第8話 スゥトゥの真実





 儀式のあった神殿を後にした夏雲シアユンと鈴音は、足早にスゥトゥ内を歩いていた。

 月もゆうに真上を通り過ぎ、辺りは心地の良い沈黙が満ち満ちている。

 先に外に出た兵達の姿はなく、すでに気配も近くには無かった。

 

 ちなみに追って来た麗孝リキョウはあるものに阻まれ、もう側にはいない。非常に痛い思いをしたであろう彼の惨状を想像し、鈴音は同情した。

 それにしても鳥人族の羽というのは、何と自由自在なのだろう。


「ねぇ夏雲。扉を顔にぶつけるなんて、麗孝さん、大丈夫なの?」

「構わない。少しくらい痛い目をみないと判らないんだ」


 手を引かれたまま歩く。隣を、というよりは引っ張られているので、夏雲は何かしらの理由で急いでいるのだろう。

 神殿の周囲の建物を幾つか抜けると、腰丈の草花、続いて林が現れる。夏雲の意図を察し、鈴音の胸は弾んだ。

 このまま進めば、湖のガゼボに着く。


「そこまで言わなくたって。麗孝さんは夏雲に勝手な行動を取らないで欲しいだけだと思うよ?」

「あいつは俺の部下だぞ。それなのにいつも俺のやること成すことに口を出してくる」


 鈴音の予想通り、林を抜けると湖に出た。眼前に広がる夜の水辺と、月明りに浮かび上がる白のガゼボ。

 夏雲と別れて以来何となく訪れてはいなかった場所だけに、感慨深い。


「ほら、やっぱりそうなんだよ」

「何が、ほらなんだ」


 足を止めた夏雲を鈴音は見上げる。

 いつもならもうとっくに眠りについている時刻だ。だが今はもう一度会いたいと思っていた夏雲と共に過ごしている。貴族である彼、スゥトゥから出られない自分にとって、この再会は奇跡に近い嬉しい出来事だった。

 夏雲も同じ気持ちならいい。鈴音は自然と心が上向くのを感じていた。

 

「昔、貴方を迎えに来た時も、今日だってたくさんの兵がいたわ。あの人達は夏雲が率いているの?」

「そうだ。戦では騎馬隊を任されている」

「うん。あのね。多分だけど麗孝さんは皆の手前、隊長のそういう姿を部下には見せたくなかったんだと思う」


 すっかり大人に成長した彼の手は、鈴音の手をすっぽりと包み込むくらいに大きく、温かい。

 繋がれたままの手を握り返すと、鈴音は夏雲に微笑みかけた。


「……」

「口煩いのかもしれないけど、麗孝さんは夏雲の、ううん。きっと鳥人族全体の事を考えている人なんだわ」


 夏雲は苦い顔をして俯いてしまった。


「俺はまだまだ子供なのだな。鈴音に出会った日、学び舎に行くのが嫌でスゥトゥへ潜り込んだ頃と、何ら変わっていないのだろうか」

「んー。後悔はしなくていいから反省して次に活かそうよ! それに変わってないわけない。夏雲はこんなに立派に成長してる。さっきだって私を助けてくれたでしょう?」


 鈴音はもう片方の手も握り励ました。「大丈夫」と念を押す鈴音に、ようやっと夏雲は肩の力を抜く。

 

「そんなことはないと言わない所が鈴音らしいな。……お前の言う通りだ。後悔しているだけでは、何も始まらない」

「うん。ぅわっ、ちょっ――」


 鈴音の声が上擦った。

 問答無用で鈴音を抱き上げた夏雲は、ガゼボまで歩いて行き、腰掛けにそのまま座った。

 思えば塔の上でも同じ。何故だか夏雲の膝の上に座ってばかりだ。しかも降りなくていいという無言の圧がある気がする。 結局何も言えず、鈴音はされるがままになっていた。


 すると鈴音はある事を思い出した。そういえば自分は、未だ質問の答えをもらっていない。

 しかし先に口を開いたのは夏雲の方だった。

 

