誰も言わないイスラム教の真実 Part 2 V.3.4

@MasatoHiraguri

第1話 モスクでの礼拝見学

  2024年9月27日(金)13時~14時まで、奈良のイスラム教モスクで行われた礼拝を拝見させてもらいました。

人間の宗教である仏教の中で最も人間くさいといわれる臨済宗を6年間、坊主として体験した私が、初めてこの目で見た神の宗教でした。

鎌倉に住んでいた頃にお目にかかった、熱心に聖書を読むことで神に近い人間となったと感じさせられた、ある教会の牧師さんは別にして、個々人の信者の励む信仰心という点では、イスラム教徒の方がずっと強い、と感じました。

コロコロ変わる人間ベースの仏教と、神という絶対を意識する宗教とでは、それぞれを信奉する人間の重み・質量に差が出てくるのはやむを得ない。

かといって、私は私なりに神というか本来の自分に近づく努力をしているので、仏教にもキリスト教にもイスラム教にも入信するつもりはありません。

ただ、今回、「内なる神という自分」に近づこうとしている彼らイスラム教徒を見ることで、私自身が行っていることは決して間違いではないという確信を得ることができたのは、大きな収穫というか励みとなりました。

結論として;

○ キリスト教に近い浄土真宗を除けば、イスラム教(私がこの目で見たイスラム教徒)の方が、仏教に比べて圧倒的に存在感がある(人間としても宗教儀式にしても)。

○ 在日韓国人の宗教である創価学会や統一教会なんて、(イスラム教に比べれば)もはや宗教ではなく、単なる利益共有の為の秘密結社程度の存在、としか感じられない。

「信仰心から税金は取れない」という原則によって宗教法人が無税という論理からいえば、イスラム教こそまさにそれに該当するし、一方で、これら新興宗教とはそれに該当しない。それくらい、信仰心に関しての差が(イスラム教と創価や統一とでは)大きい。

○ 天国とか極楽というのは死んでみなければわからないことなのですが、生きている間における信心の強さ(信仰心の篤さ)によってそれが決まる、というのであれば、彼らは最も神に近い場所にいる、といえる。5分から10分かかる祈り(五体投地)を毎日5回欠かさず行い、毎週一度はモスクまで来て皆と一緒に祈ることで、更にその篤い信心を厚くする。そんじょそこらの仏教坊主には見られないほどの真剣味・人間としての迫力・信仰心の重み由来の重厚感が、今回の礼拝の出席者全員に感じられました。

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約1時間の礼拝における一連のプロセジャー(手順)はありますが、13時から13時30分頃まで、参加者はてんでバラバラに(絨毯敷きの)礼拝所に入ってきます(礼拝所脇の洗面所で手と足を洗ってから)。

勝手に自分の位置に立つと、それぞれが例の五体投地を行ってから、伝道師(教誨師)の話(アラビア語・英語・日本語各5分間ずつ同じ内容)を座って聞きます。私などとうの昔にできなくなった正座をしている人もいます。

最後の15分間だけは、全員が揃って同じ行動(礼拝作法)を行います。ここで、毎日5回の祈りを通じた個人と神とのつながりが、集団と神との連帯となり、全体の一体感が完成する、というわけです。

モスクには男性と女性の入り口が2つあるのですが、モスクにおける礼拝に女性の参加義務はないのだそうです。たしかに、女性が五体投地をしているすぐ後ろに男性がいたら、神との対話どころではなくなってしまうでしょう。ですから、女性は家や職場で、それぞれ自分(たち)だけで礼拝をされているようです。

男性たちはイスラム教で休日と定められている金曜日に、それぞれの勤務先で休みを取りモスクに集まるのだそうです。今回は約50人。畳30畳敷きの広さの7割が埋まりました。

私は京都や鎌倉の大きな寺(禅宗)で、坊主数十人が本堂の中を歩きながら勤行(お経を読む)するという光景を何十回も見ましたが、形式・様式は似ていますが、幾つかの点で明確な違いがありました。

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