第9話 外の世界へ




 


 まだ夜が明けきらぬ前に鈴音はスゥトゥを出る事となった。

 神殿前に佇んでいた麗孝リキョウは、両手を広げて二人を迎える。彼の麗しい顔の真ん中には手当の後があり、中々に痛々しい。

 鈴音はその原因ともなる人物を見やったが、夏雲シアユンはどこ吹く風といった満面の笑顔を浮かべていた。

 すると目の前の麗孝の表情に変化があった。

 主が一世一代のプロポーズに臨む事を、きっと麗孝は知らされていたのだろう。


 夏雲からの告白に、鈴音は「はい」と答えた。

 真っすぐな彼の気持ちが純粋に嬉しかった。一握りの迷いは、元の世界での凝り固まった常識だけの話だ。 


「おかえりなさいませ夏雲様、リンイン様。あっ、ご心配なく。この麗孝、無粋な事を聞くなど致しません。では早速とスゥトゥから出発で宜しいですね?」

「ああ、部下の指揮は任せるぞ」

「都までの道のり、くれぐれもお気を付け下さい」


麗孝はスゥトゥの外にいた兵士達と連れ立ち、颯爽と去って行った。馬に跨る数十人の兵士達を夏雲と共に見送る。

 地を踏み鳴らす蹄から立ち上る砂煙と彼らの背が小さくなり、やがて視界から消えた。


 これから夏雲と二人きりで都に戻るのだ。

 鳥人族のしきたりで、夫婦の結びつきを確かめ合う為に行うものらしい。

 こうした数日間の旅路は婚儀の前後どちらでも良いらしい。一応訊ねられはしたものの、鈴音は夏雲の判断に任せる事にした。

 

