郷愁

裏 鬼十郎

第1話

その男が描く郷愁とは、一杯のカップラーメンである。

カップラーメン。この炭水化物と脂質と塩分の塊こそが、男にとっては一切の宇宙を映し出す世界の総て、いや、すべて以上の何かであった。

一杯のカップラーメン。それが、男の体に入り込んでくる。視覚を通してそれは食欲中枢を支配し、男の心の内部に入り込む。いったん入り込んだが最後、終生それは男の内部世界に付いて回るのだ。

そう、まるで呪いのように。母のまなざしのように、ある雨の日初めて獲得して忘れ去ったはずの他者からの視線を感じる能力のように。


男の仕事は、肉体を削るような荒行だった。炎天下で、又は、寒空の下で毎日、建物を立て壊す。建て壊してはその建物だったものを細かくして運び、細かくしては運ぶ。

一日の休暇も許されず、ロープの粗さによって少年の匂いの抜けきらない彼は手を荒くれた物体的な、ざらざらと息づいているのか死につつあるのかよくわからない男の手に変えられていった。

そうした変容の間にも監督は生殺与奪という名の絶対的な鞭を持って男たちを監視し、少しでも休もうものならば、遠慮会釈なく鞭をくれる。彼の生活は仕事によって握られており、哀れ男は生活保護というものを知らず、どんな仕事であれ決して断ってはいるわけにはいかない、どんな仕事であれ謙虚にやっていればいつかは報われるという発想を持っていた(後に転向し、百八十度違う生活リズムと九十度違う信条によって立身出世を果たした。)


だれが何のために行っているのかわからない、延々と続く終わりなき破壊と解体の日々を過ごす男の日々には、いつしか疲労が、強力で振りほどきがたい疲労が相棒なのか看守なのか、慰めなのか暴力なのかわからない形で付き添うようになっていた。しかし彼を支配していたのは疲労でも仕事でも、まして彼自身の彼を憐憫する気持ちでもない、ただただ、いつか食したカップラーメンへの崇拝に似た郷愁であった。


ある寒い日、彼はカップラーメンに湯を入れる。そうして三分待っていた彼の眼前に世界は衝撃をもたらしながら展開していく。

その馥郁たる香り、味覚に訴えてくる破滅的なまでの濃い味噌味、脳内に刻み込まれた麵をすする音、湯気の暖かさ、寒天下の十時間近い労働でかじかみきった手を、強張り切った脳を、凍りかけた眼球を優しく慰め受け入れる、その全てが、裸電球の寂しい白々とした光と共に、究極の至福の形として記憶の粘つく奥底、海馬の基底にまで回路を形成してしまっていた。

もうすでに、彼の中にはカップラーメンとあたたかなもの、神聖なもの、救いのようなものは、分かちがたいリンクを形作ってしまっていた。


後に苦心の末富豪となった彼は苦しみ、そして語る。

「あの日食べたカップラーメンを超えようとして、世界三大珍味を食べたし、美女も抱いたし、挙句の果てには、スカイダイビングやら少々違法気味の薬物などもやってみたりしたのだがね、結局、あの日のカップラーメンを超える存在などなかった。カップラーメンは神だった。その宇宙にはすべてがあり、かつ、カップラーメン以外には何もなかった。世界か若しくは神を、あの日経験した私にはもうそれ以上の生きている意味はなかった。思えばあの日から私は、あの日から私はカップラーメン・ゾンビになっていたのかもしれない。失われたあの日のカップラーメンを夢想しながら、その記憶だけを切に繰り返しながら生きている、若しくは、カップラーメンだけを、それも、完全なカップラーメンとの邂逅だけを夢想しながら生きているゾンビ。そんなものは生とは言えないだろう。勿論、カップラーメンを食すこともした。できるだけあの時と同じ条件下で。同じくらいの温度と湿度、疲れ具合を再現して、何度もカップラーメンを食べたりもした。しかし、あの時だけが私の体験の中で異次元の輝きを放って、私の人生に君臨しているのだ。なぁ、私に生を返してくれよ、誰かカップラーメンを介さない生に、私を引き戻してくれないか、このままではカップラーメンしか存在しない世界の孤独に耐えられなくなって、私は発狂してしまうだろう。」と言いながら彼の牢獄に頭をぶつけ始めたので、インタビューは中断され、彼は安定剤を投与されて、拘束され寝かされた。


さて。彼へのインタビューを終えたところでふと、疑問は浮かぶ。彼が胎内回帰のようにして束の間味わったカップラーメンとは、幻覚であるか否か。もしかしたならば、彼の思い描くカップラーメンとは、彼の創造の産物であり、妄想の中でだけであったものかもしれないと。人間は、現実に存在するよりも崇高なカップラーメンの存在を脳裏に描きうる生き物である。

今瞼の裏に思い描くのは、目を閉じて神聖な三分間を瞑想のうちに過ごす彼の姿である。合掌。


胎内回帰と言ってみて思い出したのは、カップラーメンの妄想に取り憑かれた彼が、俗世間で行った商売、あれは、胎内回帰の再現ではなかったのかということである。彼が作り出した小さな世界とは、一時間いくらで借りられる小さな胎内なのではないかと思った。


モーテルを改造したその部屋の内部は、湿度を高めに、温度を低めに設定された、うすら寒い部屋である。その中に、あたたかなバスルームが存在している。その中に入りながらぼんやりと、無料でやっているテレビの流行おくれの映画を見るだけの、退屈と言えば退屈な薄暗い空間である。この発明により、彼は大富豪となった。そして、狂おしいほどにある一杯のカップラーメンの面影を求めて今に至る。


