第37話



「往生際が悪い」


 イザークが人差し指をすうっと下から上へと移動させると動きに合わせて泉の水が球体となって宙に浮いた。それは瞬く間にルーカスの頭全体を覆う。

 ルーカスがもがいて水の球体を払おうとするが、すぐにもとの形に戻ってしまう。


「降伏しろ。その水は瘴気を含んでいて飲み込めば身体に影響を及ぼすぞ」


 イザークが静かに忠告するが水膜の向こうで、ルーカスは眉間に皺を寄せていた。ゴボゴボと空気を口から吐いているが降伏する素振りは一切ない。


 空気を奪われても息が続く限りは任務を遂行するという意志が伝わってくる。

 ルーカスは眦を決して短剣を構えた。


「駄目だよこれ以上悪いことしちゃ」


 俊敏な動きでシンシアとルーカスの間に入り込んだカヴァスは、ルーカスの手を捻り上げて短剣を地面に落とさせると、そのまま地面に叩き付ける。

 地面にたたき落とす寸でのところでイザークが球体を泉へと戻したお陰でルーカスは水を飲み込まずにすんだ。


 受けた衝撃から呻き声を上げるルーカスのもとに太い枝が伸びてきた。動けないように手足をからめとると幹に貼り付けるように拘束する。カヴァスがフォーレの力を使って植物を操作しているようだった。



 シンシアは一連の流れをただ呆然と眺めることしかできなかった。


(す、凄い。ルーカスは護衛騎士の中でも指折りなのに。カヴァス様はもっと強いのね。普段女たらしだけど側近なだけある……)


 カヴァスを再評価していると眉間に皺を寄せるイザークがシンシアの前にしゃがみ込んできた。

 ユフェの時には一切見せない、いつもの極悪非道な顔つきだ。



「……シンシア」


 名前を呼ばれてシンシアはヒュッと喉を鳴らした。いつの間にか落ちていた自身の短剣を握りしめている。

 ルーカスに命を狙われた時よりも嫌な汗が背中を伝う。


 おもむろにイザークの手が伸びてきたのでシンシアは反射的にぎゅっと目を瞑る。と、拘束のロープが切られる音がして手首の圧迫感がなくなった。

 目を開けて確認すると今度は足首の縄をイザークが切っている最中だった。シンシアは解放された手で口に詰め込まれた布巾を取る。

 ロープを切り終えたイザークは短剣を腰に収め、シンシアを一瞥した。


「大丈夫か? 間一髪のところだったな。来るのが遅くなってすまない」


 申し訳なさそうにイザークが眉尻を下げる。

(どうしてイザーク様が謝るの? だって、イザーク様は私のこと殺したいはず。それなのに、どうして助けに来てくれたの?)


 心配の言葉を掛けられてなんと答えるべきなのか、考えても言葉が見つからない。

 シンシアはただ口をぱくぱくと動かした。


 イザークは反応に困っているシンシアを見て目を細める。続いて、頬にある引っかき傷を辿るようにゆっくりと指でなぞりながら精霊魔法の治癒で治していく。

 治癒を施し終えたイザークは両手で優しくシンシアの頬を包み込むと存在を確かめるように優しく撫でる。


 何度も撫でられてシンシアの顔に熱が集中していく。触れられる度にくすぐったくて同時に胸が高鳴ってしまう。



 イザークは懐に入れた人間には情が深いとロッテの件で身を以て知った。だが宮殿でルーカスが教えてくれたように、彼はシンシアを処刑したいほど怒っている。それはつまり、シンシアがどんなに努力したところで彼の懐に入ることは叶わないということだ。