「夏雲」

「ん? 心配か」


 夏雲の服の裾を摘まんでしまっていた。

 これからの事だけではなかった。こうしてスゥトゥの門が開かれる、それは鈴音にとっては無意識に、あの記憶を呼び起こすものなのだ。

 灰獣かしが現れ、夏雲の身に起こった未遂事件。デジャブは鈴音の背筋を震えさせる。緊張感から鈴音は身体を固くし、それが夏雲に伝わってしまったのだろう。

 彼は鈴音に向き直ると、その肩に優しく手を添えた。


「案ずる必要は無い。当時俺を狙った賊に関しては解決している。このスゥトゥもさらに防御に重きを置いたと碌影から聞いたぞ」

「その通りにございます」

碌影ろくえい様! あの、私――」


 振り返ると碌影が獣神子と共に立っていた。碌影はすでに話を受けていたのだろう。動揺する鈴音を見据え、大きく頷いて見せる。


 「これもまたお前の運命。番となる道に幸多き事を祈ろう。見上げる星々とお前はいつでも繋がれるのだ」


 碌影の後ろに横一列に控えていた獣神子が一斉に礼の形を取る。

 その中から一人歩み出た者を見とめた瞬間、鈴音は思わず嗚咽を漏らした。

 兎の獣神子、ユェだ。


「リンイン。碌影様から、これを預かった。持って、行くと良いと」

「玥……」


 皆との別れが近付いている。わけも判らず異世界に落ちた自分。そんな不穏な存在を碌影は受け入れてくれた。

 共に過ごす中で生まれた情愛は鈴音の中では確かだ。今胸中に広がる喪失感は、彼らとの未来を疑いもしていなかった事を示している。

 こんなにも突然に別れがくるなんて思いもしない。もっと、ずっと共にいるのだと思っていた。


「玥、ありがと。さみしい。これ、何?」

「リンインに、必要な物と聞いた。あとこれは、御守りだ」


 若干情緒のおかしい鈴音を見かねて、玥はその風呂敷包みを鈴音にしっかりとたすき掛けしてくれた。そして首に何かを付けられる。

 皮紐のネックレスはとても軽く、トップには指先で摘まめる大きさの白石が付いていた。


「可愛い。綺麗。ありがど、ありがとう玥」

「碌影様は正しい。リンインとわたし達は、これからも、ずっと繋がっている」

「うんっ……うん!」


 玥の紅の瞳の中に自分の泣き顔が映っている。


 これはスゥトゥで培われた直感だ。研ぎ澄まされた洞察力なのだ。

 鈴音の涙腺はさらに崩壊した。


 自我を持っている獣神子とはいえ、玥はほとんど感情を表に出さない。

 現に今も抑揚の無い話し方は変わらなかった。でも僅かな表情の変化が自分には判る。それが何だか誇らしかった。

 鈴音は泣きながら笑う。

 きっときっと、玥もこの別れに何かしらの感情を抱いてくれている。


「なんだ。そんなにその獣神子と別れ難いのか? なら連れて行けばいい」

「へっ」

「いいな? 碌影」


 夏雲はスタスタ歩き、頷いた碌影に何か包みを渡していた。


「鈴音の輿入れに旧功な小姓が付いてくる。何ら問題はない」


 目を瞬かせる鈴音は夏雲と碌影を交互に見やった。

 夢にも思わない。玥は神殿勤めの獣神子だからだ。たとえ対価を払ったとしても、こうも容易く連れ出せるなど鈴音の中の常識では考えられなかった。

 それほどに夏雲の一族は大きな力を持っているのだろうか。


「今日これよりお前の主は夏雲様となる。判ったな、玥」

「承知致しました」


 もうそろそろと夜明けだ。

 太陽が顔を出し、鈴音達を照らす。その眩しい光はスゥトゥに幾つも点在する高く白い建物を、より輝かせた。

 間もなく空もその表情を変え、あっという間に青空が広がるのだろう。


「では、そろそろ行くぞ」


 馬上の夏雲シアユンに手を取られ、鈴音はゆっくりと馬に跨った。

 背中に手綱を持つ夏雲の息遣いを感じる。

 鞍の上に定位置を決める為にしっかりと腰を落ち着けていると、夏雲がベルトで二人の腰と腰を留めてくれた。


「碌影。世話になった。次の儀式の時にまた会おう」

「御意に」

「振り落とされるなよ? ヤッ!」


 黒馬が駆ける。途端に身体中を振動が包み込んだ。頬を吹き抜ける風はそれほどでもなく思えるので、随分と夏雲は加減してくれているだろう。


 暫くすると、旅装に身を包んだユェがななめ後ろに付いた。背には細長い槍、腰にはスゥトゥの紋の入った小さな革袋が下げられている。

 玥は鈴音と似た体型で、風貌もどちらかと言うと女性に近い。そのような細腕で大きな馬を操る姿は実に逞しく、心強く思えた。





 スゥトゥの門の外に広がっていたのは深い森だ。

 奥に入るにつれ太陽の光は葉に遮られ、薄闇が多くなる。

 すれ違う木々、チラチラと睫毛を撫でる木漏れ日がこそばゆい。

 朝の森特有のひんやりとした空気は、鈴音の胸の高鳴りをゆっくりと静めさせてくれた。


「鈴音、問題無いか?」

「うん。でも、どうして?」

「スゥトゥから十年ぶりに外へ出たんだ。何か不調が感じられた時はすぐに言ってくれ」


 心の中を覗かれたと鈴音は驚いた。門を出る時に、僅かだが吐き気をもよおしていたのだ。しかし喉の奥に熱く込み上げた感覚は、不思議とすぐに治まった。

 スゥトゥの内部は時間の進みが緩やかになるという、とても不思議な空間だ。実際に鈴音の身体の成長は止まり、時間感覚も狂っていた。

 碌影からは何の忠告も受けなかったので気に留めていなかった。夏雲の言う通り、神域に慣れていた身体には何らかの負担が掛かったのかもしれない。

 

「一瞬気持ち悪くなっただけで、今は大丈夫。また変に感じたらすぐに言うようにするね」

「ああ」

「……そうだわ、ユェ! 玥は大丈夫なの?」


 思い立った鈴音は玥がいるだろう後方に向かって叫んだ。

 スゥトゥの影響下にあったのは鈴音だけではなかった。碌影が創り出した人形である玥はスゥトゥの神気で動作を維持していると聞いている。

  

『スゥトゥから出ても動作できるよう、碌影様に術を、施してもらった。大丈夫だ』


 すると心の中に声が響き、驚きを隠せない鈴音は夏雲を仰ぎ見る。その表情から夏雲も同じ声を聞いたに違いなかった。


「人の思念に語り掛けるすべを持っているとは、大したものだ」

「ほんと。んーーーーーーーーー。ねえ玥、わたし! 私が今思った事も伝わっていたりするの?」


 鈴音が声を上げると、玥が並走した。ふるふると首を横に振る。


『聞こえない。リンインは術が使えない』

「えー」


 再び定位置へと下がった玥に抗議のジェスチーを送っていると、手綱を握っていた夏雲の手が内に寄せられるのを感じた。


「動いてごめんなさい! 有難う夏雲」

「落馬でもすれば怪我は免れないからな。それにしても獣神子、玥と言ったか。随分と仲良くやっていたみたいだな」

「うんっ! 玥は獣神子だけど、自我があるんだって碌影様はおっしゃっていたわ」

「ほお、それは珍しいな」

「よく話し相手をしてもらってたんだぁ。玥はとっても物知りですごいのよ? 私と違ってたくさん術も使えるし、身のこなしも軽いの。兎の獣神子だからかな?」

「ふぅん」


 夏雲の声が小さくなった、気がする。

 鈴音が首を傾げていると、また心の中に声が響いた。


『今はリンインだけに、思念を送っている。夏雲様の前で、わたしのことを褒める、良くない』

「あっ!」


 それはつまり?

 はたっとした。まずい、というよりも胸がくすぐったくなる感じだ。

 鈴音の口元には自然と笑みが広がっていく。

 そろっと見上げると、夏雲は思った通りの表情をしていた。


「えっっと、夏雲、ヤキモチ焼いちゃったの? 機嫌悪いの?」

「だ、誰がヤキモチなど! 断じて焼いてはいない! き、機嫌も悪くはないぞ? 心配など無用だ!」


 などとしている内に目の前に木々が迫る。明らかに手綱さばきがおかしい。


「わきゃーーー!! 夏雲! 前! 前!」


 幾多の枝葉の中を潜り抜け、黒馬は急停止した。


「すまない……。け、怪我は無いだろうか?」


 腕は細かい傷だらけ、綺麗な赤髪に葉っぱをたくさん付けた夏雲シアユンのバツの悪そうな顔は、あの日見た少年の顔を思い出させた。


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