第5話 運命の日




 翌朝。

 鈴音はガゼボの腰掛の上で目を覚ました。

 昨夜は宣言通りに夏雲シアユンの舞踊の相手役を務め、その後は対女子を想定した会話をひたすらに練習した。女心の「お」の字も判っていなさそうな夏雲を相手に、喧嘩にならずに指導するのは中々至難の業で、さすがに難儀した。

 特に空気を読む、察するという点だ。女子の言葉の裏を想像する、心を読む。という話をした時には最後まで「意味が判らん」と言われたが、何とか女子相手の会話において柔らかい言葉選びをしてくれるまでになったと思う。思いたい。

 そんなこんなで最後は倒れる様に睡魔に身を任せたのだ。生まれて初めて野外で転がって眠ってしまった。

 

「あれ、夏雲?」


 天候は晴れ。朝焼けの中、湖の上は少し煙っていた。

 辺りを見渡せど、名前の人物はいない。すると湖の方から水音が聞こえ、それは徐々にこちらへと近付いて来た。

 現れた半裸の少年にぎょッと息を呑む。

 剣士だと言うし、日頃から鍛えているのだろう。細いだけでは無くしっかりと引き締まった肉体は、鈴音から見ても見事だった。


「びっくりした! 水浴びしてたの?」

「起きたか。昨夜はお前の『女子に対する優しい接し方』なんていう奇天烈な会に参加して変な汗をかいたからな。流してきた」

「そこは『少しは眠れたか?』って声を掛ける所でしょ」

「寝言といびきまでかいていたからな。よく眠っていたのは聞かなくとも判断出来る」

「もー、そういうとこ!」


 鈴音の抗議は華麗にスルーされる。夏雲は黙ったまま干していた黒衣に袖を通し、鈴音の膝の上から長い布を取って腰に巻いた。


「もしかして、腰巻の布を私に掛けてくれていたの?」


 眠りから覚めた時、あの腰布は鈴音の腹から下を覆っていたように思える。

 すると夏雲は少々バツの悪そうな表情をした。


「偶々だ。特に意味はない」

「そういうとこ、素直に認めた方が大人の対応に見えるんだよ?」


 行こうとした夏雲が振り返る。


「そういうものなのか」

「うん。さりげない優しさっていうの? 私は好きだよ。きっと他の女の子だって――」

「お前がいいなら、それでいい」


座っていた鈴音の手を掴み引き上げると、夏雲シアユンは先を歩き出した。意味を図りかねたものの、置いて行かれまいと鈴音は後を追う。

 

「ねぇ、どこ行くの?」

碌影ろくえいに挨拶をして、俺はもう都へ帰還する」

「あ、うん。そっか、そうだね。帰る日なのに夜通しさせちゃって、ごめんね」

「……」

 

 人気ひとけのないスゥトゥでは、鈴音らが話さなければ自然の音があるのみだ。まだ日が昇って間もない今は風も無く、よりそれを助長する。湖面から立ち上る霧は夏雲の後ろを歩く鈴音に迫り、足をすくわれそうだと起こりもしない事を思ったりした。

 結局夏雲からそれきり会話は無く、程なくして、最初にいた神殿前に二人は辿り着いた。

 言葉通り、碌影に挨拶をした後に夏雲はスゥトゥを去るのだろう。

 何かに気分を害したのか、どうしてか話さなくなってしまった夏雲。碌影との面会を終えスゥトゥの門の前まで来ても、こちらに目を合わせようともしなかった。

 

「碌影、此度は世話になった」

「何もお構いできずに。次回お目に掛かれるのは宝剣の儀でしょうかな」


 スゥトゥは高い塀で囲まれていた。

 縦に長い鉄格子の門は、大人二人が何とか通れる幅しかない。

 鈴音がそれを見上げていると、前ぶれなく門は動き出した。鎖が擦れるような音をたて、ゆっくりと上がっていく。

 パラパラと土を落とす門下部が露わになり、格子が突き立っていた地面が晒された。そこに敷き詰められているタイル石は日焼けの跡があった。しかし何故か蜃気楼の様にその部分が揺らいで見える。

 視線を上げるとその有様は高く立ち昇っており、鈴音の目には門そのものを覆っているかに思えた。


――まるで膜みたい。


 この現象然り、門の不自然な狭さも気に掛かる。

 見渡す限りここにしかスゥトゥに出入りできそうな箇所も見当たらなかった。

 スゥトゥは隔離された場所と碌影は言っていたように思う。これも外世界との関わりを最小限に保つ為の策なのかもしれない。 

 

「ああ、そうなるだろうな。あいつの処遇はお前に一任しよう。俺も今は、己が内だけに留めておく」

「承知致しました」

 

