5隻目
思わず口から舌打ちが漏れそうになった。というか、目の前にいた大原未由、聞かれてしまっているので、もう、舌打ちを刑事にされたと思われているだろう。
警察に舌打ちをされたとネットに書かれでもしたら、このご時世、すぐ燃え上がるのだ。そしてすぐ忘れ去られていくのだ。
舌打ちをしたことを言い訳できないくらい、急いでいる。
学生時代走ってはならないと教えられた廊下を走り、階段を下りた。
教室の一室に入る。
「尾畑さん、どうしたんですか?そんなに急いで」
部下が慌てて、飲んでいたコーヒーをこぼす。前から思っていたが、少しそそっかしいところがある。驚かせてしまった俺にも責任はあるのだが・・・
「もう、体育館に避難していた人たちは、家に帰したか?」
「あ、はい。全員自宅へ帰ったことを確認しています」
何も知らない部下が、ケロッとした顔で言う。やはり遅かったか。
「一体、どうしたんですか?何かありました?」
「大ありだ。怪しい白衣の男の目撃証言が出た」
ここへ来る途中立ち寄った飲食店の店主が、白衣の男を目撃したと言っていた。こう、色々な場所で何回も目撃されているのならば、流石に幽霊というわけではないだろう。
「体育館に避難していた人で、他に白衣を着た人間を見た人はいないか、確認をとってくれ」
「え、今からですか?しかも、全員自宅に帰っちゃってるじゃないですか」
部下が文句を言い始める。
聞き取る対象者が体育館にいる分には、聞き取り業務は早く済む。しかし、全員が自宅に帰っているとなると、聞き取るこちら側の人数と時間を要することになる。だから、舌打ちをしかけたのだ。・・・いや、舌打ちをしてしまったのだ。
目撃証言が出ているならば、調べないわけにはいかない。
「でもそれ、もしかしたら尾畑拓が言ったように、幽霊かもしれませんよ」
部下が手帳を確認しながら聞いてくる。
幽霊にだとしたら、わざわざそれを追いかける人間がいたりするだろうか。それが俺の中ではずっと引っかかっていた。
「幽霊の仕業です、で済むなら俺たちや法律は端からいらないんだよ。仕事しろ、仕事」
部下がやる気のない返事をして、教室から出ていく。
そして、一つ気になることがある。俺の知る限り、尾畑誠は死んでいる。
またあの店へ行って、店主に話を聞かなければならない。
白衣を着ていたのは、本当に尾畑誠だったのかどうか。
車を走らせ、元来た山道を戻って行く。
右手に開けた砂利が見えた。あの店だ。
車を降りると、自分の後先考えずに動いてしまう性分を呪った。
店の入り口にある『定休日』の文字が、イライラを加速させる。
なんとついていない日なんだ。こうなったら、煙草を吸い、缶コーヒーを買ってやる、と自販機の前に立つ。
自販機は年季が入っていて、売られている飲み物も、今売っている種類なのかわからない。初めて見るようなものもある。大丈夫か、この自販機。
ブラックコーヒーを飲みたいが、どうやら売り切れのようだ。やはりついていない。思わず自販機を蹴りそうになる。
グッと蹴りそうになるのを堪えたのは、久しぶりに美代子の顔を見たからだ。あいつ、歳食っていたな。美代子が年を重ねるのと同じように、自分だって年を重ねた。
出ないことをわかっていながらも、留守電によく他愛もない話を入れてくれていた。
結局美代子は、あの父を見捨てられなかったのか?はたまた、父が離れて暮らすことを許さなかったのかはわからない。たぶん、俺が家を出た後も、この町に残り続けていたのだろう。
結局、クソ甘そうなカフェオレのボタンを押して、ポケットから煙草を取り出し吸う。
過去をいくら振り返っても、他人に誇れるような父ではなかった。でも、周りの人間はどんどん寄ってくる。どんどん噂が膨張し始める。その『父』というものに耐え切れず家を出たのが俺だ。出来損ないなのだ、俺は。この町では何もできない。
煙草を吸い終え、カフェオレを飲む。やはり、クソ甘い。そして、味が薄いような気がするのは気のせいか?缶をよく見ると、『よく振ってからお飲みください』と書いてある。
口から大きなため息が出る。足元の砂利を蹴り上げる。
『だからお前はダメなんだよ』
どこかから、そんな声が聞こえた気がした。もうこの世にはいないはずなのに、呪縛のように、その声が耳にまとわりつく。
尾畑誠はもう死んだのだ。もうこの世にはいないのだ。
父よりも兄の呪縛が、どうやっても離れてはくれないようだった。
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