第36話
「宮殿で話しかけられた時は驚いた。だって心配されているあんたは猫の姿でのうのうと宮殿で暮らしているんだから。殺意を覚えても仕方ないよね? 別にあんたの心臓が手に入ればあとはどうでもいいから、魔瘴核の幻覚を使ってフレイア・フォーレにあんたを殺させるように仕向けたんだけど……残念なことに失敗に終わったよ」
「私を殺すために関係のない人を巻き込まないで!!」
堪らずシンシアは叫んだ。こんなことにフレイアを巻き込むなんて間違っている。
ルーカスに憤りを感じていると、彼はこれまでのように憂いを帯びた表情を浮かべて「申し訳ないと思ってる」と呟いた。
「だから今度は自分の手で確実に殺す。聖女が失踪したのは魔王を崇拝して復活させるため、自らの命を捧げにネメトンへ向かったって世間には広めるよ。あんたは歴代最悪の聖女になり、俺は魔王を倒した英雄に、そしてヨハル様は教皇になる」
ルーカスが魔王を倒して英雄になれば同時に一族への復讐も果たすことができる。しかし、もしそうなったら聖女の邪悪さに気づけなかったヨハルは糾弾される可能性が出てくる。
(普段ならいろんな可能性を考えて行動する人なのに、興奮して盲目になってしまっているんだわ……)
シンシアは慎重に言葉を選びながら口を開く。
「ヨハル様はそんなこと望んでない。ルーカスが悪いことに手を染めていると知ったら、絶対に心を痛めるし、悲しまれるわ」
考え直すように説得すると、ルーカスは唇を噛み締めて舌打ちした。
「良い子ちゃんぶって反吐が出る。なあ、シンシア……」
そう言ってルーカスは一度後ろ襟を放すと、回り込んで今度は胸ぐらを掴む。
シンシアの若草色の瞳に険しい表情のルーカスがアップで映り込んだ。
「俺はな、ずうっと昔からあんたのことが大っ嫌いだったんだ!!」
「っ……」
目を見開いて、シンシアは硬直した。言われた言葉を頭の中で繰り返してもうまく咀嚼できない。
ルーカスは苦虫を噛み潰したようにシンシアを見下ろす。
「初めて会った時からずっとそうだ。俺が必死で努力して手に入れたものをあんたは易々と奪っていく。ヨハル様の愛も、精霊魔法の腕も、大事なもの何もかも全部!!」
怒り狂うルーカスにシンシアはどう答えて良いか分からない。不安げに眺めていると、乱暴に地面へ叩き付けられる。
シンシアは呻き声を上げて身じろいだ。
「あんたはいっつも俺の剣の腕を褒めていたけど、言われる度に癪に障ったよ。俺が修道院に入れられた理由は兄弟の中で学才も剣才もない落ちこぼれだからだ」
シンシアはこれまでルーカスがベドウィル伯爵家の三男であることは教えて貰っていたが、どういう理由で修道院に入ったのか一度も聞いたことがなかった。
てっきり、ティルナ語の才能を見込まれて修道院に入ったのだと思っていたが、実際は家族から虐げられて育ったようだ。
ルーカスの実家での扱いを想像すると胸が痛くなる。
「そんな俺に手を差し伸べてくださったのがヨハル様だ。何もない俺に一から精霊魔法を教えてくれて、護衛騎士に剣を教えるよう頼んでくれた。どこにも居場所のなかった俺を受け入れて愛情を注いでくれた。幸せだった。……でもある日、聖女とかいう魔女が来た」
ルーカスの瞳に憎悪と嫉妬を綯い交ぜにした炎が宿る。
「聖女という肩書きだけでいつだってあんたは皆の注目をかっ攫っていく。史上最年少で詩人になっても誰も俺を見てくれない。気づいた頃にはヨハル様もあんたにつきっきりで、俺には見向きもしなくなった」
「違う。聖女という肩書きだけで誰も私自身のことに興味ないわ。ヨハル様が私につきっきりだったのは、私がちっとも主流魔法を使いこなせないからよ。心配して特訓してくださったの。それにヨハル様は皆に、平等に愛情をもって接してくださってるわ」
聖女だからヨハルから特別な扱いを受けたかと尋ねられれば、もちろん否と答える。
必死に誤解を解こうと試みるがルーカスに自分の言葉は届かない。
「俺を惨めな気分にさせて楽しかった? その綺麗な顔の下はどす黒いんだろうな」
無理矢理顎を掴まれ、ルーカスの人差し指と中指が爪を立ててシンシアの頬に鋭く食い込む。そのまま下へと移動すると痛みが走った。
シンシアの頬にうっすらと血が滲む。表情を歪めていると、布を口の中に押し込まれた。精霊魔法を使わせないための措置のようだ。
二人の間にザワザワと風が吹き荒れる。
ルーカスは腰に下げていた剣を鞘から引き抜いた。
