第4話 スゥトゥの夜
夜はとっぷり更けた。
寝台の上に置かれていた草色の寝巻は肌触りの良い長袖のワンピースみたいなデザインだ。せっかくなので袖を通し横になってはみたものの、着ていた服の洗濯はどうしたらいいのだろう、明日は何時に起きればいいのだろう。とりとめもない考えばかりが浮かぶ。しかもそのどれもが現実的なもので、なんだか可笑しかった。
違う世界に来たというとんでもハプニングだったけれど、意外な自分を新たに発見した気分だ。
「夢ならそろそろ覚めてもいいんですよ~~~……。あっ! 夢の中でも眠ってみたらいいんじゃない? 何か変化が起きるかも!」
よし、頑張って寝よう。
念の為、最近始めた眠る前のヨガルーティンをこなし、いざ再び鈴音は横になった。さらに羊も数えてみる。
――あれ? 百から減らしていくやり方の方が眠れるんだっけ?――
「も~! 余計に目が冴えてきちゃったじゃない。ううー」
夜中に大きな声を出しても、誰にも注意されない。
文字通り「……しん」としている室内で、さてどうしたものかと鈴音は宙を見上げた。すると考えあぐねていた鈴音の耳を、何かが掠め
そういえば夕方に訪れたガゼボのある湖が、この建物の近くにはある。きっとその音だ。
ぽたり、ぽたり。
雨は降っていない筈なのに、不思議と雫が落ちる音も聞こえてくる気がする。
好奇心とは人の足を動かすもので、すっかり当初の目的も忘れた鈴音は寝台から降りると、慎重に部屋の扉を開けた。
真っすぐに伸びた廊下は静まり返っている。両端に並ぶ扉は等間隔にたくさんあるものの、中に誰かがいるかどうかは把握していない。くわえて明かりは今いた部屋の扉付近にしか灯っておらず、心細さが一瞬鈴音の動きを止めた。
「異世界のお化けっていうのも興味があるわ! どんとこいよ! ……わっ、えっ嘘、熱そうなのに熱くない? これももしかして
鈴音は扉を閉めると、唯一の燭台を手に取った。不思議な事に、それは確かに炎が灯っているのに熱を感じない。歩いていても炎が揺れる事もなかったのだ。
――やっぱりここは、自分のいた世界とは違うんだわ――
スゥトゥの最高責任者、神官碌影。とり肢を持ち、不思議な術を扱う。この世界に転移して来た鈴音をいち早く感知し、
碌影は多くの術を操る。湖からここへ鈴音を案内した獣神子と呼ばれる傀儡も、碌影が創り出したものなのだという。
獣の名にふさわしく、獣神子は人間の形状に動物の耳や尻尾を生やした容姿をしていた。感情は持っていないそうで、役割は鈴音の世界で言う所の所謂ロボットに近い。スゥトゥでは、創造者の碌影の指示に従い忠実に働く。
ケモ耳姿は遠目に見て一瞬可愛いと思ったが、実際に接してみると思った程の感激は無く、むしろ少し不気味にも感じた。
瞳に感情を宿さず表情が動かない。発声もほとんど無いので、鈴音にはとても無機質に感じる。
「ほっ。この建物にはいないみたいね。良かった~」
だから、もし今扉を開けた所に見張りとして立たれていたら、きっと自分は悲鳴を上げていたに違いない。しかしどうやら獣神子は、鈴音の休んでいた部屋周辺には居ないようである。
胸を撫で下ろし、鈴音は慎重に歩みを進めた。
突き当りを曲がると、壁面に龍や大きな翼を持つ鳥、神話上の生物を模したであろうレリーフが現れる。
鈴音が履いているのは提供された先が丸い革靴だ。ひたりひたりと歩くその音だけが石床に響いていた。
やがて建物の外へ出た鈴音は、大袈裟でなく深呼吸をする。
極度の緊張から解放され得た空気の、なんと美味いことか。
外は目に見える範囲では明かりが無く真っ暗だった。普段人工的な光で慣れ切っているからだろう、違和感が凄い。でも――。
「星や月明りって、こんなに綺麗だったんだ」
耳を澄ますと微風に乗って心地の良い音も聞こえる。敷地内に植わっている木々や草が揺れる音。そして、あの水音。
風に撫でられた湖面の水泡が沈む微かな音だ。
