⑤ 法と犠牲





 その棟にも小さく区切られた部屋はあったが、扉はなかった。

 閉じ込める必要がないからだ。


「どうしたキペ=ローシェ、面食らってしまったか? 

 ふふ。だがな、ここはそういう場所なのだ。」


 うす暗がりの部屋には荒くこすれる息と金属器のカチャカチャいう音だけがある。


「・・・。」


 棟に残っていた監視員たちはただ無言でその器具を操るだけだ。


「そなたにはその目で見、そして知ってもらいたいのだ。さもなければ何が正義か、何が裁きかを説いたとて我らに心から協力する気にはならぬだろう。」


 見たくなくともそれらは目につき、そして焼きついて離れない。


「・・・。」


 そして自分の中から湧き出る言葉が形になれない状況はただ、キペを黙らせた。


「そうか。ならばもっとよく感じてもらうとしよう。」


 それを見兼ねてなのか、それとも反応がほしかったのか、ロウツはひとつの部屋へと足を踏み入れる。無言のキペは漂うようにそれに続く。


「ふー・・・ふー・・・ふー・・・」


 奥では吊るされた囚人が長い棒を握って荒い息を吐いていた。

 近寄ると、天井から下ろされた鎖は直接肩に打ち付けられたものだとわかる。


「そう遠くてはよく見えまい。きちんと見よ。そして沸き上がる感情を見届けるのだ。」


 すると陰に控えていた『スケイデュ』団員たちの無言の圧力がキペを奥へと促す。


「・・・。」


 やがて暗がりに慣れた目が捕らえたのは、歯が抜かれ、皮が剥がされ首と頭を木枠で固定された、赤い肉の生き物だった。


「ふー・・・ふー・・・ふー・・・」


 うなだれることも許さないその固定器も固定させるため胸や背中に打ち込まれていた。

 血の跡や腫れが見られないのは以前からこの状態だったことを物語っている。


「・・・。ひ、どい・・・。」


 キペたちに気付いてはいるのだろう。

 しかし丸裸の赤い囚人は何の反応も示さなかった。少なくとも、そう見えた。


「そう思うかキペ? ふっふっふ、しかし我々は寛大なのだよ。

 囚人たちが大事な大事な己の命を捨ててしまわぬよう首と頭をこうして固定器で保護してやり、とても危ない歯をすべて取り除いてやり、噛み潰さぬよう舌を下顎に縫い付けてやっているのだからな。

 また万が一にも備え医法師を常駐させておる。絶食のような幼い反抗にも栄養を血管に直接流し込む技術で対処しておるのだ。病気に関してもそう。衛生面にはこうして・・・・ほれダルマ、我らは気にせず作業を続けよ・・・・清潔を保っておる。ふ。あまり臭わなかったであろう?」


 そこへぬたぬた、と入ってきたのは肘から先と膝から下がもぎ取られた赤い生き物だった。吊るされた囚人同様、頭や首を守る固定器を付けたまま、「ダルマ」と呼ばれた囚人は拙い両腕で雑巾をかけ始める。

 むせ返るような血生臭さも鼻を突く汗や排泄物の臭いもほとんどないのはこのためだったらしい。


「ヒ・・・ヒトじゃ、ないじゃないか・・・」


 いま見ているモノが、コトが、現実なのだと心が気付くと途端に顔は引き攣り始める。


「くくく、そうなのだ。」


 それを見届けるロウツはにちゃりとうれしそうに笑った。


「そうなのだよキペ。その言葉を待っていたのだ、くっくっくっく。

 ・・・おい、2891号を連れてこい。」


 団員へと声を投げたロウツはまたひとつ笑い、床をたどたどしく拭いていた赤い生き物を蹴り飛ばす。


「あ、あなたは、教皇なんでしょう?・・・」


 ぺちゃん、と愛想のある音とは裏腹に、蹴られた腹も壁にぶつかった背中も剥き出しの肉が受け取れば激痛になる。

 それでも、喉びこさえ切り取られた口からは音すら上手に響かなかった。


「ああ。その通りだ。民衆を正しき力で守る指導者だ。

 くくく、今にわかる。そなたとて疑念を抱かなくなるだろう。」


 ぴくぴくと小刻みに震える「ダルマ」はそこでまた体を立て直して囚人の落とした汗と尿を拭き始める。


「お呼びでしょうか。」


 するとそこへ、暗色の簡素な衣に口元まで覆われた監視員が『スケイデュ』に連れられてきた。その不思議な静寂を纏った雰囲気は相変わらず不気味だけを漂わせている。


「顔を見せてくれ。ここにあるキペ=ローシェは我らと共に正義に与する者となるのだ。心を束ねるには内奥の焔をつまびらかにするに限る。そしてこのキペは、それに値する。」