「今から死ぬって考えたら怖いだろ? 潔く首を刎ねて楽にしてあげるよ」
剣を振り上げるルーカスはいつもの物腰柔らかい笑みを向ける。その表情にはどこか切なさが混じっていていた。
(駄目、私まだここで死ぬわけには……)
避けようにも拘束されていて身動きが取れない。
振り下ろされる剣を見てシンシアは死を覚悟する。
だがその時――突然短剣がルーカスの手の甲に刺さった。
「……ぐっ!」
不意打ちの攻撃を食らってルーカスの手から剣が滑り落ちた。刺さった短剣は貫通し手からは真っ赤な血が滴っている。
何が起きたのか分からず、シンシアが身を竦ませていると遠くから馬の鳴き声と蹄鉄音が聞こえてくる。気づいたルーカスは怪我を負っていない手で剣を拾い上げるとシンシアに斬りかかった。しかし、今度は弓矢によって防がれてしまう。
ネメトンのような危険な場所に誰が足を踏み入れたのか。
シンシアが疑問に思っていると、二頭の馬が姿を現した。
最初に現れた馬に跨がるのは黒髪に鋭い紫の瞳を持つ、この世で最もシンシアが恐ろしいと思う相手だった。その後ろの馬には、焦げ茶色の髪に切れ長のアイスブルーの瞳の青年が乗っている。
「あの距離から短剣を命中させるなんてお見事でしたよ陛下」
「それなら弓矢で命中させるカヴァスもだろう」
(イザーク様! カヴァス様!)
シンシアは目を見開いた。まさか二人がここに来るなんて思ってもみなかった。
(二人の周りに守護の結界が張られている。イザーク様は守護も使えるの?)
すると、カヴァスの背後で動く影が目に映る。
目を凝らせばそれはリアンだった。
「ありがとうリアン。君のお陰で泉まで安全に移動ができたよ」
カヴァスがリアンを労うと、リアンは何でもないといった様子でさっと馬から下りる。
話を聞いたルーカスが眉間に皺を寄せて唇を震わせた。
「な、なんでただの修道女のはずのあんたが、精霊魔法を使えるんだよ!?」
意外な人物にシンシアも驚いた。これまでリアンから精霊魔法が使える話は一度も聞いていなかったのだ。
リアンはその問いに淡々と答えた。
「精霊魔法が使えても神官になりたくない者もいるんですよ」
するとルーカスが鼻を鳴らして噛みついた。
「持っている自分の力を誇示しないなんてただの馬鹿だろ」
「皆が皆あなたのような考えを持つとは限りません。……それにしてもこの泉は随分と淀んでいます。鉄の掟の誤った解釈が浸透したせいで魔王の核が浄化しきれていない」
「魔王の核? 魔王は浄化石の中で眠っているんじゃないのか?」
胡散臭そうにルーカスが尋ねるとリアンはきっぱりと強い口調で言う。
「いいえ、あれは魔王の核です。よく見なさい。あの結晶が紫色をしているのは浄化が中途半端に行われて放置されているからですよ」
鉄の掟にはアルボス教会の聖職者のための戒律が記されている。
英雄四人の一人である聖女が精霊女王から賜ったもので、原本は禁書館にて保管されている。しかしそれだと聖職者たちに戒律を広めることができない。
初代聖女亡き後、聖職者は鉄の掟を広めるために数人がかりで写本して各教会に配った。ところが、どういうわけか誤った内容が鉄の掟に記載されてしまった。
――ネメトンには魔王の身体が浄化石の中で眠っている。身体に誘われて魔王復活を願う魔物たちが現れるため、歴代神官たちが交代して結界を張り侵入を防ぎ、魔物の動きに注視すること。
実際の鉄の掟にはこう記されている。
――ネメトンには魔王の核が残されている。核に誘われて魔物たちは現れるが歴代聖女が交代して浄化を行えば完全な平和が訪れる。それまでネメトンには結界を張り侵入を防ぎ、魔物の動きに注視すること。
本来正しく書かれるべきものが誤った記載のまま、時が流れた。さらに活版技術の発達により、広く定着してしまったのだ。
「数日前、謎の瘴気を調べる上でヨハル様が直々に禁書館で保管されている鉄の掟を調べられてこのことが分かりました。だからルーカス、ここに魔王はいないんです」
「煩い。そんなこと信じられるわけないだろ。俺はあいつを殺すんだ!!」
赤銅の目は血走り、身体は怒りで震えている。
ルーカスは手の短剣と弓矢を引き抜くと拳を握り締める。力んだせいで溢れ出た血がボタボタと地面に落ち、やがて腰に差していた短剣を素早く引き抜いた。
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