第39話
皇帝陛下が直々に護衛とはなんとも畏れ多い。
シンシアはさっと顔を強ばらせると一礼して謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ございません。陛下にとんだご迷惑を……」
「皆まで言うな。これは俺がやりたかっただけのこと。気にしないでくれ」
イザークは頭を下げるシンシアの両肩に優しく手を置いて上体を起こすように促した。次に彼はシンシアから離れて泉の側まで歩いて行く。
瘴気のなくなった泉を一目見て「空気が随分澄んだようだ」と嬉しそうに言った。
シンシアはイザークの後ろ姿を見ながら指をもじもじとさせていた。
折角謁見の機会が巡ってきたというのに、いざ目の前にするといろいろな感情が込み上げてきて何から話を始めて良いのか分からない。
それに加えて今日のイザークはいつもの極悪非道な顔つきとは違い、ユフェの時のように穏やかで柔らかな雰囲気を纏っていた。それは却ってシンシアを困惑させた。
どう話を切り出すべきか悩んでいると、イザークが先に口を開いた。
「森の宴を贈っておいて正解だった。あれのお陰で居場所が分かったんだ」
「あ……」
シンシアは祭服の下にある森の宴に手を置いた。これはイザークが猫であるユフェのために贈った品。
シンシアは呪いが解けて猫ではない。もうユフェではないのだ。
(これはお返ししないといけないわ。いつまでも私が持っているのはおかしいから)
服の下から森の宴を取り出そうと手を伸ばせば、イザークに手首を掴まれる。
「この石は別名『精霊の
イザークは服の下に隠していた森の宴のペンダントを取り出してみせる。それはシンシアが身につけている森の宴とそっくりだった。
「これが秘宝と言われる所以はな、魔力を注入すれば相手の居場所が分かる特別な石だからだ。俺はユフェが危険な目に遭わないよう、これを贈った。でも本当は贈りたい人がずっといたんだ」
贈りたい人と聞いてシンシアの脳裏にフレイアが思い浮かんだ。
わざわざイザークが魔力を注入して居場所を確認し、こんなところにまで来た理由は大事な秘宝を返してもらうためなのだろう。
(妃候補でもない私が持っているなんて周りにバレたらきっと騒ぎになってしまうわね。……仕方ないわ)
胸がちくりと痛んだ。
これがイザークを感じられた唯一の品だったのに。
シンシアは服の上から森の宴を撫でると覚悟を決めた。
「分かりました。では今すぐに森の宴はお返しします――って、なんで手を放してくださらないんですか? これだとお返しできません!!」
手を動かそうとすると頑なに止められる。
「だから言っているだろう。贈りたい人がいると」
「はい、分かっておりますとも! だからきちんとお返ししませんと!」
そう言っているのにイザークの手はがっちり掴んで動かすことを許さない。半ば取っ組み合いになり始めたところで、とうとうシンシアは叫んだ。
「なんで離してくださらないんですか!! ちゃんとお返ししないとフレイア様に贈れないでしょう!!」
するとイザークが目を瞬いて首を傾げた。
「なんでここでフレイアが出てくるんだ?」
「フレイア様は将来、イザーク様の妃となられる方です。あの方へ贈るために返して欲しいんですよね?」
シンシアが真剣な顔で尋ねるとイザークが全力で否定した。
「違う、待ってくれ。フレイアは妃候補にはなっているが俺からすれば可愛い妹だ。それにあの子が本当に好きなのはキーリだから結婚なんてあり得ない」
「えっ!? フレイア様の想い人はキーリ様なのですか!?」
これまで恋をまともにしたことがなかったから的外れなことを言ってしまったようだ。
青ざめたシンシアは透かさず謝罪する。
「見当違いなことを口にして申し訳ございません。別の方だったんですね。でもイザーク様の贈りたい方にきちんとお渡しできるよう森の宴はお返ししますから!」
すると焦れたようにイザークが口を開く。
「だから俺が贈りたいのは……俺がずっと好きなのは……」