記憶を辿って緑を分け入り歩いていると、すぐに目的の場所は現れた。
白いガゼボ。灯る明かりに照らされた、縁に座る赤頭を鈴音は発見する。
「
小走りに近寄ると、
もしかしたら、最初から眠るつもりは無かったのかもしれない。
「出歩くなと言われなかったのか? 壁をよじ登ってみたり、少しはじっとしていたらどうなんだ」
「
隣に腰を下ろしたが、文句は言われなかった。
質問の答えが欲しい。期待を込めて、じっと夏雲の横顔を見つめ続けていると、どうやら夏雲は観念したらしい。
「時間を潰していただけだ。家の事を考えていた」
「あ……そっか。急に外泊になったもんね。家に連絡はちゃんとしてある?」
「お前から見て俺はそんなに箱入りに見えるのか?」
夏雲は鼻を鳴らした。
予想外の反応に鈴音はきょとんとする。身なりや碌影との会話から、夏雲がそれなりの身分であるのは判っていた。鳥人族では成人しているとは言え、まだ十の齢で無断外泊は家族も心配するだろう。自分の家なら、きっとひっきりなしにスマートフォンに電話が掛かってくる。
鈴音としては特段含み無く疑問を口にしたのだが、夏雲は気に障ったらしい。
ガゼボの縁に座っている鈴音の両足は少し浮いている。鈴音は手持無沙汰気に足をぶらぶらとさせながら、次の会話を探した。
「あ、そういえばさ。夏雲はどうしてスゥトゥに来ていたの? 碌影様も予定に無かったって言ってたよね」
「碌影は様付で俺は呼び捨てか」
夏雲は思いっきり顔を顰めている。
でもやっとまともに顔が見られたと鈴音は喜んだ。怒っている風にも見えなかったので、鈴音はさらに突っ込んだ。
「教えてくれないの?」
「答える道理もないな」
「んー。あっ、ほら。夏雲とは、もう会えないかもしれないんだし、ねっ」
深夜テンション。口にしてから自分の発言にびっくりはしたものの、鈴音はつらつらと言葉を続けた。
スゥトゥはどうやら人々が頻繁に立ち入る場所でもないようであるし、ましてや自分は不穏分子だ。きっと今後も外に出ることは難しいだろう。
異世界に来て初めて出会った少年、
しかし、そのような自分の心情など夏雲には関係はないのだ。
やっぱり駄目かと鈴音が諦めかけた時、ふっと傍らの空気が動いた。
「俺は最近成人したと言ったな」
腰を上げた夏雲は灯篭の明かりに照らされる湖面を眺めていた。その立ち姿に何故か暫し魅入ってしまっていた鈴音は、慌てて首を振った。
彼の姿が、なんだかとても大人びて見えたのだ。
薄月の光と夜の帳。スゥトゥの神聖な空気は今もなお鈴音の心音に語り掛ける。
「各種族の成人した者達は、生涯の伴侶を見つける為に数年間家を出て専門の学び舎で勉学をする。まぁ、知らない者同士で共同生活をするって事だ」
「すっごーい! それって全寮制の学校みたいね。楽しそう! いいなぁ。私の世界にもそういうのあるの。私も迷ったんだけど、親に止められて他の学校になっちゃって。でもそこはたくさんの動物達もいるし、農業も学べたりするの」
鈴音は胸の前で両手を合わせ、はしゃいでいる。かたや隣の夏雲は何かを思い出したのか、苦い表情だ。
「学び舎では同じような身分の女共もいる」
「男女共学なんだ。青春ね! 何? 嫌そうにしているけど」
「そこで伴侶を探せと言われているんだ」
「はんりょ……お嫁さん探すの!?」
重いため息で一旦会話は途切れたが、顔を上げた夏雲はすごい勢いで話し始めた。
「俺は一族の為に剣術や武道、座学を深めに行くだけだと思っていたんだ。それなのにどうして色恋など強制されなければならないんだ。父上に抗議しても行かねばならぬの一点張りだし、兄上に至っては「楽しんで来い」などと笑われたんだぞ!」
「なるほど。見えたわよ! つまり夏雲は色恋事が嫌でここへ来たってわけね。スゥトゥなら行事の時しか人は来ないから、隠れるにはもってこいだもんね」
「……」
