8羽目

(未由)

 母がキッチンでカレーを作っている。いい匂いだ。

 ただ、そのカレーは苦いの。

 なぜか子供の私には苦いの。


「大原さん、大原未由さん?」

 目の前で顔を覗き込んでいる女性刑事に名前を呼ばれ、我に返る。

「大丈夫ですか?気分でも悪いですか?」

 女性刑事は心配そうな顔をしている。

 昔のことを思い出していただけなのに、心配してわざわざ立ち上がってくれていた。なんだか申し訳ない。

「大丈夫です。考え事をしていて・・・。体調は悪くないですよ」

 女性刑事を見て言った。

「それならよかったです」

と、再び私の目の前の椅子へと腰かける。

「では、先ほどの質問の続きから。腕を発見した際、近くに誰かが倒れていたなどの確認はしましたか?」

「いえ、周りの確認はしていません。腕の発見状況と、腕の状態の確認でいっぱいいっぱいでした」

「普通、そこまでは確認しません。何故、すぐに警察を呼ばなかったのですか?」

「警察を呼んでも、山火事の対応が最優先され、すぐに来てくれるのかわからないと判断しました。腕の状態がまだよかったので、もし持ち主がいた場合、時間によっては、縫合できるかもしれないという可能性を取り、腕を持ってこの避難所へ来ました」

思いのほか、頭は冷静なようで口からスラスラと言葉が出てくる。

「・・・ご職業は研究職なはずですよね?」

女性刑事が、言葉につまりかけたのがわかった。

「研究職に就いていますが、元は医者ですし、免許も持っています」

冷静に淡々と答えれば、余計なことは聞いてはくることはなさそうだった。このまま、切り抜けたいところだ。 

「では、次の質問です。昨夜、行方がわからなくなっている尾畑冬吾さんを、最後に見たのは何時頃でしたか?」

常に時間を確認しながら行動していたではないので、こればかりはわからなかった。

「時間はわかりません。ただ、体育館の電気が消灯になっていなかったので、九時前だったと思います」

 最初に風鈴のおばあちゃんのところに行ったとき、体育館はまだ消灯時間ではなかった。その後、冬吾を探しに体育館へ向かったときは、消灯されていた。だから、風鈴のおばあちゃんは、手元にランプをつけて本を読んでいた。

「わかりました。これは、全員に聞いていますが、誰か怪しい人物を見かけたりしましたか?」

女性刑事が前置きをして、話をしてきた。怪しい人物・・・

「私は見ていませんが、風鈴のおばあちゃんに話を聞いたときに、白衣を着た人物を見たと言っていました。冬吾も見て、その人を追いかけて体育館から出て行ったと」

 それが幽霊かもしれないということは言わないでおいた。話があらぬ方向へこじれられても困るからだ。

 女性刑事が手帳に一生懸命メモをとっている。近頃の刑事ドラマはタブレットを使ったりするのに、まだこの周辺の警察に導入されていないのはここが田舎なのだと思い知らされる。

「最後にもう一つだけ、尾畑拓さんとはずっと行動を共にしていましたか?」

「はい・・・あっいえ。美代子さんを探しているとき、拓と冬吾が男性トイレ内を探すことになったので、その時は別行動でした」


 取り調べと事情を聞くということの違いを、初めて体感したかもしれなかった。今のところ、事情は聞かれても、取り調べをされたことはなかった。このまま、取り調べをされることのない人生を送りたいものだ。