ひんやりと涼しい部屋は、胎内の象徴であり、客は暑い日などにここに入って涼を取ったという。寒い日は、無論薄暖かい。そうして胎内の比喩である薄暗く湿度の高い部屋の空間の中には、バスタブにたまった湯がある。これが、羊水のメタファーである。

その中で膝を抱えて座っていると、人はすべての世のしがらみを忘れ、原点に回帰できる。そして、ルームサービスはやはりカップラーメン。薄暗くうすら寒い部屋で、ホカホカと湯気を立てる味噌味のカップラーメンを食べていると、不思議と癒されるのだと利用客は言う。


二重の贅沢がそこにはある。暑過ぎたり寒過ぎたり、乾燥していたり湿気でじめじめした外界から隔離された、程よい湿度とひんやりした室温の部屋。これが一重目で。

次に、部屋に佇む人間は、少し肌寒くなったと、温かな湯に浸かる。これは、冬の寒い日、暖房を焚いてその暖かな部屋の中でアイスクリームを食べる、といったような、極めつけた贅沢であり、それは退廃的ですらある、一種の人工的な楽園なのである。そのバスタブの中で、人は更に暖かなカップラーメンと出会い、古ぼけた映画を観る。


その映画の主人公の男が描く郷愁とは、一杯のラーメンである。

ラーメン。映画の舞台は古代のモンゴルであり、その時代、男の故郷で盛んに食べられていたのが、ラーメンであった。一匹の羊を潰す時、ラーメンには羊の栄養素全てが、余すところなく入れられた。


羊を調理する妻の声、血を、肉を汁として、具としてラーメンに入れながら、残りを加工したり、摘み食いをする弟たち。子供はラーメンを心待ちにし、年寄りはゲルと呼ばれる家の炉端で昔話をしながらラーメンを待つ。父親は静かに酒を用意している。

草原の風、緩やかにやがてやってくる夜。男にとっては、ラーメンとラーメンがもたらす五感は彼の一切の宇宙を映し出す世界の総て、いや、すべて以上の何かであった。


一杯のラーメン。それが、男の体に入り込んでくる。視覚を通してそれは食欲中枢を支配し、男の心の内部に今まで繋がれていた人生の全ての光景を送り込む。終生それは男の内部世界に付いて回るのだ。

そう、まるで軛のように。自分自身が何者であるのかを示す羅針盤のように。体に染み付いて離れない部族のみが引き継ぐ歌のように。


今や中華の国に捕虜として囚われ奴隷として使役される男の仕事は、肉体を削るような荒行だった。炎天下で、又は、寒空の下で毎日、城壁を建て続ける。その建物は遠く離れた故郷から、中華の国へと部族が襲うことを阻む万里の長城だ。石を細かくして運び、細かくしては運ぶ。

一日の休暇も許されず、手は細かくした物たちを運ぶロープの粗さによって荒くれた物体的な、ざらざらと息づいているのか死につつあるのかよくわからないものへと変わっていった。そうした変容の間にも奴隷監督は生殺与奪という名の絶対的な鞭を持って男たちを監視し、少しでも休もうものならば、遠慮会釈なく鞭をくれる。


哀れ男は虐げられられるが、帰郷の希望をどんな時であれ決して失ってはいなかった。

延々と続く終わりなき労働と屈伏の日々を過ごす男の日々には、いつしか疲労が、強力で振りほどきがたい疲労が相棒なのか看守なのか、慰めなのか暴力なのかわからない形で付き添うようになっていた。

しかし彼を支配していたのは疲労でも仕事でも、まして彼自身の彼を憐憫する気持ちでもない、ただただ、いつか食したラーメンへの、崇拝に似た郷愁であった。


ある寒い日、彼は兼ねてより計画していた反乱を起こし、混乱に乗じて奴隷監督どもを絶命させ、仲間を率いて、遂に帰郷を果たす。そうしてラーメンに再び向き合う。

そうして待っていた彼の眼前に世界は衝撃をもたらしながら展開していく。その馥郁たる香り、味覚に訴えてくる破滅的なまでの濃い味、脳内に刻み込まれ、期待されていた麵をすする音、湯気の暖かさ、寒天下の十時間近い騎馬の強行によってかじかみきった手を、強張り切った脳を、凍りかけた眼球を優しく慰め受け入れる、その全てが、自由を再び手にした初めての朝の光と共に、究極の至福の形として記憶の粘つく奥底、海馬の基底にまで回路を形成してしまっていた。

もうすでに、彼の中にはラーメンとあたたかなもの、神聖なもの、救いのようなものは、分かちがたいリンクを形作ってしまっていた。


この物語がフィクションかどうか、知る術はありはしない。想像されたものが現実や史実、現実世界の過去と違っているから、それがなんだというのか。

確かなことは、一杯のラーメン食べたさに、人間は生きていくというそれだけの事実である。


一杯のラーメン。そいつを食べたという記憶が、いつの時代もどんな場所においても、人に希望を捨てさせない。(希望を捨てないということは、時に狂ってしまうほど、辛いことでもあるのだが。)そうして、そのラーメンを再び食べたいという欲求が、人を進化させるのである。インスタント・ラーメンが出来た時、人は、世界大戦の後、希望を持って世にうまいものを広めんとしてインスタント・ラーメンを作ったのではなかったか。

こうしてラーメンからカップ・ラーメンへ、人々は希望を語り継いできたのである。人類に於ける郷愁とは、実に食物との縁が深い。

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