第5話

試験が近くなると、クラスは大きく二分する。勉強に集中して時間を使うものと、勉強に力を使えない自分を守るために動くもの。

 英語のテキストを開いていた律に、クラスメイト数人が声をかける。 


「律、勉強してんの?」


「3年も近くなるし、ちょっとしようかなって」


「えーやめてよ、下に律がいるって思わないと安心できない」


 毎回恒例のものが始まった。

 下には下がいるという話で安心させなければいけない。


 周りには勉強している人が大勢いるのに、律に声をかけて、そしてこの言葉を聞こうと必死に話を進めていく。

 もう律は言い慣れていた。


「いいじゃん。どうせ私なんて勉強してもみんなより上いけないよ」


 いやいやと言いつつ盛り上がって、やっていない自慢をしてくる。

 今日はもう退散した方が良いか。いつも言っているはずなのに、なぜかその言葉で一気に疲れてしまった。

 教室を出ようと立ち上がったのに、律を逃さまいと新しいトークテーマが始まる。

 

「ずっと聞きたかったんだけど、早見と付き合ってんの?」

 

「付き合ってないけど」

 

「本当?でも郁人君は興味ありそうだよね、仮にもそういうことになったら、どうすんのよ律」


 そう聞く生徒の横に、先ほどからあまり話さない女子生徒が立っている。以前この生徒が郁人が好きと言っているのを聞いたことがあった。

 わかっている。私がどう返したら、あなたのその目が穏やかなものになるか。

 

「やだな。ちょっと私みたいな底辺に興味あるだけでしょ。もうそういうのいいからさ、解散解散」


 自分は上である。そう思えばたとえ好意が向かなくても、自分を保つことができる。

 そういう生き物が、学校生活では一定数、存在する。

 予想通り、律の言葉を聞いて安心したように口を開く。

 

「そうだよね、あんた男に興味なさそうだから安心できるわ」


 クラスメイトの声が酷く遠く感じる。胸のあたりが凍り付いたように冷たい。

 

 私は成績が悪く、媚を売らず、人の恋愛ごとには関わらず、ましてや恋なんてしない。

 そうやって自分を守ってきた。

 でも最近、それで本当に自分は守られているのか疑問に思うことがある。

 一人になろう。また逃げて、律はあの廊下へ向かう。


 呼吸を落ちつけようと深く息を吸うが、マシになった気はしない。

 別に何かされたわけでもなくて、悲しいのか泣きたいのかもわからない。

 

 しばらくして、足音が聞こえる。

 現れたのはやはり郁人であった。

 

「浅川さん」


 律は振り返らない。

 どうしてか今一番聞きたくない声だった。


「帰って」


 いつものように無関心で、無気力で、冷たく言い放つ。

 そうしてまた胸が苦しくなる。どうしたら良いのかわからない。

 こんな姿、いつもの自分ではない。見られたくない。


 郁人が呟く。


「君って本当に不器用だよね」


 その言葉に対する反抗も、この場から逃げる気力もない。

 無視をしていれば去るかと思ったのに、郁人の気配は近づき、気づくとあの時と同じ柔軟剤の香りと、人の温かさに包まれた。

 ちょっと押せばすぐに離れそうなくらい、そのぐらい優しく郁人の手が背中にまわる。

 

「君はこんなに素敵で、僕はどうしようもないくらい惹かれているのに。その人を勝手に傷つけないでよ」


 郁人の言葉に、ふと律はつかえがとれたような感覚になった。

 氷のように冷えきった心が、じんわりと暖かくなる。

 気付けば息ができるようになり、苦しさが消えていく。その代わりに溢れそうになるものを律はぐっと堪えた。


 中学生の時、二股をかけられた。そういうこともあるよなと、男にはむかついたがそれですませていた。

 しかしもう一人の女子生徒と律の間で、何か話のズレが生まれたのだ。それはどんどん大きくなり、やがて大人も巻き込み大きな騒動になる。ただの一つの恋が、律の学生生活を孤独に追いやったのだ。

 あらためて思い返すと、思春期に踊らされた馬鹿な出来事だ。

 でももしかしたらそれからずっと、他人に傷つけられるのが、孤独に追いやられるのが怖くて。勝手に一人になり、自分自身で傷つけてたのかもしれない。


 力が抜けて、律はされるがままに体を預ける。

 

「なんで私より私のこと知ってんのよ」


 郁人はさも当然のようにさらりと返す。


「ずっと好きだから」


「そうだったね」

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