 同じく事情を聞かれていた拓と、合流して体育館にいる。

 山火事は依然おさまってはいないものの、燃え広がらないと判断された地域の住人はもう自宅へ帰っている。

 昨夜より人数の減った体育館に、風鈴のおばあちゃんはまだいた。静かに本を読んでいる。

「本当なの?認知症って」

 おばあちゃんに聞こえないように、小声で拓に聞く。

「どうやら本当らしい。交番の尾畑さんは知らなかったらしいぞ。俺は未だに信じられないけど」

 拓がそう言って、おばあちゃんの方を見る。

 確かに信じ難い。昨日はあんなに普通に受け答えをしていた人間が、認知症だなんて。

 いくら医者でも専門の知識がなければ、認知症の判断は難しい。

 精神科や脳神経内科外科、それから老年科が専門だろう。

 残念ながら、私たち四人の中でその分野に詳しかったのは菜々だ。

「ヘルパーの尾畑さんの話だと、ここ最近は、まともに話せているときの方が珍しいんだと。普段はああやって、毎日同じ本を読んでいる」

 拓が大きなため息をついた。

 こればかりは自分たちで確かめなければ、わかるものもわからないと思った。

 私は風鈴のおばあちゃんへ近づく。「おい、未由!」と、小さく言った拓を無視した。

 おばあちゃんの目の前にしゃがむ。

「風鈴のおばあちゃん、こんにちは」

 おばあちゃんへ話しかける。おばあちゃんは本に夢中だ。

「おばあちゃん、こんにちは」

 懲りずにもう一度話しかけた。

 おばあちゃんはゆっくり顔をあげる。

「あら、こんにちは。どうかしたのかい?」

 おばあちゃんは、眼鏡をずらし私の顔を確認した。昨日の今日だが、認知症ならば、覚えていないだろう。

「あなた、どこかでお会いしたことがあるかしら。えらい別嬪さんね。素敵よ」

 おばあちゃんの目がゆっくりと細まる。どうやら、私のことは覚えていないらしい。

「ありがとうございます。嬉しい。おばあちゃんも若い頃は、かなりの別嬪さんだったんじゃない?」

「あらわかる?これでもかなりモテた方なのよ」

 おばあちゃんが少し照れた。昨日のおばあちゃんとはやはり不思議なくらい雰囲気が違う。

「へえ~羨ましい。ところでおばあちゃん、何の本を読んでいるの?」

 おばあちゃんが先ほどまで熱心に読んでいた本を見た。

 この背表紙はどこかで見覚えがあった。

「ああ、これね。ヘンゼルとグレーテルよ」

 おばあちゃんは、何回も読んで色あせた背表紙を見せてくる。

「ああ、懐かしい。私もよく読んだなあ」

 金丸のおじいちゃんの家には、本がたくさんあってその中に同じ本があった気がした。きっと美代子さんの本なのだろう。冬吾が縁側で見せてくれた絵本もこれと同じものだった。

「おばあちゃん、この本の好きなところはどこ?」

 認知症を患いながらも、この本を毎日読んでいるということは、何か思い入れがあるのかもしれない。

「グレーテルが、魔女を窯の中に閉じ込めて焼いちゃうところ」


 

 暖炉がある部屋で誰かが、ロッキングチェアに座っている。誰?