 なぜ自分がこうも様々な者たちから関わりを求められるのかは未だに疑問が残る。

 風読みジニに始まりエレゼやタチバミ・ボロウとそれぞれ意図があってのことなのだろうが、今はその謎を解くには手掛かりが欠けすぎていた。


 そしてそれを解こうと思う気持ちも翳るほど、この場所には光が少なかった。


「かしこまりました。」


 それで何が始まるのだろう、そう思うキペの前で監視員は顔の覆いを解いてみせる。


「・・・。」


 体つきや声、覗いていた目から女であることはわかっていたものの、その監視員はとても、とても美しかった。


「はじめましてキペ=ローシェ。私は2891号といいます。」


 手を差し出すでもなく、2891号はキペに目を向ける。

 その女はキペと同じくらいの歳の美しいラト族だったが、冷たい美しさだった。


「・・・どうも。」


 ただ、いつもなら照れてしまいそうなその女を見ても胸の奥で何かが動く気配はなかった。動揺や困惑といったものさえ見当りそうもない。


「2891号、動かしてくれ。」


 おもしろくもない紹介が済むとロウツは愉しむように指示を下す。

 それに「はい」と従い吊るされた囚人の傍へ歩き出す2891号をキペはただ呆然と眺めるだけだった。


 しかし、


「ちょっとっ!」


 ロウツが何を指示したのか気に留めなかったキペにも、2891号が囚人の手に固定された長い棒切れへ手を伸ばすを見れば想像できた。


「勝手ハ謹ンデモラオウ。」


 やめさせようと伸ばした手を掴まれ背後から押し殺された注意が囁かれる。

 不穏な動きがあればキペを仕留めるよう命令されているようだ。


「ふーっ!・・ふっ!・・・ふーっ!」


 抵抗をやめたキペが目を戻すと、そこではためらい一つ見せず2891号が長い棒の先を持ってぐるりと回していた。


「ふーっ! ふーっ! ふーっ!」


 囚人は足をバタバタいわせて必死に抗うも、手首が回されるに従い次第に力が入らなくなるのだろう、やがて左手はあさってに曲がって動かなくなった。


「まだ左手は三度目ほどか。2891号、右手はどうだ?」


 恐怖と痛みにガタガタと震える囚人の右手は異常なほど腫れあがって螺旋状のシワを深く刻んでいる。それでもまだ血は通っているらしく、皮の剥がされた腹と背中の真っ赤な肉が興奮を反映してより一層色を濃くしていた。


「確か五回、だと思います。五か七か・・・いえ、五でしょう。」


 掴んで離れない長い棒きれを半回転させているのだろう。


 皮膚というものは存外丈夫にできているため、骨を砕き肉をねじり潰してもびりびりと布のように破れることがない。億劫そうに答える2891号は「まだ作業の途中だ」とでも言いたげに今度は右手を半回転させる。これもまた、億劫そうに。


「ふっ!・・・ふーっ!・・・・」


 こうして毎日毎日新鮮な苦痛を与え続けているのかもしれない。

 いつ終わるとも知れない絶望と決して引くことのない痛み、それらから逃れる自殺さえも阻まれた心は日を待たずして崩壊へ突き進むはず。


「・・・なんで、あなたのようなヒトが・・・」


 ぐったりとした囚人の股から滴る尿を、ダルマは当たり前のように拭き取っている。

 そうしなければ今よりもっと虐げられるから。

 奴隷のようにこき使われる現状ですら彼にとってはまだ安泰な状況なのだ。


「なんで?・・・そうね、なんでか。

 ・・・ずいぶん脳天気な質問ね。・・・なんでか。


 ・・・聞きたいのは・・・聞きたいのは私の方よっ!」


 ごぎぎぎっとそこで囚人の右手が軋むと折れた骨がついに皮膚を突き出て真っ赤な肉を溢れさせる。ふーふーと身をよじる囚人はどこが関節だったのか判らないほどジグザグに折れ曲がった右腕を恨めしく白目で見遣るばかりだ。


