2話 世界の仕組み
バグ――何の変哲もない日常の中から、何の前触れもなく現れる異形の怪物だって、きっとお互いが干渉し合わなければ生まれないはず。
――……そう思っていた。
帰路について、眠りについて、警察官としての一歩を踏み出す前までは。
「バグは君達人間が生み出したものでね。
僕らが駆除してあげる必要もないんだけど……
ほら、勝てないでしょ?」
ようこそ新人警官の皆さん。と、式の後、成績優秀者だけが連れて行かれた場所に待っていたのは、ナイトウォーカー達のトップだった。
ガラス張りのビル、その一室。
今日のように天気の良い日であれば最高の景色が広がる、東京を一望出来る贅沢な空間に佇む黒髪の男。トーヤ達の兄だという彼もまた、赤い瞳を以ってこちらを見ていた。
夜の国、その長――センリ。
晴天の空を背にした男は、まるで切り取られたかのように、彼の立つ場所だけが闇であるかのように暗く陰っている。
逆光のせいだと言い聞かせようが、本能が否定する。
あれは――光を飲み込んでいるといっても過言ではなかった。
だというのに眼だけは異様な程赤く、どろりとした光を放つものだから、この場にいる誰もが呼吸すら忘れて立ち尽くし、彼の動きに合わせて揺れる長い髪が片方の目に掛かって――ようやく肺に酸素を取り込むことが出来た……否、許されたのだ。
「不便はない? うちのヒューゴと、ライリーが頑張ってくれている。
死者も減っていると思うんだけど」
一目で上等だと分かるジャケットとパンツ、インナーにカットソーを合わせたカジュアルなファッション。柔和な笑みに、それに見合った柔らかな低音。
彼の容姿は何ら普通の――強いて言えばやはり非常に整った容姿であることくらい――何の脅威も恐怖も感じない男性であるはずだ。
(怖い、怖い怖い怖い!)
しかさ、わたしはこの部屋に入った瞬間から、このヒトの形をした人外の存在に言葉に出来ない原始的な恐怖を搔き立てられ続けていた。
ああ、それはわたしだけではない!
けれど、先日まで人の手でなどと甘い幻想を抱いていた小娘の心は……とうにひしゃげて原型を失っているのだ。
「バグの原因は知っているかな。
グリモアっていう人間から見れば薬物、僕らの基準で言えば嗜好品みたいなものが引き起こしているんだ。人間には劇薬どころではなくてね。恐ろしいことに、君達が摂取すると身体を変貌させてしまう。
だから人間の領地に流出しないように厳重に管理していたんだけど――とある人間が持ち出した。
ああ、勿論裏ルートだよ。金になると思ったんだろう、可哀想に」
憐れむような言葉。
けれど一切の憐憫も、感情も乗っていないただの音が鼓膜を震わせ、本能を揺さぶる。きっとこの前観た映画の登場人物も同じ気持ちだったに違いない。
言葉の通じない怪物に対する生理的な嫌悪、安全な場所さえ容易く破壊される絶望、信じていた日常と希望が崩れ去る虚無感と喪失感。涙すら出ない。その一滴さえも命取りになる。否――もう死んでいるに等しいのだ、だって。
「バグの駆除は君達が持ちうる兵器では現状不可能。だから僕らが代行しているわけだ。勿論、無償ではない。
僕の愛しい同胞たちが命を掛けて君達を守っているんだ。対価くらい貰わないと割に合わないよね」
ねえ、警視総監。と、センリがリストを差し出した。
脂汗を滲ませたわたし達の長が震える手でそれを受け取る。
――
男女関係なく、ランダムに記載されたそこに確かに三人の名前を見た。
「今月の出荷分、少し多いけど宜しく」
畏まりました。反論もせず、警視総監は答える。か細い声で、頭を垂れたまま。
『
彼らはわたし達をいつでも殺せるのだ。多分、バグの件なんてなくても『この状況』を作り出せるし、事件が起こる前は別の名目で沢山の命が差し出されてきたのだろう。
「例えば、贄とか」
思考の続きを甘い声が絡めとって紡ぎ出す。
音もなく目の前にやって来たセンリが、微笑みながらわたしを見下ろしていた。
「
友達の名前を見ても、君はこれがどういうものであるか理解してしまったから諦めた。
僕達に必要なのは君のような賢い子だよ。
これから大変なことも沢山あるだろうけど、頑張っておいで」
肩に置かれた手は、生白くて、布越しだというのに泣き叫びたくなる程冷たかった。
――わたしが守りたかった世界は、最初から存在しなかったのだ。
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