 座っている人物がゆっくりと振り返る。



「おい、未由」

 拓の手が肩に置かれ、我に返る。

「大丈夫か?顔色が悪い気がする」

「大丈夫。フリーズしてたわ」

「そりゃ、あんなこと言われたらな・・・」

 どうやら、拓にも先ほどの風鈴のおばあちゃんが言ったことは、聞こえたらしかった。

「あんなこというなんて思ってなかったけど、やっぱり風鈴のおばあちゃんは認知症なのかもしれない」

 ちゃんとした診断は菜々にしてもらいたかった、という本音が喉に引っかかった。

 風鈴のおばあちゃんのところに来たら、確認したいことがもう一つある。

 立ち上がり、体育館の出入り口を見る。

 何人か警察官が立っているのが見える。やはり、この距離から人の顔を識別するのは、よほど視力が良くない限り無理だ。

 風鈴のおばあちゃんは、本当に尾畑誠の幽霊を見たのだろうか。もしかしたら、尾畑誠になりすました、連れ去りの犯人なのかもしれない。

「なあ、未由」

「ん?どうしたの?」

 拓の元気がなさそうだ。どうしたのだろう。

「俺、もしかしたら疑われているかもしれない」

「どうしてそんなことになってるの?」

「俺にもわからないんだ。けど今、体育館の出入り口付近にいる刑事が、俺を見張っていることぐらいはわかる」

「どれ?」

 どの人のことを言っているのかわからなかったので、出入り口にいる警察官を見る。

「おい、あんまり凝視するなって。余計怪しくなるし、未由も共犯かと思われるかもしれない」

 拓は警察に事情を聞かれたときに、何と答えたのだろう。そう思うくらい、警察におびえているように見える。昔からこういう時に限って、拓はビビりなのだ。

「なんか、嘘とかついたの?」

「いや・・・」

「じゃあ、大丈夫でしょ。堂々としてなよ」

 そう言って拓の背中を叩く。

「まったく、他人事だと思って」

 拓が私を睨む。

 体育館の出入り口から、誰かがこちらに向かって走ってくる。

 若い女性のようだ。

「あれ、たぶん風鈴のおばあちゃんのヘルパーさん。尾畑さん」

 拓が教えてくれた。

 ヘルパーの尾畑さんが、息を切らしながら走ってくる。

「どうしたんですか?」

 拓が心配そうに聞く。何かあったのだろうか。

「あの、お二人はこの町の出身なんですよね?」

「・・・ええ」

 質問の意図がわからず、中身ない返事をしてしまった。拓も頷いただけだ。

「さっき、警察の方から二人ともお医者さまだと聞いて・・・。菜々さんをご存じないですか?」

 思わぬ人物の名前が出た。拓と顔を見合わせる。

「知っているも何も、幼馴染ですよ」

「ええ?じゃあ、もし連絡が取れたら教えてください。山火事の後からずっと連絡が取れなくて・・・」

 ヘルパーの尾畑さんは、きっとまだ何の話も聞いていないのだろう。

 捜査中のことを警察が詳しく話すとも思えない。何故か胸が痛んだ。

 知らなければ幸せなのか、知っている方が幸せなのか。もはや、これは人間の人生の最大のテーマなのではないか。

「連絡が取れたら、真っ先に教えますね」

 拓が何かを言いかけたが、グッと堪えたようだ。もしかしたら、後で怒られるのかもしれない。

「はい!ありがとうございます。助かります」

 ヘルパーの尾畑さんは、何度も頭を下げる。

「一つ聞いてもいいですか?」

「・・・はい、何でしょう?」

「風鈴のおばあちゃんの主治医はもしかして・・・菜々?」

「はい、そうです」

 ヘルパーの尾畑さんが大きく頷いた。

 菜々が主治医ならば、風鈴のおばあちゃんの認知症は間違いない。


 その日のお昼過ぎ、無事に山火事が消し止められた。

 どうやら、金丸のおじいちゃんの家の辺りまでは焼けなかったらしい。

 続々と、自分の自宅へと戻って行く人達を見送りながら、少し寂しく感じてしまうのは、送り出す側になったことが、なかったからかもしれない。

 まだ美代子さんは目覚めない。警察には、大量に睡眠薬を飲まされていたようだと言われたが、どんな種類のどんな睡眠薬かは聞かせられていない。

 拓も言っていたが、もしかしたら、何かしらの形で疑われているのかもしれない。

「あ、いたいた」

 校舎の廊下を歩いていると、美代子さんを一緒に探してくれた近所のおばちゃん達が手を振りながら、こちらへ向かってくる。

「やっと帰れるわね。今回の山火事はあんまり燃え広がらなくてよかったわ。美代子さんも無事見つかったらしいじゃない?」

「はい、不幸中の幸いです。一緒に探してくれて、ありがとうございました」

 近所のおばちゃん達に頭を下げた。ほぼ連行されたようなものだったが、一緒に美代子さんを探してくれたことに感謝している。

「・・・ねえ?噂で聞いたんだけど、今度は冬吾君だっけ?がいなくなっちゃったらしいじゃない?」

「はい」

「菜々ちゃんも姿が見えないって言うし、何かあったの?」

 近所のおばちゃん達は、みんな心配そうな顔をしているが、実際のところ噂が本当なのか、探っているようにしか見えない。結局、自分のことではないことは、他人にとって結局どうでもいいことかもしれない。

