第3話 この世界




 シャウユイという広大な森の中の神殿、スゥトゥ。白く高い石壁に四方を囲われ、内部には儀式に適した建物が幾つも並ぶ。この神域はごく限られた人間で管理され、普段は門を固く閉ざしている。


 あれから夏雲シアユンとは二言三言言葉を交わした。ほんの少しとはいえ、それはこの世界を知る事に繋がった。

 鳥人族他、この地に住む人達にとってスゥトゥはとても重要で神聖な場所である。同時にそれは俗世とは隔たれているという事を意味していた。


 鈴音の反応を、もしかしたら夏雲は観察していたのかもしれない。

 夏雲の瞳は野生の鷲を彷彿とさせる。

 どうして自分がここにいたのかという疑問は、何も鈴音だけではなかったのだ。

 よもや質問される側になるとは想像もしていなかった鈴音は狼狽えた。

 ただ、今改めて問う翡翠色の瞳は、盗人と決めつけていた時とは僅かに違う様にも思えた。


「これは珍しい。婆の記憶では今宵客人を招いた覚えは無いのですが」


 しかし突如現れた来訪者によって、会話は途切れてしまったのだ。


「見つかったか。相変わらずの千里眼だな、碌影ろくえい

「お久しぶりでございます、夏雲様。成人の儀も終えられ、益々お忙しい事でしょう」

「ぅっ。……やはり、お前には筒抜けなのか?」

「ほっほっほ」


 他にも人がいたのだ。足音も無く、声を掛けられた時には至近距離だった為に、鈴音はそれはもう驚いた。

 碌影は夏雲と礼を交わすと、鈴音に視線を移した。

 頭からつま先までゆっくりと。まるで中を覗かれている風に思え、鈴音はごくりと喉を鳴らした。鈴音の身体は微動だにも出来ずに固まってしまっている。

 それくらいに、現れた人物は異質な姿をしていた。

 背中は丸く曲がっており、声はしゃがれている。白いローブで全身を覆った姿はさながら物語に見る魔導士か何かだ。ローブは目元部分だけが開いており、そこから覗く左目を色鮮やかな刺繍がぐるりと飾る。縫い込められた宝石細工がキラリと光を反射し、それが碌影の眼球に思えた鈴音はびくりと肩を揺らした。


「そうですな。そちらのおなごも聞きたいことがあろう。ではここで、婆とお茶を嗜むのは如何だろうて?」

「えっ、えと、はい」

「相変わらず、急だな。まぁ、こいつが何かするとも思えんし、俺は構わんが」


 夏雲の了承を得た碌影は頷くと、空中に向かって何かをブツブツと唱え始めた。

 するとどうだろう。何も無い空間に光が瞬き、ポポポンッと軽快な音を奏で茶器が出現したのだった。フワフワと浮かんでいる陶器のポットからは、淹れたてを思わせる湯気が立ち上がっていた。


「何これっ、魔法なの? 見えない何かが食器を動かしているみたい」

「碌影は神官だ。こういった術が使えるのは当たり前だろう」

「さぁ、どうぞ。お座り下さい。そなたはそのままそこへ。足を怪我しておろう」

「あ、有難うございます!」


 ガゼボの椅子に腰を下ろしていた鈴音の側に着地した茶碗からは、良い香りが漂っている。鈴音の表情は綻んだが、ちらりと見た夏雲の表情は硬かった。

 夏雲は鈴音を見ようともせずに、碌影が出現させた色鮮やかな絨毯の上に胡坐をかく。

 

「不思議で仕方がないな。今初めて会った相手を何故もてなす? そいつは盗人だぞ。さっき神殿の中から逃げ出して来たのを俺は見た。お前が知らぬ筈はあるまい」


 鈴音は思わずとも「しゅん」としてしまう。

 夏雲が自分に対して、まだ疑心を抱いているのは承知していた。しかし渋々ながら手当され、先ほどは質問にも答えてくれた。少し打ち解けたと感じていたのは自分の都合の良い思い込みだったのだろうか。 


「単刀直入に申し上げます、夏雲様。この娘は、私共の世界の住人ではありません」

「……」


 夏雲は椀を置き、碌影と鈴音を交互に見やった。元々つり上がっている瞳は鋭さを増し、碌影が制止しなければ腰の剣を抜かれてしまっていたかもしれない。鈴音が突拍子もない事を思い浮かべたほどに、がらりと夏雲の雰囲気が一変した。

 その瞬間、鈴音は悟った。

 気安い軽口で、微笑を向けられただけで心を許してもらえたと勘違いをしていた。

 夏雲は武人として鈴音に接していたにすぎない。ガゼボで彼は謝罪したが、それも彼の、こうあるべきという性質がそうさせただけだったのだろう。


 夏雲は確かに大人だ。鈴音にそう思わせる位に取り繕えるのだから。


「数刻前、水鏡に突然生命反応が現れました。今までに感じた事の無い気配にございます。夏雲様もご存じの通り、スゥトゥは特殊な結界内にあります。にも関わらず侵入を許した。この婆に悟らせず現れた者。そして実際にまみえた今、私の直感は正しかったのだと思っております」


