第3話

それから郁人は時折、律に話しかけることがあった。別にストーキングされているわけではないし、律の態度で引き下がる。

 その日も適当に冷たい態度であしらっていたが、廊下を通った時にある噂話が耳に入る。


「ねえもしかして、郁人くん律に興味あるのかな」


「どうだろうね。でもやっぱ一度は惹かれるんじゃない?自分とは違う感じに」


「ええーあたしも不真面目馬鹿になろうかな」


 冷たい何かに胸を刺された気がした。

 律は自分でも気が付かないまま、その場を去っていた。人目がないところに逃げたい気持ちでいっぱいになる。

 そうして向かったのは旧校舎への渡り廊下。もう旧校舎は取り壊されているので、廊下は中途半端にきれており、用もないので基本的には誰も来ない。

 律ともう一人を除いて。


「どうした?」


 寝そべっていたのは本郷ほんごうという生徒だ。彼は遅刻、サボりの常習犯で、時折ここで会うことがある。

 律の数少ない話し相手だった。


「ごめん、いたの」


「もう行くけど、珍しいなこんな時間に……もしかして早見郁人か?」


「あんたまで知ってるなら、そりゃそうなるよね」


 噂は思ったより広がっているらしい。


「あいつ財閥の息子って噂もあるし、玉の輿だな」


「うっさい」


 律が座り込む。


「別に嫌なら気にしなきゃいいだろ」


 それは分かっている。分かっているが、この学校という狭い人間社会の中で、何がどうなるかはわからないのだ。

 大抵のことは噂話で終わるだろうが、少しのきっかけで大事になることは身をもって知っている。


「ああ面倒くさい」


 寝そべる律。


「生きるの大変そうだな」


「本郷もね」


「はいはい」


 寝そべる律を残し、その場を後にする本郷。

 しばらく歩いていくと、曲がり角で人にぶつかりそうになる。


「ああ、ごめん」


 郁人である。そのまま本郷が来た方へと向かっていった。


 廊下だからやはり寒い。

 しかし今は教室に戻る気分ではなかった。スマホでも持ってくればよかった。

 律は横になったまま、体を抱きしめるようにして目を閉じる。

 しばらくそうしていると、足音が聞こえて、それは次第に近くなっていく。

 律は寝たふりをして通そうとするが、引き返すどころかその足音は真上で止まる。

 服のすれる音がして、律の体にふわりと何かが掛けられる。

 上着だろうか。冷えた空気が消えて、どこか安心する香りに包まれる。

 拒否したいのに、落ち着く。

 しばらくそうしていたが、その人物は横に座るだけで何もしてこないし、話しかけもしない。

 ようやく目を開けば、そこには予想していた通りの人物がいた。シャツとニットベストだけの姿は少し肌寒そうだ。


「寒くない?」


 人がいないからか、律は自然に話しかけることができた。

 聞いておいて自分で少し驚く。


「大丈夫だよ、ありがとう」


 郁人は外の様子を眺めている。

 日の光に照らされた横顔はイケメンとか格好良いではなくて、綺麗という言葉がふさわしい。


「ねえ」


「ん?」


 こちらに目線を動かす郁人。


「なんで私のことを好きになったの?」


「言わない」


「どうして」


「きもいって言われるから」


 律は以前、告白されたときにそう返したことを思い出す。

 それを見て郁人が笑う。


「ごめん、いつか言うよ」


 いつか、まだこの関係を続ける気なのだろうか。


「僕からも聞きたいんだけど、どうしたら君は僕と対等に話してくれる?」


「話してるじゃない」


「そんなことない。だって君の中で、今の僕は友人以下だろう」


 まあ、そうだけど。

 律は仰向けになって考える。

 自分は臆病だ。すごく保守的で、だから火種になりそうなことを極力避けて、まるで何も興味がないかのように高校生活を送ってきた。


「そうだな」


 どうしたら彼と普通に話せるか。


「私が絶対的な存在になれたら」


 郁人は律の言葉を待つ。


「誰も私に口を出せない。何の恐れもない状態」


 言葉にして、自分でもどういう状態なのだろうと疑問に思う。

 しかし郁人は真剣に聞いていた。


「いいよ」


「え」


 郁人は酔いそうなほどやさしく甘い声で言う。


「僕が叶えてあげる」

 

 おとぎ話の魔法使いのような言葉。

 予鈴がなって現実に引き戻される。

 立ち上がり上着を返す律。


「上着ありがとう。じゃあね」


 去ろうとする律を止めるように、腕を優しくつかむ郁人。


「叶えたら、僕を恋人候補にしてくれる?」


「もし、叶ったらね」


 郁人は満足げに微笑むと、手が離される。

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