エピローグ

第38話



 鬱蒼とした森の前でシンシアは佇んでいた。

 後ろには心配そうにこちらを窺うリアンとヨハル、そして護衛騎士の姿がある。


「本当に一人でネメトンへ行かれるんですか? 守護の神官をつけて向かった方が良いと思いますよ」

「大丈夫よリアン。リアン特製の魔物対策の道具もばっちりだから、自分の身くらい自分で守れるわ。今から一瞬だけ守護の結界を解くから魔物がこちら側に来ないか注意してね」


 シンシアは自分が通る部分だけ結界を解くとネメトンに足を踏み入れた。同時に、背後に何かの気配を感じる。

 不思議に思って後ろを振り向くも、向こう側に魔物が侵入した様子はなくヨハルたちがいるだけだ。

 単なる気のせいのようだ。



 シンシアは自分自身の周りにも結界を張ると、皆に手を振って目的の場所へ向かって歩き始めた。


 一連の騒動の後、ベドウィル伯爵と一族はキーリによって捕まった。伯爵の屋敷からは黒魔術の写本や魔瘴核の欠片、そしてその研究にまつわる書類が大量に見つかった。

 これから余罪の追及が行われるが、既に数々の罪を働いていることから重刑は免れないだろう。


 一族の中でただ一人、ルーカスだけはイザークではなくヨハルによって先に裁かれた。



 リアン曰く、イザークよりも敬愛するヨハルに裁かれる方がよっぽど身に応えるからだという。

 当然のことながらルーカスは階位を剥奪され、組紐文様の肩掛けは没収された。魔力濃度が薄くて魔法が使えない辺境地の教会で一から修練を積むことも決まった。


 ルーカスは真摯にそれを受け止めると夜明け前に中央教会を去って行った。

 見送った時、ルーカスはさっぱりとした顔でシンシアに謝ってきた。

 もちろんシンシアはルーカスのことを許すつもりでいたが、口を開く前に彼の手に遮られてしまった。一からやり直して戻ってくるまで許しの言葉はお預けだと言うので、それに従うことにした。



(ルーカス、修道士になってとっても良い顔つきになった。きっと予言者にならないとヨハル様に見向きもされないと思って不安だったのかもしれないわ)


 別れ際に見たルーカスの笑顔を思い出して自然と笑みがこぼれる。きっともうヨハルの愛情に不安を感じることはないだろう。

 背筋を伸ばして旅立ったルーカスのことを思い出していると、不意にイザークの姿が頭を過る。その瞬間、シンシアは眉尻を下げた。


(イザーク様はあれから元気、なのかな……)



 ネメトンから宮殿へ帰還した後、シンシアは中央教会へリアンと共に帰された。それ以来、イザークとは一度も会っていない。


 教会へ帰される直前にシンシアは自分の身がどうなるのか本人に尋ねた。不敬を働いた上、呪われたとはいえ猫の姿でイザークを欺していたのだ。すぐに処刑されてもおかしくない。


 身構えていると、イザークはこちらに背を向けたまま「何も咎めることはない」とそれだけ言い残してその場から去ってしまった。



 彼のことを好きだと気づかなければ、絶対にこの状況を喜んだと思う。

 しかし今のシンシアは違う。彼に抱いてしまったこの感情を無視できない。だから彼にもう一度会いたかった。


(事情を説明してきちんと謝りたいけど、あれからヨハル様経由で謁見をお願いしてもやんわり断られてる)


 深い溜め息を吐いていると気づけば目的の場所――泉の前に到着していた。

 相変わらず泉は淀んでいて瘴気が発生している。


 物思いに耽りながらじっと観察していると、突然横から狐の姿をした魔物がシンシアに襲いかかってきた。


 くわっと開いた口には何本もの鋭い牙が揃っている。下手をすれば腕を噛みちぎられそうだった。

 しかし、狐は空中で見えない壁に顔面を強打してそのまま地面にずり落ちる。

 結界を張っていたので狐はそれにぶつかったのだ。

 驚いたシンシアは悲鳴を上げた。


(こんなところで考えごとをするなんて不用心だわ。今は目の前のことに集中しないと、この間の二の舞になっちゃう)



