第2話 はじまり





「まったく。どうして俺がこんなことを」

「うっうっ、ずびません~、でも痛いいーーー!」

「うるさい。耳元で叫ぶな、脳天に響く。まぁいい。盗人を捕まえたとて、自分で歩けないのというのも俺の手間が増えるからな」


 よく考えれば、あんな高所から落ちて五体満足でいられる筈が無かった。さっきは興奮していて何とかなっていただけで、落下の衝撃は確実に鈴音すずねにダメージを与えていたのだった。

 左足に走った激痛に立っていられなくなり、どうにも動けない。見かねた少年が「仕方ないから治療をしてやる」と肩を貸してくれたのだ。その表情と口調は思いきり渋々だったのは言うまでも無い。

 とにもかくにも、そういった理由であっても治療をしてくれるというなら有難く受ける。鈴音は脂汗を垂らしながら何とか踏ん張っていた。


 少年は自らを鳥人族と語り、名を夏雲シアユンと言った。朱色の建物といい、思わず隣国を想像してしまうが、恐らく違う。ここは現実とは異なる世界なのだろう。

 何よりも夏雲がそれを体現していると、鈴音は改めて思った。

 燃え盛る炎を思わせる赤髪と、煌めく翡翠色の瞳。髪の隙間から揺れる紅玉のピアスは、少し尖った耳を飾っていた。

 およそ鈴音のいる日常には有り得ない異彩。それはまるで、いつか見た空想の世界に生きる精霊や妖精にも思える。落ちて来た人間に直撃されても傷一つない驚異的な身体一つとっても物語じみているだろう。

 しかし現に自分はこうして彼と言葉を交わし、体温に触れた。夏雲シアユンから得体の知れない美しさと強さを、何より生命を感じたのだ。

 そしてこの身に走る痛みもまた、これはまやかしなのではない、受け入れなければならない現実だと告げている様にも思えた。

 

「なんだ。人の顔をジロジロと」

「あっ、ごめんね。夏雲シアユンみたいな人を見るのが初めてで、つい」

「盗人が、気安く呼ぶな」

「じゃあ、少年かボクって呼んじゃう事になるけど――」

「……女だからとて容赦はしない」


 夏雲は目を吊り上げた。


「も~、じゃーどう呼べばいいのよ。このままだと不便だもん。それに私は鈴音すずねって言ったじゃない」

「ふん」


 小学生に凄まれても怖くない。喉まで出掛かった言葉を鈴音は飲み込んだ。

 夏雲シアユンはさっきからずっとこの調子で、何だか苛ついている。


 本音を言えば、もう少し親身になってくれる人物と出会いたかった。自分は地元の公園からいきなり見た事の無い場所に飛ばされたのだ。建物の中から抜け出せたと思ったら今度は怪我をしてしまい身動きもままならなくなってしまった。

 という身の上話も、まだ何も出来ていない。

 言葉は通じるものの、どうにも気難しそうな相手ははたして聞く耳を持っているのだろうか。見慣れない瞳の色は感情も上手く読み取れず、鈴音は喉まで出掛かった言葉を、もう何度も飲み込んでいた。

 判っている事と言えば彼の名、そしてどうやら自分は神殿に押し入った罪で裁判に突き出される予定だ、という事だけ。


 一体自分はどうなってしまうのだろう。

 項垂れていた顔を上げると、周辺は高所から見渡した通りの建物群が立ち並んでいる。自分のいた建物は比べると低く、想像以上に横幅のある造りをしていた。そして扉には特徴的な金の紋様が施されている。

 

 神殿と、夏雲シアユンが言っていた気がする。

 聖なる場所。どうして自分はここにいたのだろう。


 手入れのされた緑の中を抜けると、少し開けた場所に出た。白い石畳の先には新緑生い茂る森、手前には水辺が広がっている。

 湖の景観の為に建築されたのだろうか。そこには庭園にありそうな屋根付きのガゼボが併設されていた。陽光輝く水面と、ガゼボの白。

 きっと誰しも誘われるようにここへ立ち入ってしまう。そう思わせる神秘的な魅力がこの場所には感じられる。


「ありがとう」


 ガゼボの中は、その円形に沿って作られた腰掛があった。やはりここはくつろぎの場所なのだ。

 有難く座らせてもらった鈴音は大袈裟でなく大きく息をついた。汗が噴き出しているのが判る。今すぐにでも、この湖で汗を流したい。


「ここから動くなよ」


 鈴音から離れた夏雲シアユンは湖面に向かい、何やら水の中を探っている。暫くして戻って来た彼の手には白い花が幾つか握られていた。


「お前が勝手に負った傷だ。知らぬ存ぜぬは通せる。しかし俺のせいだと言いふらされても困るしな。盗人の言葉などに誰も耳は貸さないと思うが一応の用心だ」


 なんかひどいこと言われてる。

 しかしこれ以上口を挟んでもややこしくなる。そう思った鈴音は黙ってされるがままになっていた。

 靴を脱がされ、ジーンズをまくり上げられる。露わになった足首はカンカンに腫れ上がっていた。

 すると夏雲シアユンはおもむろに白い花を口に含んだ。


「えっ! な、なにしてるの貴方」


 もしゃもしゃと咀嚼したものを掌に吐き出し、足首に乗せられる。

 その時の自分の顔は相当なものだったのだろう。今まで不機嫌な表情しか見せなかった夏雲が「……効くんだぞ」とバツの悪そうに呟いていたくらいだ。

 薬草を患部に広げ終えると、葉っぱの部分数枚で蓋をした。不思議な事に動かしても落ちる気配も無く、十分に包帯代わりとして機能しそうだ。

  