夏雲はそっぽを向いたまま腕組みをしていた。あの夏雲が反論しないとは、これは肯定の証だ。
「俺は三男だし、権力争いや、ましてや跡取り問題とは無縁で、これまでも放っておかれていたんだぞ。それが急にああしろこうしろと納得いくか」
「そこは、大切な息子だからなんじゃないかなぁ」
「……何も知らない者からすれば、そう映るか」
「えっ?」
翡翠色の瞳が、鈴音を見つめていた。大きな瞳はそれだけ心の内を映すのだろうか。彼の深淵がほんの僅か、顔を覗かせた。
怖くはない。ただ、その時の鈴音は何故か寂しさを覚えた。
「お前には、関係の無い話だ」
初対面から感じていた
自己を持っているのは良い事だ。他者に対する威圧感も、自己肯定感から生じている。
この場には二人以外になく、辺りはしんとしている。さっきまでは心地よくも感じていた静寂に、言葉も気持ちも飲み込まれようとしていた、その時。
「まるで自分だけで生きているみたい」
スルっと喉から出た一言は、鈴音本人をも驚かせた。
その言葉は夏雲にとっても同様だったらしく、見る見るうちに怒りを宿した瞳は見開かれる。鋭利な眼差しに射抜かれ、鈴音はごくりと固唾を飲んだ。
「どういう意味だ」
冷たい緊張が走った。言葉の選択を誤れば、不穏分子の自分など容易に切り捨てられるのかもしれない。この世界における道理と身分の差は、きっとそれを可能にするし蛮行が許されもするのだろう。そう思った。
しかし不思議な事に鈴音の心の内はざわめいてはいなかった。
怒れる赤炎の子の背後に見える湖面の様に、ただ在るがままだ。
鈴音は夏雲越しに、遠く湖面見つめる。
「意味なんか無いよ。私は夏雲の事を知らないに等しいし。ただ、そう感じただけ。何を諦めているんだろうって思ったの。夏雲は夏雲なのにさ」
「……」
暫く沈黙が続いた。
時折吹く風。葉から滴り落ちる水滴が波紋を描く。ほとりに咲く草花の揺れる音が心地よく鈴音の耳に届けられる。
「お前に言い負かされるとは心外だ。腹が立つ」
大仰に息をつき、夏雲はそのままドカリと鈴音の隣で胡坐を組んだ。
「ごめん」
「謝るな。俺が阿呆みたいだろう。……怒るとも違うんだ。俺が間違っていると思ってはいないし、お前の言う事もそうなんだ。だが今は上手く言葉に出来ない。もやもやする!」
鈴音も同じだった。どうしてあんなことを口にしてしまったのか。それは自分自身よく判らない。
「じゃあ、話題を変えようよ。えっと、家に帰ったらちゃんと学び舎に行く?」
「ぅぐっ……女子と茶会や舞踊の時間もあるんだぞ」
「ああ、うん。身分の高い人って、作法とかそういうのありそう。それも嫌なの?」
「当たり前だ! 貴重な時間を茶を飲みながら楽しく談話とか、貴族の嗜みとのたまい手と手を取り合って舞踊の練習など寒気がする!」
そこまで一気に言うと、夏雲は身震いした。
夏雲にとっては相当な苦手分野らしい。鈴音は笑った。
うっかり沈んでいきそうな心が軽くなっていく。
さっきまであった重く苦しい空気が変わろうとしていた。
「よし! じゃあこれから練習しようよ」
「はっ? 何を言っている。何故そうなる」
夏雲の手を取り、鈴音は立ち上がった。
戸惑う夏雲を前に、高らかに宣言してみせる鈴音の瞳はキラキラと輝いている。
「苦手は練習したら克服出来るから大丈夫! あ、この世界の踊りを教えてくれる? ササッと覚えて相手役をしてみせるから任せてよ」
「いや、そういうわけでは。俺が言っているのはだな――」
女性の相手をするのが苦手な夏雲からすれば微妙にずれているわけで、それは十分に判っている。だが自分はバリバリ現役運動部だ。一度火の付いたスポコン魂は中々消せるものではない。
かくして。
夜を徹しての貴族の嗜み、及び女子に対する会話術の練習会が、スゥトゥにて執り行われたのだった。
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