単な質問ですので、ご安心ください」

 俺が声のトーンを和らげたことが効いたのか、女性は急に落ち着きを取り戻したように声を発した。

「少々、お待ち下さい」

 インターホンが切れてからしばらくすると、目の前の門が自動で横にスライドしていった。そして、再び先ほどの女性の声がインターホン越しに聞こえてきた。

「どうぞ、お入りください」

 俺は中に入り階段を上り終えると、玄関の前に立った。と同時に扉が開かれると、中から小柄な女性が出てきた。年齢は三十代前半くらいだろうか、白いシャツとデニムのズボンというラフな格好をしていた。

「すみません、突然。私はこういう者で」

 俺は再び警察手帳を彼女に見せた。そして、女性に質問をした。

「失礼ですが、あなたは、ここのご家族ですか?」

「いえ、私はこの家で家政婦をしてます。院長は、すぐに参りますので、上がってお待ちください」

 家政婦は俺を応接間に通すと、お辞儀をして出ていった。

「すごいな。豪華なシャンデリア」

 通された部屋の天井には、きらびやかにシャンデリアが輝いていた。ヨーロッパ調の家具が置かれ、誰が描いた絵か分からないが田舎の風景が描かれた絵が飾られていた。額縁が豪華なので、恐らく有名な画家の絵なのだろう。高額な品物なんだろうなというのは、容易に想像がついた。

「お待たせしました」

 家政婦の女性が、コーヒーカップを乗せたお盆を持って入ってきた。カップをテーブルに置くと、俺に向かって会釈して踵(きびす)を返そうとした。

「あの、ちょっとよろしいですか」

 俺は家政婦を呼び止めた。

「あなたにも、お話をお聞きしたいのですが」

「えっ? 私に、ですか」

 俺の呼びかけに女性は戸惑いながら、再び向き直った。まさか声を掛けられると思っていなかったのだろう。俺も家政婦にも話を聞いておこうと思っただけで、正直なところ内容には期待はしていなかった。