そう言って一旦口を噤むと、真っ直ぐシンシアを見つめる。
「――今、目の前にいる人だ」
消え入りそうな声でイザークに真実を告げられる。照れているのか彼の頬はほんのりと赤く染まっている。
「え……?」
イザークは好きな人が今目の前にいると言った。
これは聞き間違いではないのだろうか。
呆然と立ち尽くしていると、イザークが優しく両手を握りしめる。その瞳は潤んでいて、どこか切なげで恋い焦がれているようだった。
ハッと我に返ったシンシアは冷静に口を開く。
「イザーク様、それはおかしいと思います。だってあなたは戴冠式の時からずっと私のことを処刑したかったはずです!! ……はっ、これが世に言うところの幻覚なの!?」
まさか魔王の核の浄化で力を使いすぎてしまって聖力が弱まり、幻覚を見ているのだろうか。
周章狼狽しているとイザークが突っ込みを入れた。
「俺を瘴気の幻覚扱いするな。咎めはしないと以前言ったはずだろう。それになんで俺がシンシアを殺さないといけないんだ?」
「なんでって……それは私が伺いたいです!! 戴冠式の時からずっと怖い顔で私のことをご覧になっていましたし。それにうっかりトマトジュースを零してお召し物を汚してしまいましたし、猫だって欺しましたし。猫の間は聖女の仕事をほぼ放棄していましたので……ここはやっぱり潔く斬首ですか!?」
「するわけないだろう。俺はシンシアが見つからなくてずっと生きた心地がしなかった。ずっと心配してたんだ!!」
正常だったシンシアの心臓の鼓動が一気に速くなる。
「え、嘘……だって……」
イザークが顔を手で覆って溜め息を吐くと「嘘じゃない」と否定する。
「怖がらせたのなら謝る。俺は……シンシアを見るとどうにも嬉しくなってしまう。でもそれだと皇帝たる威厳が損なわれてしまうから、保つように目に力を込めていた。本当にすまない」
今までずっと鋭く睨まれて、嫌われているとばかり思っていた。だからイザークを好きになってもこの気持ちが成就することはないだろうと思っていたのに。
(私がイザーク様を特別だと思うように、あなたも私が特別なの?)
そう思ったところで、腑に落ちない点が一つだけ残る。
「なら、どうして私が謁見をお願いしても会ってくださらなかったんですか?」
「それは……」
イザークは言い淀むがシンシアの真剣な眼差しを受けて、躊躇いながらも話してくれた。
「ユフェがシンシアだなんて思ってもみなかったから。だからその、今までやってきたスキンシップの数々がシンシアだったと思うと恥ずかしくなって死にそうになった」
話すに連れて頬を真っ赤に染めていくイザークは口元に手をあててシンシアから視線を逸らす。
「イザーク様」
その様子を見てシンシアは思った。
――なんて可愛い人だろう。
途端に、心の底から愛おしさが込み上げてくる。
「……イザーク様、本当はとっても可愛い人なのね。……やっぱり、好きだなあ」
うっかり心の声が出てしまう。しかし、シンシアが気づいた頃には遅かった。
腕を掴まれてイザークの胸板へ引き寄せられると紫の瞳に捉えられる。
そのまま影が落ちてきたかと思うと唇に熱を帯びた柔らかな感触がした。
シンシアはたった今起きたことに声なく叫ぶ。
顔に熱が一気に集中してとても熱い。自分の手で頬の熱を確認していると、イザークの楽しげに笑う声が耳に入る。
「俺なんかよりシンシアの方がよっぽど初心で可愛い」
「……っ!!」
シンシアはイザークに背を向けると自身の両頬に手を添える。
(嗚呼、処刑は回避できたのにこれじゃあ私の心臓が持ちそうにないわ。止まってしまう!!)
くるりと背を向けてあたふたしていると、ヴェールの頭巾とシンシアの美しい金色の髪が靡いた。
清められた泉の上を爽やかな涼しい風が駆け抜ける。
シンシアは熱っぽい頬でそれを感じながら、暫くはイザークの顔を見られそうにないと心の底から想ったのだった。
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