第4話 日本にもあった、こだわりの宗教
<私の好きな宗教:信者ではありませんが>
宗教というからには、これくらい確固とした「ポリシー・信念・こだわり」がなければ、坊主も信者も「極楽へ行く」のは難しいのではないか(不受不施派の目的が、イスラム教のように「天国へ行く」ことなのかどうか知りませんが)。
中央公論社刊「日本の歴史 13 江戸開府 辻達也」より
<引用開始>
日蓮宗不受不施派への弾圧
ほとんどすべての仏教各宗派が、江戸時代においては権力者に服従しその保護を受け、御用宗教として、走狗の役割を演じていたなかに、ただ一派、あくまでも権力者に服せず、キリシタンと同様、徹底的に弾圧されたものが日蓮宗の中にある。
事の起こりは豊臣秀吉(1537~1598)の時代にさかのぼる。
文禄四年(1595)9月、秀吉は亡父母の霊を弔うため、東山大仏殿において法会をいとなむため、天台・真言・律・禅宗五山・日蓮・浄土・一向・遊行の八宗から各百人ずつの僧を招いた。これを大数をとって千僧供養という。
これについて日蓮宗の中で紛争が起こった。豊臣秀吉は日蓮宗の信者ではない。日蓮が「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と、他宗信仰はかえって罪悪を深めると攻撃して以来、日蓮宗では他宗の者を謗法者(ほうぼうしゃ)、つまり仏法をそしる者とみなす。その謗法者のおこなう法会に出仕して供養を受けるときは、承ずから謗法の罪におちいるという意見が起こった。
そこで各寺の長老たちが京都六条本圀寺に集まって相談した。大勢は「もし秀吉公の命を拒んで出仕しなかったならば、寺をこわされてしまうかもしれない。とにかく一度は出仕しよう」ということになった。
これに対し京都妙学寺の日奥(1565~1630)は「もし祖師日蓮以来の制法を一度でも破って謗法者の供養を受ければ、永久にわが宗義は崩れてしまう。たといどんな大事に及ぶとも、法は重く身命は軽い。宗義の制法を堅く守るべきだ」と主張した。
これを秀吉は耳にして、たとえ祖師の法度といえども、公儀の命令は格別であるから出仕せよと命じた。そこで日蓮宗の一同出仕することになったが、日奥はあくまでも拒否し、寺を飛び出して丹波にかくれながら、その後ずっと大仏出仕の連中を攻撃しつづけた。
大仏殿の千僧供養は豊臣氏滅亡(1615年)まで毎年おこなわれ、日蓮宗の僧もそのつど供養を受けたが、日奥は出仕しない。
謗法者の供養を受けないので「不受不施(ふじゅふせ)」といい、他の日蓮宗を「受不施」という(日蓮宗は他宗信者に功徳は施さないから不施という)。
専制君主の治下にあっては、その恩恵を辞退する自由もない。
徳川家康(1542~1616)も秀吉と同様、不受不施派の存在を許すものではなかった。
慶長四年(1599)11月、家康は日奥を大坂城に招き、「ただ一度でよいから大仏殿の千僧供養に出仕せよ。他宗の僧と同席がいやなら別席にしてもよい。飯を供養されるのが迷惑ならば、膳に向かって箸を取るまねごとでもよい。また後日、人に批判されることを懸念するならば、宗旨の疵(きず)にならぬように、なんとでもおまえの好きなような文句の書付を書いて渡そう。どうか一度だけ出仕して供養を受けよ」と、奉行衆を通じてさとした。
なだめすかして命に従わせようとしたのである。しかし日奥は承知しなかった。
そこで日奥は家康の前に引き立てられた。そこには受不施派の日紹などがいた。
ここでしばらく問答がおこなわれたが、日奥はあくまで妥協を拒否し、謗法者を折伏するのみだとがんばった。
ついに家康は「上意によって仰せつけられる大仏出仕を拒否するならば、伯夷・叔斉が周の天下を嫌って首陽山に餓死したようにすべきだ」といって、日奥の袈裟をはぎ取らせて城から追いかえした。そうして翌年五月、日奥を対馬へ流した。
対馬の山の中にあっても日奥は意気軒昂たるものがあった。
「自分にとっては諸寺の悪僧、わけても家康将軍と亀屋栄任(家康の側近にいる呉服師亀屋栄任が日奥処罰を家康にたきつけたらしい)は第一の善知識だ。かれらのおかげで法華経の真意を体得することができた。この島は日本と朝鮮との境だから、高麗・大唐までもわが法を伝えるのだ」と。
こうして配所にあること13年、慶長十七年(1612)に至って、板倉勝重の斡旋で赦免され、京都妙覚寺に帰った。家康も、このがんこな法華行者にはあきれてしまったのだろうか、日蓮宗に限って、遂にその一生の間、法度を下さなかった。
しかし、寛永七年(1630年)、受不施派と不受不施派との争議から、再び日奥は対馬へ流され、そこで死んだ(1565~1630)。
・・・
この日蓮宗不受不施派とは、その後も幾度か幕府の弾圧をうけながら、明治まで隠れキリシタンのように、とにかく絶えずにつづいている。別に権力に反抗する社会的な基盤というものをもってはいないようであるが、近世仏教界においては、はなはだ特異な一派である。
中央公論社刊「日本の歴史 13 江戸開府 辻達也」 1974年4月1日 初版 P.306~P.310
<引用終わり>
2024年9月30日
V.2.1
平栗雅人
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