 二人の視線が鈴音に集中する。


「こいつが異界の住人だという証はどう説明する」

「スゥトゥの水鏡は神の門。疑いようもありません。そして見た事の無い衣服を身に纏い、酷く混乱した様子。この碌影、人よりも長く生きておりますが、このようなことは前代未聞にございます。神々の悪戯か、にわかには信じ難い神話の域の話と言っても過言ではないかと……」

「そういえば変わった衣服を身に付けているな。確かにそう考えれば、これまでの不審な言動も、この世界の事を知らなかっただけに思える。おいお前。本当にこの世界の住人ではないのか?」

 

 夏雲と視線が交錯する。「お前は何者だ」と瞳が語っていた。

 鈴音は頷く。

 気落ちしているわけにはいかない。やっとこれまでのことを説明出来るのかもしれないと鈴音の心は浮足立った。

 この機会を逃してはいけない。鈴音は姿勢を正し、夏雲に向き直った。


「私も、実はよく判らないの。さっき目が覚めたら暗い神殿内にいて、混乱して、ここから出なきゃって思って壁を上った。そしたら夏雲に出会って……」

「活発なおなごよの。最初に夏雲様に出会ったというのも、ふむ……」


 改めて言われると、自分の男勝りっぷりが何だか恥ずかしく思えた。例えようの無い居たたまれなさが、鈴音を項垂れさせる。


「……想像が及びもつかない。つまりこいつはただの盗人ではなかったと言うことだな。俺としてはすぐにでもここを出て、然るべき裁きを受けさせねばと思っていたが、こうなるとそうもいかなくなった。碌影よ、お前ならばこの後どうする?」


 夏雲が問い掛けると、碌影は顎に手を当て思案するような素振りを見せた。ローブが手首まで滑り落ち、老婆の手が露わになる。


 鈴音は口元を覆った。危うく声を上げそうになってしまったのだ。


「この世界には、私のような者もいるのだよ。今はそれを覚えておくだけでよい」


 碌影の左手は鳥足だった。あしゆびが四本伸び、細く鋭い爪が付いている。

 鈴音の思考を知ってか知らずか、碌影はくくっと喉を鳴らした。


「さて、そうですな。どうして転移したのか調べるのかは勿論ですが、まずはこの娘の処遇でしょう。このまま外へ放り出すのも野蛮というもの。神に仕える身としましては、この世界の理、生きる術を与えとうございます」

「それはつまり、こいつをスゥトゥ内に住まわせるという意味か?」

「幸い今のスゥトゥ内に座しているのは私と私の使役している獣神子けものみこのみ。直近の祭事は鳥人族のものがあるだけにございます。この娘の密は保たれるかと」

「あっ、ああ。そうだな……」


 夏雲の声が上擦った。

 うろっと視線が泳ぎ、咳払いまでしている。一体どうしたというのだろう。

 そういえば夏雲は自分を鳥人族と言っていた。碌影の言う祭事と何か関係があるのだろうか。


「わぁ、可愛い」


 その時、鈴音の手元から柔らかな香りが漂った。見ると持ったままだった茶碗の中に花が咲いている。茶葉にしては大きいと不思議に思っていたものは、干した花の蕾だったのだ。


「ああ、そろそろだ。毒なぞ入っておらぬ。飲むとよい」

「はいっ。頂きまーす」


 碌影の言うままそれを口に含むと、ふわっと柔らかな花の香りが鼻に抜ける。

 それに味もとても美味しい。温かいものを体内に取り入れると、こんなにも心が安らぐのかと、鈴音はほっと息をついていた。


「当の本人は呑気なものだ」


 夏雲の翡翠色の瞳が細められる。意地悪な呆れた口調だ。でもさっきの怖い表情よりはずっと良い。鈴音が笑みを返すとプイッと視線を外されてしまった。


「ところで夏雲様」

「なんだ」


 碌影の操る茶器からお代わりをもらっていた夏雲は、ちょうどそれを口に含んだ所だった。


「本日は如何なる理由でここへ? 基本的にスゥトゥは祭事以外に立ち入ることは許されておりません。その理由は夏雲様もご存じの筈」


 碌影の声色に特段変化はない。しかし痛い所をつかれたのか、夏雲は判りやすく嫌そうな表情をした。


「それは承知している。俺にも俺なりの理由があってだな……」

つがいの儀までの勉学も鳥人族の男子たるもの大切な――」

「あー、判った判った。まったく。やはりお見通しではないか。お前まで説教するのは止めてくれ。とりあえず、こいつの事は承知した。今日はもう泊まらせてもらうぞ。夜目はきかん」


 立ち上がり、そのまま夏雲はガゼボから去った。

 暫くその姿を見送っていた鈴音だったが、夏雲がこちらを振り返る事は無かった。

 

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