第2話 人間の宗教と神の宗教

旧仏教や韓国系の新興宗教(創価学会・統一教会)は、釈迦も池田大作・何とかつるこも、みな教組は人間です。

一方、キリスト教やイスラム教の教組(礼拝の対象)は神(非人間)です。

イエス・キリストやモハメッドは共に人間ですが、神の預託を受けた預言者(予言ではなく、神の言葉を人間に伝えるための伝道者)ということです。ですから、あくまでも信仰の対象は(目に見えない)神です。

人間を祀る宗教と神を信奉する宗教の違いは、その徹底性にある、とは今回の約1時間のモスク訪問で強く実感したことでした。

○ 禅宗における五体投地とは、いかにも形だけやっているという自己満足的な祈りですが、イスラム教徒の場合は徹底して神に自分の心を近づけるという絶対性が感じられる。やはり、釈迦という3,000人の後宮(大奥・ハーレム)ですごし、妻も子もあった自分と同じ人間という無意識の意識が、仏教坊主の五体投地を「軽く」しているのでしょう。

一方、信仰の対象が神となれば、いくら神の(形而上的)姿を追求(哲学)しても、し尽くすことはできない。絶対的・確固とした存在でありながら、永遠にその姿を見る(理解する)ことができない。ここに、西洋及びイスラム教世界で、神の追求という真理が哲学となり、文学となり、絵画や音楽(バッハ)となり、科学の発達となったのです。

ギリシャ時代から西洋で哲学が盛んに行われていたにもかかわらず、日本ではキリスト教が入ってきた明治以降、多少の哲学的思惟が行われてきた程度というのは、究極的な追求目標が神か人間か、という根本的な違いがあるからなのでしょう。

早い話が、イスラム教徒というのは全員が日本の坊主以上に信仰心(神を追求する心が強い)ということです。

私は死ぬ時は野垂れ死にでかまわないと思っています(「われ死なば、焼くな埋めるな野に打捨てて、飢えたる犬の腹を満たせよ」)。

しかし、もし「引導」を渡してくれる人がいれば、キリスト教であれば鎌倉教会の○○○○○という、聖書をしっかり読んだ人間(牧師)か、徹底して神を意識できるイスラム教徒にやってもらいたい。もちろん、私はキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので不可能ではありますが、気持ち的にはそうです。

まあ、仏教のいう輪廻転生ではなく、神の摂理(大自然の原理原則)というアルゴリズム・プロセジャーに自力で乗るつもりで今を生きている私としては、キリスト教もイスラム教も不要なのですが。

続く

2024年9月29日

V.1.1

平栗雅人

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰も言わないイスラム教の真実 Part 2 V.1.1 @MasatoHiraguri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る