「お前の名は何と言う」

鈴音すずね、です」

「先ほども思ったが、ずいぶんと可笑しな名だな。そのような響きは聞いた事が無い。……術の発声に影響が出るかもしれない。字を教えろ」

「えっと、リンリン鳴る小さなちりちり。鈴ってわかるかな。あとは、物の音、の音っていう字です」

「ではリンインだな。お前の名だ。それでは始める。このまま動くなよ」

「何を――」


 夏雲シアユンがかざした掌が淡く光る。何か聞き取れない言葉をブツブツと言った後に、もう光は消え去っていた。


「終わった。暫く安静にしていれば完治するだろう」

「そういえば何だか痛みが引いてる? ……気がする。今の貴方の力なの?」

「鳥人族の剣士ならば誰でも扱える治癒術だ。効力を高める為に薬草を使った」


 夏雲は淡々と言った。


「治癒術? 何だか魔法みたいね。有難う、夏雲。本当にすごいわ、まだ小さいのに」

「小さいは余計だ。それに齢も十を過ぎれば鳥人族では成人と見なされるのだからな。つまり、俺はもう大人だ!」

「十歳で成人! 鳥人族って早熟なのかな。あっ、じゃあ私とは六つ違いなのね」


 答える事無く夏雲シアユンは再び湖面に行ってしまった。


 初対面での自分に対する態度。大人びた言動も、それなら納得だった。身体の大きな、一見して自分よりも年上の相手にも物怖じしない。明らかな不審者相手に対しても情けを掛け、治癒術も施す。

 しかしだ。もう少し、何とかならないものか。今までの会話は一方的なもので、残念ながら夏雲からは友好的な空気が今一つ感じられない。


 このまま自分は、罪人としてどこかへ突き出されるだけなのだろうか。

 いや、何も話をしないままは納得がいかない。あまりにも理不尽ではないか。


「どうしてちゃんと話をしてくれないんだろう」

「何か言ったか?」

「あっ! 良かったらこれを使って。えっと、手を拭く布なの」


 戻って来た夏雲シアユンに、鈴音はポケットから出したハンカチを何気なく差し出した。

 すると、夏雲は眉を寄せた。


「要らん。どこの誰とも判らない輩から、何かを受け取ると思うのか」

「……」


 感情に総量があるのだとしたら、きっと今自分の杯は哀しさと寂しさの嵩が増して溢れようとしている。

 夏雲の発するすべてがぶつかってヒビが入っていたのだろう。

 もう受け止めきれずに苦しいと走った亀裂と共に、それは一気に弾けた。


「……どこの誰とも判らないじゃないもん」


 自分でもびっくりするくらいの小さな声だった。

 ふるふると口元が震えている。


「私には鈴音って名前があるの。あんたが言ったリンインでもいいわよこの際! なんなの? どうしてそんなに取り付く島が無いの。何を怒ってるのか知らないけど八つ当たりは止めてよね! 大人だって言うなら、ちゃんと人と会話出来るようになりなさいよ!」


 鈴音は一気にまくしたてた。今までギリギリ保っていたものが、プッツリと切れた瞬間だった。

 てっきりいかり散らすと思っていた夏雲シアユンは呆気に取られた表情をしている。

 それだけの事で、さらに自分が情けなく思えた。


「泣いているのか?」

「そーよ! あんたのせいで泣いてるの。でも悲しいからじゃないわ、これは悔し泣きよ!」


 鈴音は両膝に突っ伏して泣いた。こんなに泣いたのは小さな時以来だ。

 異世界に来たという不安と心細さ、他人からの拒絶に心が耐え切れなくなった。


 夏雲シアユンは泣いている鈴音をしばらく見守っていた。

 隣に腰を下ろすと、嗚咽が少し収まるのを待って、口を開く。

 

「どうして泣いた」

「……私は、私の名前を呼んでももらえないし、ちゃんと目も合わせてもらえない。そういうのに値しない人間なんだなって思っただけよ」


 泣きすぎでぼろぼろになった顔を上げると、持っていたハンカチで押さえる。

 子供みたいに泣いてしまった気恥ずかしさで、鈴音は夏雲の視線に気付いていないふりをするハメになった。

 

「すまなかった。武人としてあるまじき振る舞いだった」


 夏雲はあっさりと零した。

 思い掛けない謝罪の言葉を聞いた鈴音は開いた口が塞がらない。あまりの驚きに涙も止まってしまった。


「ほんとに夏雲?」

「調子に乗るなよ。気持ちは判らなくもない、そう思ったからだ」


 元の仏頂面に戻った夏雲が立ち上がる。


「……おい。その布をかせ」

「えっ、あ、うん」


 夏雲は鈴音の手からハンカチを摘まみ取ると、音もなく身を翻した。

 そこで鈴音はある事に気が付いてしまう。慌てて夏雲を追おうとするも、怪我が痛み思い切りつまずいてしまった。


 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。

 

「ちょっちょっと待ってー! それっ、鼻水まみれだから!」


 言ってから後悔したが、もう後には引けない。


「俺が気付いていないとでも思ったのか」

「へっ?」


 「だから洗うんだろうが」と一言。

 ちらりと振り返った夏雲シアユンの横顔には、僅かな笑みが浮かんでいた。

 


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