第11話 シャウユイの森:二





 鈴音はふと目覚めた。

 何か物音がしたわけでもなく、もよおしてしまったからであった。

 夏雲シアユンは、どうやらあれからずっと自分に腕枕をしてくれたままだったらしい。


「……どうした?」


 もぞもぞ動いていると、薄目を開けた夏雲に声を掛けられた。


「トイレに行ってくる」

「……ああ、廁所ししよに行くなら付いて行く」

「そっ、それは一人で大丈夫だから夏雲は寝ててね?」


 この世界では廁所ししよ、鈴音の世界で言う所のトイレは勿論スゥトゥにも存在した。それはよく知るトイレの形状に非常に似ていて水洗式であり、きちんと個室にもなっているもので、初めて案内された時は大変に安心したものだ。

 鈴音には廁所ししよという名が馴染みが無さ過ぎて、スゥトゥでは「トイレ」と自然と言うようになっていた。

 今日の移動中にもその単語が出てしまったので、夏雲には説明しておいたのだ。中途半端な覚醒ながら、ちゃんと覚えてくれていたらしい。そこまでは良い。話が早く助かった。

 でもその後がとんでもないと思う。


廁所ししよに行くという事は拠点を離れるだろう。たとえ短距離でほんの数分とはいえ独りは危険だ」

「絶対ダメだったら! ササッと、ササッと済ましてくるから!」


 野外でするだけでも多少の羞恥心はあるというのに、婚約者に事を側で待たれるなんて耐えられそうにない。

 未だかつてない形相で言い含める事に成功した鈴音は天幕を飛び出した。

 外はもうそろそろ夜明けが近付いている。独特の澄んだ空気が漂い、朝露に濡れる森の木々が静かに煌いていた。時折聞こえる鳥の声も、何とも清々しい。


 とまぁ、内心は全くそれどころでは無いのだが――。


「リンイン? 一体どうした――」

「トイレ!」


 出てきた鈴音を、焚火の始末をしていたユェは不思議そうに見やる。その横をスタスタと足早に通り過ぎ、鈴音は茂みの中へ分け入った。

 

「ごめんね、玥」


玥に呼び止められたら、ほぼ間違いなく付いて来られてしまう。以前あった事件の再来を何とか回避した鈴音だった。


「夏雲も玥も、デリカシーが無いんだから」


 拠点から約二十歩。自分の背丈以上ある雑草の中、事を終えた鈴音は大袈裟でなく安堵の息をついた。

 草葉の陰からは拠点のテントの天辺部分が見える。

 来た道を戻ろうと、鈴音は踵を返した。

 

「何? 声みたいなのが聞こえたような……」


 背後から、自分の動作以外の音がした。

 鈴音の顔が強張る。もしかして灰獣かし、それとも夏雲が言っていた「はみ出し者」なのか。鈴音は音を出さぬよう慎重に身を屈めた。

 耳を澄ます。すると聞こえたのは、近くを流れる川の音と動物の鳴き声だった。

 声に誘われる様に、鈴音はそちらに足を向ける。


 少し歩くと太い幹を持つ広葉樹が立ち並ぶエリアに出た。赤茶けた土に交じり大量の落葉が地面を覆っており、歩を進める度に沈む込む感覚は、まるで砂浜の上を歩いている様だった。

 不思議だった。数歩でこれほどまでに風景が様変わりするとは思わず、鈴音は改めて異世界への畏怖の念を抱いた。


「ワンちゃんだわ! どうしたの? 苦しいの?」


 声の主は木の向こう側にいた。

 一匹の黒犬が横たわり、苦しそうにしている。たくましい大型犬だ。頭部は少し丸みを帯びていて、犬の割に尻尾が少し長く見えたが、パッと見て鈴音は犬と判断した。

 舌を出し、時折体を震わせている黒犬は余程暴れたのか、土と落ち葉まみれだ。

 サッとそれらを払いのけると、黒犬を苦しめている原因が露わになった。

 なんと黒犬の前足がギザギザしたものに挟まれている。


「もしかして、これって何かの術式なのかしら……」


 黒犬を捕らえていたのは、恐らく霊具だ。その証拠に鎖は半透明をしていて、何処かに打ち付けられているわけでもなく地面の中から伸びている。


「どうしよう。術が掛けられているなら下手に触れるのもまずいのかしら。でもでも、痛いよね? かわいそうに……」

 

 一刻も早く助け出してあげたい。


「そうだわ!」


 鈴音はポンと手を打つと胸元に忍ばせていた黄金の短剣を取り出した。

 細やかな彫りはいつ見ても美しい。

 埋め込まれた紅玉は鈴音の手に在ることを喜ぶかの様にキラリと朝日を反射した。

 

「これで罠をこじ開けてあげるからね」


 宝剣の儀で夏雲シアユンが賜った聖なる宝剣。その一対を鈴音は贈られた。「持ち主を守護してくれるという宝剣なのだから、きっと役にも立ってくれる筈よ!」と鈴音は思い切って鞘を抜いた。


 シャアアァァァンッ


 すると一瞬、宝剣自体が淡く輝いたのだ。

 しかし臆する事無かれ。鈴音は慎重に短剣を罠の隙間に差し込むと、全体重をかけて直角に柄頭を押し込んだ。


 パキンッ

 乾いた音を立て、黒犬を拘束していた罠が消滅する。


「す、すごい! 一瞬で?」


 やはり宝剣は普通の武器ではない事が証明された。神官の加護によって特異な霊具に成っているのだ。その効力を目の当たりにし、宝剣を持つ鈴音の手は震えた。

 鈴音は霊力を有する術師でも無ければ、身体能力に秀でているわけでも無い。ただの非力な凡人だ。そんな自分が、術で創られた鎖をいとも簡単に打ち破った。


 もしこの宝剣をそれなりに腕の立つ者が扱ったとしたら、とんでもない脅威なのでは無いだろうか。


「あっ! 目が覚めたの?」


 気付いた黒犬が金色の瞳でじっと鈴音を見つめていた。

 きっと術が解けたからだ。

 嬉しくなった鈴音は黒犬の頭を撫でた。


「さっ、テントに戻って手当をしましょうね。もう大丈夫だからね」


 鈴音は短剣を慎重に仕舞うと、黒犬に微笑みかけた。

 そこまでは覚えている。


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