「じゃあ、まずは、あなたのお名前からお聞かせください」

「三宅直美です」

 彼女の声はか細くて聞き取りづらかったので、俺は彼女に一歩近づいた。そして、頭を屈めて言葉を聞き取れるようにした。

「あなたは、この家で働き始めてどのくらいですか?」

「えっと、今年で、二年目になります」

 家政婦の声は緊張のためか、更に聞き取りづらくなっていた。彼女の緊張を和らげるために、安心させる言葉をかけた。

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。あなたを疑ってるわけじゃないんですから」

「実は、警察の方と話をするのは初めてなので、慣れてなくて……すみません」

 彼女は恐縮そうに頭を下げた。俺は再び質問を続けた。

「商店街はよく行かれますか?」

「えっ、えぇ、まあ、行きますけど」

「高岡ベーカリーには、行ったことありますか?」

「えぇ、はい。何度か」

「美味しいって評判みたいですねぇ。そこの、何でしたっけ?」

「ピーナッツパンですか? そうなんです。私も大好きなんです」

「病みつきになるくらい?」

「えぇ、まぁ、そうですね」

 少しだけ彼女の顔の表情が和らいだようだった。緊張が取れてきたところで、鳥居明美の当日の行動について話を移した。

「ところで、亡くなった鳥居明美さんも、その店のピーナッツパンが好きだったんですか?」

「いえ、知りません。というか、奥様がそのパン屋に通っていたのも初めて知りました」

「そうですか。普段から、そういった話はしないんですか? 例えば雑談的な、どこの店の料理がおいしいとかいう、プライベートの話とか」

「基本的に、我々家政婦は家主とプライベートの交流を持つことを禁止されてるので、ないですね」

 家政婦に気を許すと、盗難などの温床になりやすいと聞いたことがある。自宅の中に入って仕事をする職業だからだろう。隙を見せると、そこに付け込んで犯罪を生みやすい。

「でも、まさか、奥様が亡くなるなんて思ってもいませんでした。私が代わりに買い物に行っていたら、あんな目に遭わなくて良かったと思うと、複雑な気持ちになります」

 家政婦の顔の表情が崩れ、声のトーンも低くなった。夫人の不遇な死を受け入れられないようだった。

「分かりました。これで以上です。ありがとうございました」

 俺は彼女との話を切り上げた。正直、ここまで彼女と話をして参考になるような話は一つもなかった。その時だった。部屋の扉が、大きく開け放たれた。

「お待たせしました」

 鳥居益男は恰幅のいい男性で、見るからに病院長だと分かった。メタボ体型の割には目鼻立ちがハッキリしている。老けている印象はなく、プレイボーイ的な印象だ。

「それじゃあ、私はこれで失礼します」

 三宅直美は一礼すると、そそくさと居間を出ていった。

「彼女とは、何を話してたんですか」

 鳥居は家政婦の後ろ姿を見つめながら、唐突に話しかけてきた。

「高岡ベーカリーを知ってるかと聞いたんです。亡くなった奥さんも、そこのパンが好きだったみたいですね。院長も召し上がったことありますか?」

「高岡ベーカリー? 知らないですね。どこにそんなパン屋があるんですか?」

「吉川商店街にあります。その通りで奥さんは亡くなったんです」

「いや、知りませんね。商店街なんて滅多に行かないですから」

 鳥居はまるで妻の死が他人事だと言わんばかりに、淡々と話し続けた。最愛の妻が亡くなったと思えないほど、彼の顔の表情には感情がないように思えた。

「もう一度言いますけど、心臓発作を起こして亡くなったんですよ。しかも引ったくりという、普通じゃあり得ない死に方ですよ。そのことについて、何か思うことはないんですか?」

「まあ、それは不運だと思うしかないでしょ」

 遺族の中には、感情を表に出さず淡々としている人は今までに何人かいた。感情が表に出せず悲しんでいないように映ってしまうので、他者を困惑させる。妻を亡くしたショックがそういった態度にさせるのかと思ったが、どうやら違うようだ。彼の様子は落ち着いているし、顔の表情も暗くない。単に機嫌が悪いのか、それとも妻の死を悲しんでいないのか、俺には、どうしても後者の方だと思えてならなかった。

 鳥居はコーヒーを啜り一息つくと、再び話をしだした。

「家内は心臓発作で亡くなったんですよね? 昨日、警察の方が説明しに来ましたけど」

「そうなんですが、引ったくり犯が捕まったんですよ。念のため、もう一度話をしておきたいと思いまして」

 鳥居はため息をつくと、背中を椅子の背につけてのけぞるような体勢になった。

「犯人が捕まったからって、死因が変わることないでしょ。妻は心臓に持病を持ってました。それを承知で、僕は彼女と結婚したんですから」

 妻の死を悲しまない夫。このワードを聞いただけで、何か裏があると思えてしまう。俺が出した結論は、鳥居益男という男は何かを隠している、ということだった。これは、深掘りしなければならない。

「では、奥様が全速力で犯人を追いかけたことについてどう思いますか? 持病を持っていたら、リスクを冒してまで犯人を追いますかね」

「妻は正義感が強い人間なんですよ。自分のものを奪われたからそれを追ってしまった。素直に行動に出た結果、こうなったんじゃないですかね」

 鳥居は再びため息をつくと、コーヒーを啜った。動揺をさそうような質問をしたつもりだったが、予想を裏切るような態度をみせた。微塵も表情を変えることなく、むしろ先ほどより落ち着きを増しているように思えた。鳥居のつくため息は、しつこい人間を諦めさせるための行為だということに気づいていた。それでも俺は引き下がることなく、質問を続けた。

「奥様の持病はどの程度のものだったのでしょうか?」

「一年前に手術をして、毎日薬も飲んでました。彼女なりに体のことには気を付けていたと思いますよ」

「どうして先生は、そんなに冷静なんですか?」

 俺は思わず、そう口走っていた。配偶者を亡くした夫とは思えない態度が、俺をイラつかせた。冷静すぎる鳥居の態度が、俺をそうさせた。でも俺の語気が少しだけ強かったのにも関わらず、もひるむことなく言葉を続けた。

「刑事さん、私は長年病院で働いてます。うちには毎日のように患者が来ます。その中には死因に納得されなくて、私たちに食ってかかる人もいます。時には殴られそうになったり、罵倒を受けるなんてしょっちゅうです。それでも納得されない遺族の方たちに、私は誠心誠意説明をします。目の前の死を受け入れるように、根気強く説得します。そうやって相手を納得させてきた私が、今度のことを納得できないなんて言えますか? 妻は不慮の事故に遭遇して亡くなった。そう自分を納得させるしかないんですよ」

 鳥居はそう言うと、コーヒーカップを手に取り、中身を一気に喉に流し込んだ。フーと息を吹き、どうだと言わんばかりに俺の方を見た。深々と椅子に座り込んだ鳥居の様子は、天下を取った大将のように堂々としていた。鳥居の主張は、最もな話であり、俺は反論すらできなかった。でも、それで終わりにしていいのだろうか。一度疑問を持った以上、とことんまで調べなければ俺の仕事は終われない。ここは一か八か、賭けにでることにした。鳥居に嘘をつくことにした。もし部長にバレたら、始末書どころではない。でも、もう後戻りはできなかった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

「実はですね、今回伺った一番の目的は、奥様の遺体解剖の許可をいただきたいと思いまして」

「解剖ですって?」

 鳥居は素っ頓狂な声をあげた。俺の発言に驚きを隠せないようだった。解剖をするには、上司の許可がいる。当然のことながら、部長の許可は取っていなかった。部長に知られたら始末書行きだが、家族である鳥居が解剖を望んだとなれば話は違ってくる。俺の首の皮は繋がるはずだ。

