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(菜々)
最初は、お父さんを知りたかっただけだったの。
私のお母さんは、私にまるで興味がなかった。
家に連れてくる『お父さん』も私の本当の父親でないことは、幼いながらによくわかっていた。
普段お母さんは全く料理を作らないのに、金曜日だけは必ずカレーを作ってくれた。
嬉しい反面、そのカレーがあまりにも美味しくなくて、無理やり食べていた覚えがある。
お母さんのカレーを食べた最後の日、あまりに苦くて口から泡みたいなものがたくさん出た時、薄れゆく意識の中で、お母さんが初めて心配をしてくれて嬉しくなった。
ただ、その日以来お母さんのカレーは食べられなくなった。
キッチンでカレーを作る。今日は金曜日だ。当直がない限りは自宅でカレーを作って食べるようにしている。
お母さんが作ってくれた味には、どうやってもならないが、私の方がカレーを作るのが上手いということにしておこう。
電話が鳴る。
「はい」
「あ、菜々ちゃん?二階の河本さんがいなくなっちゃったの。多分病院の外に出たんだと思う」
「は〜い。探して見つけたら、連れて帰りますね」
「よろ・・」
電話の相手が話し終える前に、電話を切った。
河本さんは、案外病院から離れていないところにいた。
「河本さん、こんばんは」
「あ〜?」
「多分、わかっていないね?帰ろうか」
そう言って私は河本さんの手を引く。
「痛い!痛い!」
私の手を河本さんが、振り払う。
「痛い!痛い!痛い!」
河本さんが、その場にしゃがみこんだ。
「もう〜。私、今日、ゆっくりカレーを作っていたんですよ?」
うずくまっている河本さんの横腹を蹴った。
「痛い!痛い!痛い!」
「ほ〜ら。帰りますよ?立ちましょう?」
河本さんは、なかなか立ち上がらない。
「帰ろうって言ってんだろうが!」
横腹を蹴るはずだった膝が、間違えて頭を直撃してしまった。
河本さんが倒れこむ。
「あ〜あ」
「おかえりなさい。河本さんが見つかってよかったわ」
夜勤の看護師さんが、夜間入り口から顔を出す。
「河本さん?どうしたの〜、血が出ているじゃない!」
「なんか、転んじゃっていたみたいで、痛そうですよね〜」
「すぐに手当てしますね」
「はい。よろしくお願いします〜」
私はそう言って、河本さんを看護師さんに引き渡す。
「遅くにすみませんでした」
看護師さんが、こちらに頭を下げる。
「いいんです、いいんです。気にしないでください。お疲れ様です」
そう言って、帰ろうとしたが一つ言い忘れたことを思い出した。
「あ、言い忘れたんですけど・・・」
私は振り返る。
「え?あっはい?」
「ちゃんと見張っておいてくださいね。この病院は認知症や、記憶障害の方が多いので」
私は満面の笑顔で、看護師さんを注意した。
未由が連れてきた結婚相手は、私の知っている写真の中のお父さんと瓜二つだった。
喫茶店の目の前に座る男の人の顔をまじまじと見た。
「やっぱり、お父さんに似ている・・・」
お父さんは、もうとっくに亡くなっているし、ましてや年齢を重ねているので、もっとずっと年上だ。
目の前の男の人は、少し苦笑いしながら私を見る。
その瞳はどこかで見たことがある気がした。
「大原光と言います」
目の前の男の人は、そう名乗った。
「先日はご挨拶に行かせていただきました」
大原さんはそう言って、私にペコッと頭を下げた。律儀な人だ。
「・・・それで、私に何か用事ですか?」
未由の旦那が私になんの用事があるのだろう。恐る恐る聞いて見た。
話を進めるうちに、未由にサプライズでプレゼントがしたいということを聞いた。
「それで、未由にサプライズを仕掛けようと思っているんだけど、協力してもらえないかな?」
大原さんは優しく微笑んだ。
「私でよければ協力できますけど、一体どんなサプライズをするんですか?」
この時私は『協力する』と言うことがどんな恐ろしいことなのか、何も知らなかったのだ。
最初に違和感を感じたのは、未由のことを何でも聞いてくることだった。結婚相手なのに、本人に聞くことができるのに。
大原さんは、特に未由の学生時代の話をよく聞きたがった。
何度も連絡を取り合う度に、違和感よりも親近感が上回るようになった頃、金丸のおじいちゃんが亡くなった。
大原さんはいつの間にか私のことを『菜々』と呼ぶようになっていた。落ち込む私に
「菜々の大切な人だったんだね、わかるよ」
と言われた時にはもう、自分が大原さんのことが好きなのだと気が付いていた。未由の旦那さんなのにという感情よりも「なぜ未由と結婚したのだろう」と考えるようになっている。
私の方が、未由より大原さんを幸せにできるのにと。
だから、誰よりも大原さんの役に立ちたくて、協力をしたつもりだった。
未由が戻ってきている間は、行動を逐一連絡したし、お母さんたちの卒業アルバムだって抜き取って隠しておいた。
「私、もう昔みたいに過去を引きずらないことにしたの」
と、未由に言ったことを今、とても後悔している。
私の方が過去を引きずっていたのだ。
卒業アルバムを破かれて、そのことを、大原さんに問い詰めた。
だから、今ここに横たわっているのだろう。そして、目の前にいる大原さんは、多分壮ちゃんだ。
今は『生きていた』という感情よりも『どうしてこんなことを』の感情が湧き上がっている。あるはずのものがない部分が酷く熱い。痛みを通り越している。
「菜々、まだ意識あるんだ。すごいね」
声の主は、優しく残酷に言ってみせた。
「・・・貴方、やっぱり・・・壮ちゃんなのね?」
声がかすれ、目が霞む。
「最後だし、教えてあげてもいいか・・・そうだよ」
「・・・」
「菜々。君のしていることはもしかしたら証拠が足りなくて、証言できる人が少なくて、法では裁けないのかもしれないけれど、その代わりに」
「・・・」
「僕が裁いてあげるね」
「・・・」
「ってもう聞こえていないか」
人はね、聴覚が最後まで残るのよ。
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