碌影ろくえいも俺も、お前に話していない事実がある」


 声のトーンが幾分落ちている様に思え、鈴音は何となく身構えた。見上げるとすでに夏雲は鈴音を見ていた様で、暫し二人は見つめ合った。


「お前は俺に問ったな、どうしてそんなに成長しているのかと」

「うん?」

「それは当然だ。お前と別れて、もう十年は経つのだから……」

「……えっ?」 


 鈴音は目を見開いて夏雲を見る。

 容易くは呑み込めなかった。それくらい夏雲が話す内容は予想だにしないものだった。


「……何を、言ってるの? まだ数年しか……。あのね夏雲、私はまだこの世界に来て間もないし、暦の読み方も上手くないよ? だからちゃんと紙に書いていたもの! 間違ってないよ!」


 スマホもカレンダーも無いこの世界。とはいえ日は昇り、暮れて、星々と月が顔を出す。それは間違いなかった。

 自分は異世界人として、滅多と人の訪れる事の無いスゥトゥという隔離空間で暮らしていく。

 時間の感覚が鈍らない様に、くじけそうになる心を保つ為に、鈴音はすぐに日記をつけ始めた。今朝も目覚めてからすぐに暦を記した。

 夏雲と別れてから十年も経ったなど、到底信じられる筈が無かった。


 鈴音の混乱はすぐに伝わったのだろう。夏雲に肩をそっと抱き寄せられる。


「動揺させてしまってすまない。どう説明して良いのか俺にも判らないんだ。ただ確かなのは、ここスゥトゥは神域。その中は特殊な空間で、中にいる者は時間の進み方が極端に遅くなる。それは古来よりずっと言い伝えられている。何がそうさせたのかは誰にも判らない」


 夏雲が続ける。


「……俺も正直、ずっと半信半疑だった。スゥトゥへは儀式の時しか立ち寄ってはならない掟。居心地が良くとも長居してはいけないよ。お前を待っている人が心変わりを、様変わりをしてしまうからと。お伽話では無かった。これは紛れもない事実なんだと、他でもないお前の姿を目の当たりにして思った」

「そんな、嘘よ……」


 何の冗談かと思った。ようやく異世界での暮らしに慣れようとしていた、それなのに。あまりにも衝撃的な告白は鈴音の表情に暗い影を落としていた。


「現にお前は、出会った頃と変わらない少女のままじゃないか」


 しかし夏雲シアユンは硬い表情できっぱりと言った。

 二人の間に沈黙が落ちる。


「俺は鈴音をこのままにするつもりはない」


 暫くして、夏雲が言った。鈴音にとってはとても長く感じられたその間、夏雲は崩れ落ちそうになる鈴音の背をずっと抱き留めてくれていた。

 見上げた彼の眼差しは月光を受け輝き、その決意の強さを鈴音に伝える。


「お前と別れて、その後の様子は碌影から伝え聞き安堵していた。俺は予定通り学び舎に入り数年を過ごし、一族の元へ帰った後は一兵として前線に立ったり、隣国へ渡っていたんだ。ああ、お前につけてもらった稽古の甲斐はあったぞ。どこに行っても女との関わりは発生したからな」


 いかにもな物言いが、夏雲らしい。鈴音は自分の内が少し柔らぐのを感じた。


「叶えたい望みの為に、俺は父上の出した条件を飲む必要があった。隣国の戦を収め、間を取り持つ事に成功したんだ」

「……そっか。夏雲、頑張っていたんだね」

 

 夏雲は大きく頷いた。

 

「宝剣の儀という機会を逃せば、次はいつここへ来られるか判らない。それまでに父上に認められねばならなかった。……さっきは本当に驚いたぞ。お前を見つけたと思ったら、また高所から落下したんだからな」