 話の『ネタ』にしかならないのだ。

「すみません、私にもあまり詳しいことはわからないんです。警察の人が教えてくれなくて・・・」

 普段はそう簡単にやったりはしないが、外面というものを出して答えた。

「・・・そう。何かわかったら教えてね。協力できることがあったら協力するから」

 建前だとはわかっていても、

「はい」

と、返事をした。

 本当であれば風鈴のおばあちゃんに聞きたかったことがあるのだが、認知症だとわかった今、聞くことができない。噂好きなこの近所のおばちゃん達なら、教えてくるだろうか。

「あの、聞きたいことがあって・・・」

「あら、なに~?私たちでわかることがあれば、何でも教えてあげるわよ」

 近所のおばちゃん達が、皆頷く。これは、期待できそうだ。

「あの、風鈴のおばあちゃんから名前だけ聞いたんですが、尾畑誠は何者ですか?」


 校舎二階のベランダに立ちながら、風を浴びている。

「こんにちは、大原未由さんですか?」

 後ろから声が聞こえた。ゆっくりと後ろを振り返る。

 五〇代くらいだろうか、刑事らしき男性が立っている。この人が拓の言っていた『刑事の尾畑さん』かもしれない。

「はい、そうです」

 できるだけ動揺を悟られないように、ゆっくり答える。

「初めまして、尾畑と言います。刑事をしています」

 軽く頭を下げて、上着のポケットから警察である証を見せてくる。

 風が吹いているからか、一瞬、煙草の匂いがした。

「・・・美代子の兄です」

 刑事の尾畑さんは、ゆっくりと目線を合わせてくる。もしかしたら、探られているのかもしれない。

「えっ、そうなんですか?知りませんでした」

 少し大げさにリアクションをとって見せる。もうすでに拓から、美代子さんの兄であることは聞いていた。

「尾畑拓さんから、聞いてなかったんですね。体育館で話されていたので、てっきり、話は聞いていたのかと・・・」

 刑事というものは、全員がこういう人たちなのだろうか。顔は笑っているが、目は笑っていない。拓が疑われていると言ったのは、あながち間違いではないかもしれない。

「いえ。体育館で風鈴のおばあちゃんが読んでいる本の話をしたのと、冬吾が見かけたらしい、白衣の男について話していたんですよ」

 私の周りを深く調べられても困るので、風鈴のおばあちゃんが言っていた幽霊の話をした。もしかしたら、菜々や美代子さん、冬吾を攫った犯人かもしれない。警察に調べてもらえるなら本望だ。

「・・・白衣の男」

 刑事の尾畑さんの顔が曇るのがわかった。何か心辺りでもあるのだろうか。

「風鈴のおばあちゃんが言うには、尾畑誠さんだと言っていました。認知症だから、もしかしたら、妄想かもしれないんですけど・・・」

 刑事の尾畑さんの表情が、更に曇る。

「まあ、白衣を着ていたということは、もしかしたら私たちの他にも医者がいたのかもしれないですね」

 医者である以上、避難していた人でケガをしていた人はいないか、一応確認をとって歩いたが、誰もいなかった。

他に医者は見あたらなかったが、もしかしたら、町以外の病院から様子を見にきた医者だったという可能性も捨てきれないのだ。

「・・・それは確認済みです。他に医者はいませんでしたし、来てもいませんでした」

 尾畑さんが私の心の中を読んだのではないか、というような返事をする。

 やはり、刑事というものは侮れない。一歩間違えれば、自分の足元を根こそぎ攫われてしまうかもしれない。

「他に見た人はいなかったんですか?その白衣の男を」

「さあ?私も風鈴のおばあちゃんが見たと言っていただけなので・・・」

 私が首を傾げると、刑事の尾畑さんがチッと、軽く舌打ちしたように聞こえた。

「え?」

「あ、いえ。すみません。少し急ぎの仕事を思い出したので、これで失礼します」

 どうやら、私は舌打ちをされたらしかった。やはり『噂』は本当のようだった。刑事の尾畑さんはどこかへ行ってしまった。先ほど、近所のおばちゃん達に聞いた話が正しければ、刑事の尾畑さんは調べてくれるだろう。白衣の男が幽霊かどうかを。

 そのまま、ベランダで再び風を浴びる。

「三人兄弟だったなんて、聞いてないよ、美代子さん」

 そっと、ポケットに忍ばせていた小さな鍵を握りしめた。

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