 夏雲と碌影は双方礼の形を取る。

 その時鈴音はハタッと気付き首を傾げた。静かな別れの場を見守っていた鈴音の耳に、ふいの異音が響いたのだ。


「!」


 先ほどまで鈴音が注視していたその膜に、何者かが仕掛けている。外部から何かがぶつかった衝撃は、次いで鼓膜をむず痒くさせる音を連続で発生させはじめた。


「きゃあ! な、なにあれ!」


 羽化し立ての様な乳白色をしている物体は、膜を突き破ろうと激しく蠢いている。

 鈴音には一見して昆虫に思えた。ただその大きさはおよそ常識の中にある昆虫の比では無い。


灰獣かしの類か。こんな所にまで出現するようになるとは……」

「夏雲様、こちらへ」

「下がるまでもない。俺がやるっ!」


 腰から短剣を抜いた夏雲シアユンが跳躍する。

 左右の手に持つ刃が弧を描き、肢体が空を舞った。

 瞬間の出来事は目で追うのもやっとで、声を漏らした時にはもう夏雲は地面へと降り立っていた。

 何と鮮やかな身のこなしなのだろう。夏雲は自分を剣士と言っていたが、両手に短剣を持ち舞う姿は妖艶な踊り子にも思えた。

 

「ギシャアアアッ!」


 斬撃を受けた灰獣は地面の上でのたうち回っていたが、ピタリと動きを止めた。と、唐突にそれは真っ二つへと分かたれ、泥を巻き上げながら消滅する。

 見えなくなる寸前まで鳴っていた灰獣の声は聞いた事の無い質のもので、鈴音はぞわりと粟立った背筋を震わせた。

 ここはやはり異世界なのだ。あんな化け物が存在している事が信じられず、鈴音は目を見開いたままその場に立ち尽くした。


「お見事ですな」

「俺が不用意に立ち入ったせいだ。スゥトゥを汚してしまった」


 夏雲は短剣を仕舞うと、灰獣かしが消滅した辺りにしゃがみ込んだ。

 未だ地面に足を縛り付けられたまま、鈴音はその様子をただ見守るしか出来ないでいた。

 時間にしておよそ数瞬、しかし鈴音にはじっとしている事が苦痛なほどの時だ。

 何故こんなにも自分の心臓は、波立ち続けているのだろう。


「夏雲様!」


 すると何かが静寂を破った。

 声に続き、辺りを怒号が覆う。驚きべき事に、スゥトゥの門の先を埋めていたのは数十名の兵士だった。

 黒い影と思ったのは、男達が身に付けていた装束の色。彼らは夏雲と同じ黒衣をまとっている。ある者は黒馬に乗り、またある者は鷲を模した大旗を掲げていた。

 兵士達の視線はみな夏雲に注がれている。


 しかし名を呼ばれた当人は応える事無く、膝をつき地面に向かって手をかざして何かをしている様だった。

 先頭にいた兵士が馬を降り、何の抵抗もなくスゥトゥに立ち入る。

 もしかしたらあの膜は、灰獣だけに効果のある結界だったのかもしれなかった。


「……」


 このまま夏雲は、ついに鳥人族の都へ帰ってしまう。思わずとも、彼の背を鈴音は見つめ続けていた。

 兵士が主に礼をし、直立不動の構えを取る。

 祈りを終えた夏雲が立ち上がった。それは唐突だった様に思える。

 鈴音の視界の中で、ふいに夏雲の身体がぐらつき倒れ込んだ。

 ゆっくりと時間をかけて地面に吸い込まれてゆく。その背に矢が突き刺さっていると認識した瞬間に、縫い付けられていた足は解かれ、鈴音は弾ける様に駆け出していた。


夏雲シアユン!」


 叫びは夏雲を振り向かせる。

 夏雲は倒れた筈だという疑問も、この時の鈴音には関係が無かった。

 今見た光景は、きっと幻だったに違いない。安堵を浮かべた鈴音が夏雲の元に辿り着く。


「っぁ!」


 しかし、その手が夏雲に触れる事は無かった。

 夏雲に覆いかぶさるように倒れ込んだ鈴音の背には、何者かによって放たれた細い矢が突き刺さっていた。


「なっ!」

「刺客か! 夏雲様、こちらへ! 皆の者、夏雲様をお守りしろ! 不届き者を探せ! 必ず捕らえるのだ!」


 ゆるりと仰向けの体勢にされた鈴音は背を支えられ、夏雲の腕の中にいた。

 視界が薄っすらと膜を帯びてぼやけている。手放しそうになる意識は、周囲の喧噪のお陰で何とか保つことが出来ていた。


「おい! しっかりしろっ!」


 間近にある夏雲の顔が痛そうに歪んでいる。

 さっき見た光景みたいに、やっぱり夏雲は怪我をしてしまったのかもしれない。


「だいじょ、うぶ?」

「それはお前だろう。どうして、こんな……!」


 今度は怒ったような表情になり、相変わらずだなと鈴音は笑おうとしたが、上手く口角が上がらず難儀する。それどころか少しでも身を動かすと、とても冷えた背中が突っ張り、裂けそうに思えた。自分の身体は一体どうしてしまったのだろう。


「夏雲様、ここは危険です。スゥトゥの人形なぞ気にする事はございません。早くここを離れましょう!」

「違う! こいつは――」

「夏雲様、この者は私にお任せを」

「碌影…………頼むっ」


 鈴音の中はどんどんとぼやけ、もう判然としない。

 力を失い、ついに鈴音は空を仰いだ。

 上向いた顎から細い息が小刻みに吐き出されている。

 スゥトゥの雲一つない青空と、碌影のフード。


 そして夏雲シアユンが「鈴音」と名を口にしたかに思えたのは、もはや鈴音の夢だったのかもしれない。


 

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