「そ、その節も今日も、お世話を掛けました。夏雲には二度も助けてもらったんだね。本当に有難う、命の恩人だよ」

「お前は饅頭と自分の命のどちらが大事なんだ」

「それは誤解だってば!」


 まさか饅頭の存在まで知られていたとは思わず、鈴音は慌てた。

 夜目は苦手かと思っていたが、鳥人族の身体能力には驚かされてばかりだ。


「心臓が冷えた。俺はまたあの日と同じに、何も出来ないのかと過った」

「そんなことないよ。ちゃんと夏雲は助けてくれたよ」


 鈴音に少し笑みを向けたものの、夏雲はすぐに視線を落とした。


「ただただ未熟だった。俺の身代わりに矢を受け倒れてしまった鈴音を見た時、俺は動けず、挙句部下に促されるままスゥトゥから出たのだから」


 鈴音は胸の中に、じんとした熱さが広がるのを感じていた。

 夏雲は鈴音が庇った時の事を悔いているのだ。


 今の自分の心を上手く説明出来ればいいのにと、鈴音は強く思った。

 自分も夏雲も生きている。鈴音はそれで十分だった。もしも夏雲を救えていなかったとしたら、そちらの方が嫌だ。

  

「夏雲とこうしてまた会えて、私は嬉しい」

「……っ……」


 考えあぐね、結局鈴音は一番に思い浮かんだ言葉を伝えた。

 翡翠色の瞳が大きく見開かれる。そして彼は、力なく笑んだ。


「有難う、鈴音。――さっきの質問の答えがまだだったな」

「えっ、あ、うん。私を連れて行くとか聞こえた気がして」

「ああ。俺はお前を迎えに来たんだ。鈴音、スゥトゥを出て同じ時間を歩もう。俺の隣にいて欲しい」


 夏雲シアユンは真剣な眼差しで鈴音を見つめている。


「えっ?」


 言われた意味を図りかね、疑問が零れ落ちた。だがすぐにポンと鈴音は手を打った。


「あっ、判った! 夏雲の小姓になるって事かな? うんっ。夏雲なら嬉しいよ。でも、碌影ろくえい様はどうおっしゃってるの?」


 貴族には何人もの小間使い的な人間が仕えているのは知っている。夏雲は自分の事を考えて提案してくれたのだろう。

 鈴音としては願ったり叶ったりだ。スゥトゥの真実を知っただけに、よりその思いは強くなった。長命になるよりも、この世界を知る為に外へ飛び出したい。


「なぜそうなる!」

 

 しかし夏雲は声を荒らげた。思った以上の声量に、鈴音は夏雲の膝の上から飛び上がった。


「な、なになに、どうしたの」

「……膝の上に乗せているし、翼で守り、宝剣も渡した。言葉も俺なりに……もしや、まだ修行が足りないというのか?」

「えっと、あの夏雲?」


 瞑目していたと思っていたら今度はブツクサと独り言を言い出した夏雲を、鈴音は心配げに見上げる。

 やっとで目の合った夏雲はむすっとしていて、思わずとも鈴音は噴き出してしまう。

 少年だった頃の夏雲の面影が見えた。それが何だか嬉しかったのだ。


「もう雰囲気がどうとか回りくどい事は止めだ」

「うん?」


 頬に手を添えられ、唇に温かい感触が重なった。


「鈴音が好きだ。俺と結婚しろ」


 美しい湖の見えるガゼボは、あの日に二人で過ごした思い出の場所だった。

 口付けられた事と夏雲の心遣いに気付き、鈴音の中は目まぐるしく駆け巡った。そしてそれらがピタリと止まる。


 思考停止したのち、すっとんきょうな声を上げながら膝の上から転げ落ちる愚行をしでかした鈴音は、夏雲から助け起こされるまでに、あらゆる羞恥から耐える時間をしばし過ごした。

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