第4話 進む道(3)
さて、それからの谷田は人が違ったように一心不乱に簿記の勉強に没頭した。それこそ寝食を忘れるほどだった。いつまでも漫画にうつつを抜かしていない、その様子を見て両親もホッとしたようだった。もっとも『アトム』を観て感想を送り付ける習慣だけは続けていたようだが。
秋になった。谷田は見事、簿記検定二級に合格した。これで自分の勤め先に推薦できると父親も喜んだ。そして簡単な面接を受けて、あっという間に入社が決まった。何せ誰もが知る一流企業である。皆、「コネがある奴は違うなぁ。」と羨ましがった。その事を赤松は斎藤から聞き、父親のコネがあることなど知らなかったので驚きつつも良かったと思った。斎藤らも次々に内定を貰っていたので、皆、納まるところに納まるんだなぁと感慨深く思った。
一週間が経った。赤松が午後一の授業を受けるべく十一時頃に大学に行き、軽食部に行くと斎藤とその友人三人が一つの丸テーブル席についているのを見つけた。その内の一人が谷田で、斎藤の真正面に座っていた。
「おはようございます。」
赤松が近づき挨拶すると、斎藤が
「おはよう、赤松。谷田が父親の会社、蹴ったんだってよ。」と言って肩をすくめてみせた。
「えっ!一体、なんでまた?」
「俺たちも今、本人から聞いたばかりだよ。」
赤松が谷田の方を見ると本人は赤松にニンマリとした顔をした。
「谷田さん。なんでまた?勿体ない。」
「赤松君。丁度いい所に来たね。僕、虫プロに入社するんだ。」
「虫プロ?虫プロって手塚先生の漫画映画を作る会社じゃないですか!」
「うん。そう。」
それを聞いて皆、ざわついた。
「お前、漫画描けるのかよ?」
「いや、描けない。」
「じゃあ、なんで入れるんだよ!」
「まぁまぁまぁ。皆さん、落ち着いて。」
そう言って谷田は落ち着き払って事の次第を話し出した。
谷田の話によると、今年になってからずっと自宅に籠って原作本の『鉄腕アトム』をひたすら模写して過ごしたらしいのだ。あらゆる顔の向き、角度、ポーズを描き続けたらしい。そう、簿記の勉強など一切せずに、だ。その結果、直近の簿記検定は見事に落ちたわけだ。その代りそれなりに絵は上達し、夏休み中に思い切って、その模写を虫プロダクションに持ち込み、雇ってもらえないかと直談判したらしいのだ。
しかし、如何せん、所詮は素人。模写を見て不採用。冷たい対応で、あえなく撃沈。
しかし奇跡が起きた。虫プロで面談をした人の中に谷田の名前を聞いて(おやっ?)と気が付いた人がいたのだ。
「君、もしかしてテレビの『アトム』の感想を毎週送ってくる谷田君?」
「はい。読んでくれていました?」
谷田はその事がばれて大いに照れたらしい。
「勿論だよ。子ども達からのお便りが多い中で君のような青年が感想を送ってくるのは珍しいし、熱心に観てくれているのが伝わってくるからね。」他の社員も表情が柔和になり
「そうか。あの谷田君か。いや、本当にありがとう。ご意見、参考にさせて頂いているよ。」
「そうですか。良かった。あの、手塚先生は読んでいるんですかね。僕の感想。」
「毎回じゃないと思うけど、読んでいるはずだよ。」「ああ、特に最初の頃は視聴者の反応を知る為にお便りに目を通していたから。間違いなく読んでるよ。」
それを聞いた時の喜びといったら!谷田は天にも昇る気持ちだったらしい。そこで谷田は図々しくも手塚先生直筆のサイン色紙をねだると、近く送ってくれると約束してくれたそうで、帰り際には見学ぐらいならまた来ても良いとまで言われたそうだ。つまり、そうやって、しっかりパイプを繋げたのだった。
それで谷田も原画製作を潔く諦めたわけだが、やっぱり父親の会社に就職する気になれず悶々とした日々を送っていた時に斎藤、赤松と共に観た映画『日本一のホラ吹き男』に触発されたのだ。そう、あの主人公・初等(はじめひとし)のバイタリティに。一度、入試に落ちた後、めげずに社長の個人的運転手になり、そこから社長に認められて入社を目指すという他の人には思いつかないような手を見て(これだ!)と思ったらしいのだ。
そこから谷田は真剣に簿記検定二級の試験勉強に熱がこもった。目標ができると集中力も違う。そして見事合格。一応、父の顔を立ててコネ入社の試験を受けてそちらも合格したわけだが、谷田の目的は違った。直ぐに
虫プロダクションに連絡をとって見学に行くとなんと手塚先生自ら出迎えてくれたらしいのだ!そこまで聞くと赤松らは羨ましがった。
「谷田君だね。ようこそ。いつも感想をありがとう。」そう言って先生はサイン色紙を手渡してくれたそうなのだがそこで谷田はすかさず持参したB4サイズの封筒を手渡し
「先生にどうしても見て貰いたいのですが。」
そう言われて先生は封筒の中身を取り出し首をひねったらしい。
「……なんです?これは。」
「簿記検定試験二級の合格証書です。」
「?」
「僕を虫プロの経理部に雇ってもらえないでしょうか。」
それを聞いて先生は大笑いしたそうだ。
「僕はてっきり漫画の原稿を見て欲しいのかと思ったよ。」
「そちらは前に不合格になっていますから。」
「いや、驚いたな。変わっているね、君。」
「先生。僕は『アトム』も漫画映画も大好きなんですが、如何せん絵の才能がありません。だから自分のやれる事で貢献したいんです。お願いです。入社させてください。」
そう言うと先生は困った顔をして
「特に今、そちらの方は募集していないんだけど。……」と言いながらも谷田の熱意にほだされたのだろう。後日、採用通知が来たのである。どうやら近い将来、商事会社を設立するらしく、その経理部要員として事のようだった。
そこまで一気にしゃべると谷田は本当に幸せそうに笑った。
「手塚先生にまで変わっていると言われましたか!」赤松は嬉しくなってしまった。だが斎藤達四年生はそう呑気でいられないらしく心配顔で尋ねた。
「親父さんの方は大丈夫なのか?」
「うん。勘当された。」
谷田が軽い調子で言ったので皆、一斉に驚いた。
「勿体ない。どっちが将来、安定しているか分かっているのか?」
「給料だってどんなもんなんだ?」
「福利厚生もだよ。休みなんか、まともにとれるのかい?」
皆、口々に疑問を呈した。
「別にそんなもの大した問題じゃないよ。」
谷田はそっけなく言った。
「やっぱりお前は変わっている。」
斎藤は信じられないといった調子で言い、溜息をつくと谷田はお構いなしと言った風情でニンマリした。赤松はその泰然自若な佇まいに感動した。そして誰が何と言おうと、自分の好きな道を行こうとする谷田を尊敬すらしていたのだった。
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