「その辺りにしておけ2891号。気を失っては罰にならぬ。」


 2891号に表れたその一瞬の表情が報せたのは、憎悪だけでは決してなかった。


「申し訳ありません、教皇。」


 冷たく心を閉じ込めたのには閉ざさなければならない理由があるはず。


「・・・ロウツさん。監視員のヒトたちはみんな、特別な訓練を受けたヒトではないですよね。みんな、こうするために雇われたのですか。」


 ダイハンエイやカクシ号が乗り込んできた時のあの緩慢な反応、やっつけるというよりなだめようとするような欠落した闘争心は、ヒトとして持っているべき何かをどこかへ押しやった抜け殻のように思えてくる。

 といって操られる人形にも見えない。


 キペはだから知りたくなる。

 知らなければならない、と思う。


「雇っているというのは少々誤解だな。生活の面倒をみる程度の給金しか払ってはおらぬのだ。加えて言えば、ここで働くにおいては社会とも当然断絶される。家族とも郷里とも、笑顔と活気のあるヒトとヒトとのあたたかな繋がりとも、な。


 それでもこの者たちは依願した。懇願した。

 熱望し、切望し、渇望した。


 だからこのコロナィはそんな者たちを受け入れることにしたのだ。拷問吏になりたいと公に申し出る者は昔から多くはなかったのでな。


 だがそうした軽蔑のまなざしさえ意に介さぬほど意志が固かった。

 わたしは彼らにひとつだけ、「命を奪わぬように」とだけ命じて任を委ねることにしたのだ。とにかく、殺してはならない、とな。


 ところでキペよ、そなたはそこの囚人の「捻り棒」を回せるか? 

 まずは今の心境を聞かせてもらおう。」


 吊るされた囚人の荒い息は止まらない。

 動かすことをやめたところで痛みが治まるはずがないのだから。

 そしてそんな部屋にいてなおまだ目を向けられないキペの答えなど決まっている。


「・・・できるわけ、ないじゃないですか。こ、んな惨いこと。」


 それでも心はその光景に慣れ始めていた。

 といってそれはキペが冷酷になったからではない。

 吊るされた囚人を、「吊るされた赤い何か」に置き換えているからに過ぎないのだ。

「それ」が町を歩いていた普通のヒトと同じであると、快活に笑いながら働いていたヒトと同じ生き物であると認めてしまえばたちまち心が掻き乱されてしまうから。


「そうね。誰でも同じことを言うわ。

 惨忍だ、残酷だ、狂っている、ヒトのやることじゃない、ってね。


 でもあなたもできるわ。必ず。

 皮を剥ぎたくなって、爪を毟りたくなって、目玉を刳りたくなって、手足を焼き切りたくなって、そして、その捻り棒を回したくなるわ。必ずね。」


 達観するでもなく皮肉をいうでもなく、ニヤリともせずキペの瞳をまっすぐに見つめてそう言い放つ。おどおどした頼りないタレ目のその男を見透かすように、それが真理であるかのように2891号はきっぱりとそう言い切る。


「・・・僕は、こんなこと、絶対しない。」


 恐る恐る改めて吊るされた囚人に目を遣るも、錯綜する虚実の中で体は吐き気と悪寒だけを選択する。

 これは夢だと信じたい気持ちも目の前の現実には打ち勝てはしないから。


「なるほど。

 ・・・ふぅ。このような罪人であっても刑期というものがある。それを終えれば大手を振って歩けるのが今の法なのだ。


 キペよ、不条理だとは思わぬか?

 罰の終わりが罪の消去であるはずがない。しかし実態はそうなのだ。

 罰さえ受ければあとは「無罪」放免となる。

 ヒトの命を、ヒトの未来を好き放題に奪い汚しながら、わずかな不自由を呑みさえすれば元通りだ。


 わかるかキペ=ローシェ。

 罰を受け外に出たのなら「もう一度罪を犯してもよい」と定められておるのだ。


 無論、出た後の生活は楽ではなかろう。だがそれを招いたのは誰だ? 己ではないか。

 己で招いた苦労を己で背負ってなぜ罰なのだ?