 シンシアは提げていた鞄からリアンに持たせてもらった痺れ玉を取り出すと、狐の口目掛けて投げ入れる。見事口の中に薬が入ると、たちまち狐はその場に倒れて動かなくなり、きゅうっと悲しげな声を上げた。


「さすがリアン。魔物にも薬が良く効くみたい!」


 感心しながら手に持っている小さな革袋に視線を向ける。

 リアンはあれからも精霊魔法が使えることは伏せている。きつく口止めされているのでヨハルすらも知らないだろう。


 当然のことながらシンシアは彼女の意思を尊重するつもりだ。


(鉄の掟も正しく訂正されるし、今後リアンが精霊魔法を使うようなことはないと思う。だから、リアンにはこれまで通り過ごして欲しいな)



 誤った内容の鉄の掟が広まっていたせいで、魔王の核の浄化が何百年と滞ってしまっていた。ヨハルが原本を読み直してくれたおかげで露呈し、改訂されることが決定した。

 これによって、今後は数代にわたって聖女が魔王の核の浄化にあたるのだ。

 シンシアは泉の中に佇む魔王の核をしげしげと見つめた。


(確かにこんなに大きいと一人で浄化し切るのは難しい。でも改訂された鉄の掟が広まって定着すれば、次の聖女に受け継がれて同じように浄化してくれる)


 そうすれば漸くこの森にも安寧が訪れるだろう。

 シンシアはティルナ語を詠唱して大規模な浄化の魔法に取り掛かった。



 虹色の光の粒が現れはっきりとした組紐文様が魔王の核の真上に浮かび上がる。

 渦巻き状に動き始めた粒が泉の上の黒色の瘴気が一掃すると、次に魔王の核を包み込む。

 光の粒が次第に消えてなくなると、紫色だった魔王の核は少しだけ青みを帯びたような気がした。


(泉の水を重点的に浄化したから瘴気は暫く発生しないはず)


 淀みが消えた泉を見て、シンシアは目を細める。

 うーんと伸びをしてから振り返ると、いつの間にか狐の魔物が増えていた。



 浄化に集中していたので気にしていなかったが、どうやら先程の鳴き声は仲間に助けを呼ぶためのものだったらしい。数匹以上の狐の魔物がこちらの様子を窺いながらうろうろとしていた。中には中級以上のものも数匹いる。

 シンシアは数歩後退った。


「こんなにたくさんだとリアンの薬が足りないよ!!」


 自分は守護の結界を張っているので大丈夫だが、問題は帰る時だ。ネメトンの結界を一旦解いてヨハルたちの元へ戻るため、そうなると自分が通る時に狐の魔物の侵入を許してしまうかもしれない。

 ヨハルや護衛騎士がいるから問題ないのかもしれないが狐の魔物につられて他の魔物たちが寄ってきても困る。


 どうしようか悩んでいると、リーダー格の狐が一鳴きして一斉に飛びかかってきた。すると、すべての狐が横風を受けて吹き飛ばされてしまった。

 次に俊敏な黒い人影が動いたかと思うと、それは正確に剣で狐の急所を刺して仕留めていく。



(護衛騎士がここまで駆けつけてくれたの? でも彼は精霊魔法の守護が使えないからここまで辿り着けないはず)


 立ち竦んでいると、茂みをかき分ける音が聞こえてくる。

 鬱蒼とした木々の間から現れた黒い人影の正体――それはイザークだった。


「イザーク様? どうしてこちらに?」

「どうしてって、俺はシンシアを守るために最初から側にいたが?」

「ええっ!?」


 シンシアは目を見開いた。ネメトンに入る直前で感じたあの気配はどうやらイザークのものだったらしい。

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