3-⑧
一方の亜椛は床に書かれた文章を読み始めていた。明かりをつけずにいたせいか、明暗の具合で掠れる部分も多く、最後まで読むのを断念して視線をあちこちに向ける。
そして机の上に置かれた、洸吉の母からの手紙を見つけた。
以前、どんな人柄だったかを長々と説明を受けた事がある亜椛とって、言動は冷たいが芯は温かいと言う印象を持っているまま。
手紙を手に取り視線を横へ下へと移していく。「------悪い人なんていないからか……」
亡くなる前に書いていた文章にしては気丈に振る舞っていて、洸吉との全てを思い出しながら明るく締められている印象を彼女は持った。
そして、洸吉は手紙を読んで何を思ったのだろうかと。
机の上には手紙のほかに一冊のノートが置いてあった。ページを開く直前、何となく開けてはいけない気がしたが、先制を取ったのは好奇心。薄暗い部屋で亜椛は椅子に座り、少しの漏れ日を頼りに読み進めていった。
何故あの日、洸吉はベランダから飛んだのか。そんな理解できそうにもない非現実な難題も、この日記を読み終えた亜椛には答えが出ていた。数分前に洸吉が言っていた〝やらなきゃいけない事〟はきっと、母親も望んではいなかった生き方と似つくもの。
亜椛はノートを元の場所へと戻し、静かに部屋の扉を閉める。そしてリビングで俯く洸吉に「私は嫌いになれなかった」と伝え、彼女はそのまま家から出ていった。
マンションの外階段を使い、一段一段をしっかりと踏み締めて下りていく。手すりは冬風に当たり、そっと触れるだけでも冷たさを感じる。
亜椛は二階を過ぎたくらいで、過去の出来事を何気なく思い返し始めた。平凡と言うには失礼が過ぎる世の流れ、そんな中で幸運にも生活は何一つ変わらなかった。
声が人より大きいくせに、実際には人の芯には全く届いてはくれない。頼られた事も悩みを打ち明けられた事も無い生涯で、さっきも洸吉は何一つ明かしてはくれなかった。人生を楽観視する性格故、涙を含む青色の感情に寄り添うことは何よりも難しくある。
死んでいった若者が何を考えて決断したのか、どんな文献や遺書を読んでも納得には持っていけない。それでも洸吉をなんとか普段通りに戻そうと、図らず足掻いてみたが頼りにはなれずに家を飛び出してきた。階段の踊り場で亜椛は幾つかの情報を元に、洸吉が飛び降りるまでの行動を思い返す。
何も聞かされないのなら、答えを知るまで探すしかない。黙って読んだノートに書かれていた、直近数週間分の日記を洗いざらい思い返し始めた------
[十一月中頃]
異変を感じたのは誕生日を過ぎた時からで、その日を境に亜椛も会っていなかった。
このタイミングで洸吉は母親からの手紙を読み、無くしていた記憶を全て取り戻す。過去に書いていた日記の事やとある友人の存在。更には母親と過ごした良好な記憶も全て、あの瞬間に思い出したとノートに日記として書かれていた。
そして日続きで街へと出て、酒瓶を抱えて蹲る老人を蹴り飛ばし、バイト先では慕っていた本郷を思い切り木板で殴っている。それも全てはある目的の為に過ぎないと意味深な書き込みが追加されていた。
[十一月下旬]
そして------ベランダの四階から洸吉は飛び降りる。その理由は母親への後悔を払拭する事と、ある友人のためだと日記には書かれていた。この日より前には亜椛も何度か家前を訪れていたが、一才の反応を見せずに拒まれていた。
ただ、上手くいかない事の方が世の中には多い、と錯覚するほど良くできている。人には限界があり、飛ぶ瞬間の恐怖心はそれらをゆうに超えていた。
しかし死んでいった多くの若者はこんな経験、こんな景色を見ていたのかを知れただけでも飛んだ価値はあり、頬から血を流した価値は十分にある。と瞬間の感想までもが事細かに書き残されていて、意味があって行為に及んだことが推測できる。
そして亜椛が洸吉の家に訪れた際に、部屋の床に書かれていた数行の言葉。まるで一連の奇妙な行動のイコールのような、彼女は無性に悔しくてたまらなかった。
だが何より、洸吉自身が「俺は生きる気で飛んだ」と口にしていたこと。それだけがこうして理性を保てる唯一の希望、亜椛はこの先に起こる事を全て理解していった。
マンションの外階段を下り終え、抜け道のゴミ捨て場を通って帰路に着く。
------やっぱり、亜椛は〝詩〟を好きには慣れそうにない。
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