 招きもしない苦痛や屈辱や死を、ただただ欲に任せて押しつけられた者に対する贖罪としての罰がまだ残っているではないか。


 まぁよい。この世界で確かに起こった事実を聞けば心も変わるであろう。

 ・・・2891号、話してやるとよい。心が再び腫れるだろうが、肝要なのでな。」


 そう言ってロウツは歩き出し、隣の部屋へとキペたちをいざなう。

 吊るされた囚人への「作業」はこれでひとまず終わりのようだ。


「・・・。夜、出歩いてはいけないと言われていたわ。

 家と家とが畑や茂みで隔たれているような田舎だったから、大声を出しても気付かないことは知ってた。

 でも、だから会えたのよ。私の大切な、大切なあのヒトと。


 いろいろなことを教えてくれた。勉学が苦手な私にそんなこと気にすることはない、と、きみにはたくさん素敵なところがあるよ、と、だけど勉強もしなくちゃね、なんて言って、抱きとめてくれた。笑ってくれたの。


 いつもやさしく手を握ってくれるだけで、それだけで幸せだったわ。あのヒトの仕事が終わる夕暮れを毎日待ち焦がれて、待ち侘びて、二人の秘密の場所に来てくれることを楽しみにしてた。待つのは辛かったけど、それでも、幸せだったわ。」


 次の部屋でも首から上だけが厳重に守られた赤い生き物が吊るされている。

 まだ途中なのだろう、だらりと垂れた生皮は腹でぴらぴらと揺れ、肉を貫いた鉄のリングが幾つも赤い体でキャラキャラと鳴っていた。

 そこでこちらに気付いた赤い囚人は恐怖からか怒りからか身をよじったものの、熱した石でも両手で握らされたのだろう、「溶けてくっついた両手」という鎖からは逃れられなかった。先の捻り棒の男も手と金属棒が癒着していたから。


「・・・いつも待ち合わせてた木の大きな洞であの日も私は待ってた。そこは昼ならヒトも通る場所だったけど、夜に足音を鳴らすのは私とあのヒトだけだった。


 でも、そこへ来たのは汚い男たちだった。


 突然の恐怖で声も出なかったわ。逃げ出そうにも足がもつれて走れなかったの。

 だからすぐに捕まったわ。これで終わりなんだ、そう思った。


 だけどそこに現れたのよ。・・・現れて、しまったのよ。・・・あのヒトが・・・」


 悲しむように憎むように2891号は声を詰まらせる。

 動かない表情の中の動けない苦しみは、やがてキペにも静かに伝わった。


「・・・見つかったあのヒトは・・・滅多打ちにされて殴り殺されたわ。

 誰かを呼ばれちゃマズい、って、ただそれだけの理由で。


 勝手に罪を犯そうとした男たちが勝手な理由で、命まで奪わなくてもいい下らない勝手な理由ひとつであのヒトを殺したのよっ!


 ・・・声が出せるようになって呼んだ助けで私はかすり傷程度で済んだわ。そしてその男たちも捕まった。


 でもね、何も戻らないのよ。


 残されたのは、大きな穴と、それに収まりきらない真っ黒な炎だけだった。


 責めたわ。私があんな所にいなければ、あの日だけでも宿題でもして遅れていれば、あの時大きな声で助けを呼べていれば、


 ・・・犯されてでも、あのヒトと鉢合わせないようにできていれば、って。


 そんな日々が季節をまたいで過ぎていった。


 周囲は忘れろと簡単に言うけど、そんなことなんてできるはずないでしょう? 


 そうして五円を生きながらえた頃、あの男たちがどうなったか警邏隊に問い合わせてみたの。


 男たちはもう、牢の外で暮らしていると聞かされたわ。


 ・・・あなた、私に「なんで」って尋ねたわね。


「なんで」って、そう尋ねたわよねっ!


 聞きたいのはこっちなのっ! 


 あなたにわかるっ?


 汚らしい男たちに顔を潰された恋人の気持ちがっ! 脳も目玉も飛び出てぐちゃぐちゃにされたあのヒトの苦しみがっ! それが生ぬるい「戒め」程度の「罰」で済まされたこの悔しさがっ! 何の謂われもなく殺されたのよっ! あなたにわかるっ?