「先ほども申した通り、奥様の死に関して疑問点がいくつか出てきたので、一度解剖をさせてほしいのですが、ご承諾いただけないでしょうか?」

 俺の問いかけに鳥居は両手を膝の前で組むと、しばらくうつむいていた。どうやら、迷っているようだ。遺体だが、体にメスを入れるのだ。それが嫌で解剖を渋る遺族は少なくない。でも、俺には鳥居が俺の申し出を断らないのではないかという勝算があった。警察が解剖をしたいと望んでいるのだ、妻の死に疑問が残ると分かれば承諾するはずだ。そもそも警察の要請を、医者が断ることはないのではないか。そう思ったが、予想してた以上にこの鳥居という男は偏屈な男のようだ。

「お断りします」

「えっ? なぜですか」

 俺は驚きのあまり、裏声になってしまった。

「啓二さん。さっきから何度同じこと言わせるんですか。家内は心臓病で死んだんですよ。だったら、解剖なんて必要ないでしょ」

「いや、だから、病死かどうかを確かめるために……」

「こっちはね、早く葬儀を済ませたいんですよ。男一人になって、娘も養わなきゃならないんだし。こっちの気持ちも考えてくださいよ!」

 彼の怒りは怒気を含んでいた。遺族の気持ちを尊重するなら、本当ならここで引き下がるべきなのだ。それ以上は望まないという彼の意思を慮るべきだ。俺の中では遺族の気持ちよりも、真実を知ることが大切ではないか。だから、無意識のうちに、必死になって説得を始めていた。

「鳥居さん、これは大事なことなんです。もう一度、考え直してはもらえないでしょうか?」

「いやです。もしかしたら、病院に何らかの影響があるかもしれないじゃないですか。うちは有名な病院なんで、影響力が強いんですよ」

「あなたの奥様のことじゃないですか」

 俺がそう言い終わらないうちに、鳥居は立ち上がり怒りを露わにした。

「だから、妻の体にメスを入れたくないって言ってるだろ! 解剖はしない! 絶対にな!」

 鳥居の怒りは頂点に達し、ドスンッという音を立ててソファに腰を下ろした。こうなってしまうと、もう打つ手はない。俺が何か言おうものなら、火に油を注ぐことになってしまう。ここは一度、引き下がったほうがいい。

「……分かりました。今のことは聞かなかったことにしてください」

 俺の態度が収束していく様子を見て、鳥居もフーっとため息をついてから話を続けた。

「もういいですか。これ以上話すことはないですから、お引き取り願いますか?」

 そう言って鳥居益男は立ち上がり、一方的に部屋から出て行ってしまった。

「ハァ、仕方ねぇな」

 独り言が、思わず洩れた。どうやら、部長には内緒で事を進めるしかなさそうだ。結局、何の収穫もなく帰ることになってしまった。

「お疲れさまでした」

 玄関で靴を履こうとした時、三宅直美がどこからともなく現れ俺に向かって頭を下げた。彼女の顔の表情は、困惑と申し訳なさが入り混じっていた。主人の無礼を許して欲しいと、訴えているように感じた。

 俺は無言で会釈し、玄関を出た。来た道を戻りながら歩みを進めると、次第に頭の中が冷静になっていった。冷静になればなるほど、鳥居の態度に疑問が湧いてきた。彼は何かを隠しているのではないだろうか。第一に、子供のために妻の葬儀を済ませたいと言っていたが、その理由がいまいち理解できない。子供のためなら、死因を特定することを優先するのではないだろうか。一番腑に落ちないのは、妻の体にメスを入れたくないという点だ。鳥居明美は心臓を患っていて、過去に手術を受けている。体にメスを何度も入れているのに、入れたくないという理由が腑に落ちない。俺にはどうしても、早く事を済ませたいとしか思えなくなっていた。つまり、何かを隠したいのではないか。

 何を隠そうとしているのか。それは、遺体が解剖されては困るからだ。例えば、鳥居が今回の件に加担しているとしたら、話は早い。だがその場合、村岡との接点がなければ辻褄が合わない。

「まあ、飛躍しすぎか」

 自らの考えに、突っ込みを入れた。いくら何でも鳥居と村岡との間に接点があるとは考えにくい。方や病院長で、方や元窃盗犯という立場の人間が、交わる空間がどこにあるというのだ。それはあまりにも考えすぎだし、飛躍しすぎている。

 だからといって、鳥居のことは気にならないと言ったら嘘になる。というのも今回のように、一見関係のないことでも、事件につながっているということは少なくない。だから些細なことでも見逃すことはできない。

「さぁ、次行くか」

 とにかく、今は情報量が圧倒的に足りなかった。どんな情報でもいいから、かき集めなければならない。そのためには、村岡のことを知ることが必要だった。

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