 絶対にこの想いが報われないことを痛感して、先程までの高揚感が一気に絶望へと染まっていく。内心悲嘆していると、カヴァスがイザークに声を掛けた。



「陛下、この人どうする? 魔力封じの薬を飲ませたから抵抗しないよ」


 カヴァスは睥睨しているルーカスを背にして親指で指す。

 イザークは立ち上がると腕を組んで思案顔になった。


「反逆罪だしこのままネメトンに放置して魔物の餌にでもしておくかい?」


 カヴァスが残虐なことを口にしたのでシンシアは思わず睨み付けてしまった。それはリアンも同じだったようだ。


「なんて外道な。法治国家である帝国の人間が言うことではありません」

「ははは。冗談だよリアン」

 リアンに窘められたカヴァスは慌てて弁解した。



 シンシアは拘束されているルーカスを眺めた。

 睨みを利かせているが殺気は感じない。ただ虚勢を張っているだけのようで、表情には諦観が滲んでいる。


 シンシアは自ずと立ち上がるとルーカスに近づいた。

 危ない、という意味を込めてイザークに腕を掴まれるが、シンシアは大丈夫だと小さく首を横に振ってルーカスに対峙する。



「……なんだよ」


 ぶっきらぼうに尋ねてくるルーカスを前にシンシアはただじっと見つめる。

(ルーカスに殺されそうになった時、不思議と怖くはなかった。だって私を殺そうとした時、人生を悲嘆して生きるのが苦しそうな顔をしていたから)



 自分は今までルーカスの何を見てきたのだろう。

 気がつくとシンシアの瞳からは涙が溢れ、嗚咽を漏らしていた。


「……ごめん、ごめんね。……ごめんねルーカス」


 ずっと側にいたのに、一度もルーカスの悩みと苦しみに気づいてあげられなかった。

 いつも兄みたいな存在であるルーカスに甘えてばかりで、ちっとも寄り添えていなかった。そんな自分がつくづく嫌になる。


 悲しさと悔しさから涙が溢れてしまう。泣いても仕方がないことは頭で理解していても感情を抑えることはできなかった。


「なんでシンシアが泣くんだよ」

「私はルーカスのことを大切な家族だって思ってる。ヨハル様もリアンも修道院の皆は私の大切な家族だから。辛くて苦しいなら私にもそれを背負わせて。図々しいお願いかもしれないけど、これ以上苦しんでいる姿を見たくないよ。……川に落とされたあの頃も今みたいに辛そうだったから」


 シンシアがあの時の記憶を封じ込めたのはルーカスの最後の表情を見てしまったからだ。だから忘れることにした。自分だけの秘密にして、また今まで通り家族として過ごすために記憶に蓋をしたのだ。



(でもそれだと、ルーカスの苦しみに寄り添ってないから……)

 ルーカスの表情がくしゃりと歪んだ。

「……煩い。今更、そんなこと言っても遅いんだよ」


 顔を背けるルーカスの元に、今度はリアンが近寄ってくる。


「ルーカス。ヨハル様はあなたを見放したわけではありません。確かにここ数年多忙で公の場以外で接する機会が減ったかもしれませんが……。ヨハル様はあなたのことを息子のように大切に思っています」


 リアンは肩に提げていた鞄から丸められた羊皮紙を取り出した。紐を解いて広げると、そこに書かれているのは嘆願書で、ヨハルの署名が入っている。

 さらに内容はルーカスを予言者に格上げできないかというものだった。


「これを見てもまだヨハル様から愛情を注がれていないとでも?」



 ルーカスは嘆願書を凝視する。それから信じられないといった様子で首を小さく横に振った。


「あなたは解呪の精霊魔法しか使えない詩人。でもこれまで多くの危険から人々を守ってきました。その功績を称えて予言者に昇格できないか、ヨハル様が他の大神官たちに申し入れをしたのです」


 大神官の樫賢者はヨハル以外にもあと二人、アルボス帝国内の教会に務めている。ルーカスを予言者にするためには彼らに承認を得る必要があった。

 事実を知ったルーカスは俯くと消え入りそうな声で呟いた。


「俺、何やってんだよ……馬鹿だなあ」


 シンシアはルーカスの手に触れると治癒の魔法で怪我を治した。

 温かな光に包まれた手の甲の傷は癒え、傷口は跡形もなく消えていく。


「俺、ほんと……馬鹿だよなあ」

 今度のルーカスは憑きものが落ちた表情で、声を潤ませて呟いたのだった。

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