 聞きたいのはこっちなのよっ!」


 そう放ち、つかつかと腕の鎖で吊るされた囚人の元へ歩く2891号は鉄輪をひとつ掴んで引きちぎった。肉も骨も弱ったあばらは難なく毟り取られ、鮮血が脂汗と尿に混じって滴り落ちる。


 そしてそれをダルマが不器用に拭き取った。


 覚束ない足取りで水を汲んだ桶で雑巾を洗い、絞り、拭き取る。

 こんなことが、ここでは毎日行われている。


「・・・2891号さん。・・・ごめんなさい。」


 こんなやり方は間違ってる、などと言えるはずもないキペはただ、謝るしかできなかった。

 2891号にこんなことはして欲しくなかったが、そう言える道理がどこにも見当らないのだ。彼女の言ったとおり何をしてもその「彼」が戻ることも、2891号の気持ちが癒えることもないだろう。

 何をしても埋められることのない穴の傍にはその穴より大きな憤怒がある。見える。悲しみや憎しみや失望やその他もっとたくさんの感情が今も積もり続けている。


 キペに、2891号を咎める資格などなかった。


「私も少し言い過ぎたわ。あなたに当たっても仕方ないものね。」


 名前を捨てる覚悟でここへ来た2891号に謝る言葉はあったが、伴う感情はもうなかった。新しい、別のヒトとして、2891号として生きると決意した彼女に。


「ご苦労だった2891号。もう戻って構わぬ。しかし傷は焼いて塞いでおけ。

 ・・・では次へ行くとするか、キペ。」


 はい、と言い残す2891号を置いてロウツとキペは隣の部屋へと移る。


「くく、ずいぶん昂ぶるものがあるようだなキペ。

 わたしの問いに今でも先ほどと同じ答えが紡げそうか?」


 はっとして気付くと固めた拳の甲に腕に、そしてこめかみに激しく走る血を感じた。

 顔に触れてみれば盛り上がった血管が目元まで繋がり脈打っている。

 汗止めも兼ねた額布越しですら不気味なほどボコボコとした感触があった。


「・・・はっきり言って、わかりません。・・・もう、自信がないんです。」


 その部屋の囚人は吊るされていなかった。

 仰向けに寝そべり、床を汗で湿らせているだけだ。


「それでよい。それでこそヒトなのだ。あの者に限らずここへ志願した監視員たちの話を聞いて心を動かさぬ者がどうしてヒトと呼ばれよう。


 頭だけで理念や理想を謳うのは容易い。

 しかし我らの生きるこの時代を、この現実を見定めずして正しき道など導けはせぬ。

 ・・・おお、あまりその囚人に寄るな。伝染はせぬというが汗や呼気には気をつけた方がよいそうだぞ。


 今その者は新たな薬を試している。無論、治すためのものだ。

 ただ、治すためには罹らねばならぬがな。」


 もはや「拷問」も言葉だけのものでしかない。そもそも何かを聞き出そうとして行われているのではなく「罰」の名の下に虐待を繰り返しているだけなのだから。


「・・・法を、厳しくするとか警邏隊を増やすとかでは、だめなんですか?」


 2891号の恋人を撲殺した男たちの話だ。

 厳しく取り締まり再発防止に努め、重罰を科すことで抑止力を高めてはどうかと尋ねているらしい。


「正確には、だめだった、というべきか。

 ・・・初めに見せた捻り棒の囚人がいたであろう? あれは民家を襲って金目の物を奪い住民を殺したためにああして囚われたのだ。


 だがな、あの囚人がそうなのだ。


 2891号の恋人を殺して社会に放たれた男たちの一人なのだよ。


 わたしが教皇の座について真っ先に行ったのが法の厳罰化だ。

 施行までに時間は掛かったが、丁度あの囚人が放たれてから施行された。


 想定通り世間は強硬なわたしの法改正にどよめき立った。是にしろ非にしろその方が民衆に広く知れるからこそ権力で押し通したものだ。当たり障りのない改正では見向きもされぬ。それでは抑止力としての効果はないからな。


 だが、それでも繰り返されたのだ。

 あの囚人だけでなくこのコロナィにいる全ての者が正義に楯突いた者たちだ。


 ・・・わたしも一つ昔話をするとしよう。

 そして現実をそなたに見つめてもらい、いま一度質問をしてみるとするか。」


 ぐったりと胸を上下させるだけの赤い囚人を見下ろしながら、ロウツは静かに語り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る