第6章 魔物の巣食う森

第35話



 ◇


 あれは教会に来てから二年ほど経った時のことだった。リアンや他の修道女、それから同い年くらいの子供たちと一緒に野いちごを摘みに少し離れた森へ行った。


 当時のシンシアはティルナ語の習得に励んでいてまだ精霊魔法は使えなかった。そんな中、ルーカスだけは習得していて、同い年の皆と一緒に羨望の眼差しを向けていた。

 自分もルーカスのように早くティルナ語を習得したい。


 そんな一心で発音練習に励みながら川辺の野いちごを摘んでいると、初めて組紐文様の魔法陣が現れた。

 目を輝かせてはしゃいでいると、ルーカスが籠いっぱいの野いちごを持ってやって来る。



「聞いてルーカス、私も精霊魔法が使えるようになるよ! ティルナ語を習得したの!」


 嬉しくてすぐにルーカスに報告した。きっと彼も同じように喜んでくれると信じて。

 しかし、シンシアが欲しい反応とは違い、ルーカスは表情を歪めた。


 ただそれはほんの一瞬のことで、ルーカスはいつものように優しく微笑んで「おめでとう」と言ってくれた。

 シンシアは、ルーカスが驚いてどう反応して良いのか分からなかったのだろうと思った。


「私の籠もいっぱいになったし、一緒に集合場所に戻りましょ」

「あ、待ってシンシア。川の中に綺麗で珍しい魚が泳いでいるよ」

「えっ、本当?」



 どんな魚だろう。興味津々でシンシアは数メートル下の川を覗き込む。

 川の水は澄んではいるものの、水草がゆらゆらと揺蕩っているだけで見当たらない。


「うーん、魚なんてどこにもいないわ。どの辺りにいるの?」


 頭を動かして後ろにいるルーカスに声を掛けると、背中にドンッと衝撃が走った。前へ押し出された身体は足場を失い、そのまま川へと落ちていく。



 世界がゆっくりと流れていく中で、ルーカスが憎悪の目でこちらを睨み、両手を前に突き出している。続いて身体が水面に叩き付けられる感覚がして水底へと沈んでいく。


 霞が掛かって思い出せなかった記憶を、シンシアは漸く思い出した。



 ――あの時自分を川へ突き落とした相手は、ルーカスだった、と。







 茂みをかき分ける音が聞こえてくる。

 シンシアは呻き声を上げながら意識を取り戻した。


 ぼんやりとする意識の中、最初に目に映ったのは鬱蒼と生い茂った木々だった。太陽の光が遮られていて薄暗く、そして肌寒い。どうやら森の中にいるらしい。

 浮遊感があると思えばルーカスによって小脇に抱えられている。ご丁寧なことに逃げられないよう手足はロープで縛られていた。

 視線だけを動かしてシンシアはルーカスを覗き見る。


(ルーカスは一体何をしようとしているの? 仮にも中央教会の神官で詩人なのに。それに雰囲気や喋り方もいつもの彼じゃない。――というかなんで森の中?)


 ルーカスから視線を森に向けるがどこも似たような薄暗くて陰鬱な景色が広がっている。しかし、目端に黒い靄のようなものが見えた途端、シンシアの意識は覚醒した。


(あれってもしかして瘴気? あんなに濃いのを見るのは初めて)


 高濃度な瘴気が発生する場所はアルボス帝国に一つしか存在しない。



『待って。ここってもしかしてネメトンの中なの!?』


 思わず声を出すと茂みから狼に似た魔物が数匹現れ、鋭い氷を吐いて突然襲いかかってきた。

 ルーカスは余裕で攻撃をかわすと、鞘から剣を抜いて主流魔法と剣技を組み合わせた一撃で魔物を仕留める。息の根を止められた魔物は灰となって消え、魔物の核だけが地面に残った。

 ルーカスは剣に付いた血を払うと鞘に収める。


「そう。ここはネメトンの中。西の結界は時々薄くて脆くなるからそれを狙って破って侵入した。あんたには自動浄化作用があるから一緒にネメトンに入っても大丈夫だって仮説を立てたけど……予測は当たっていたみたいだ」


 黒い瘴気が目の前に現れても、たちまち光を纏って霧散する。ルーカスの言うとおり、シンシアが側にいれば瘴気を防ぐことができるようだ。

 聖女の自動浄化作用がこんな形で誰かの役に立つとは知らず、シンシアは驚いた。同時にルーカスは何が目的で結界を破り、ネメトンに侵入したのか疑問が残る。


『ルーカスは神官で詩人バルドでしょう? こんなの、教会への裏切りよ』

「裏切り? 失礼なことを言わないでよ」


 ルーカスはせせら笑う。次に「心外だなあ」と言って楽しげにシンシアの鼻をつつく。


「脳天気なシンシアにも分かりやすく説明してあげる。ベドウィル家は何代も前から自分たち一族を新たな英雄にしようと画策していたんだ。高祖父の代からゆっくり確実に計画を立てていたよ」



 それは突拍子もない計画だった。

 ベドウィル家は英雄四人の時代から存在する由緒ある貴族だった。

 その当時から一族は、何故自分たちは精霊女王から力を賜らなかったのかと嘆いていた。その嘆きは代が変わるごとに憧憬から羨望へと変化していき、最後に嫉妬へと変わると合わせて自分たちの手で魔王を復活させ倒すことで新しい英雄になることを決意する。


 特にルーカスの高祖父は大神官と親交を深めていて、賄賂を贈って神官クラスしか許されない禁書館へ入ることに成功した。そこには世間に口外できない内容の書物があるとされていたからだ。

 高祖父は禁書館で一冊の本を見つけた。それは禁止された魔法や魔王を復活させて傀儡にするための黒魔術だった。彼は密かに書物を持ち帰り、写本してもとの場所に戻した。


 ベドウィル伯爵家は数代にわたり、黒魔術の本を元に悲願を達成するための準備に取り掛かった。ある者は神官になって魔物や魔王のことを調べ上げ、ある者は近衛騎士となって宮殿内の地歩を固めた。


 そして二十年前、現ベドウィル伯爵が計画実行に必要不可欠な魔瘴核の欠片を手に入れた。一族の悲願に関して慎重な態度をみせる彼はすぐ実行には移さず、二十年経った今漸く動きだした。

 ネメトン周辺に発生した原因不明の瘴気も、討伐部隊の魔力酔い止めの薬もすべて彼やその息子――ルーカスの兄が実行した。



 そこまで話したルーカスは「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てて嘲笑った。


「そんなことに何の意味があるっていうんだろうね。叔父上なんて悲願のためにわざわざ騎士のキャリアを捨てて土木技官になったよ。ネメトン周辺の精霊樹を自然災害と見せかけてなくし、フォーレ公爵が記憶視の力を使って計画を知れないようにするためにね」


 ルーカスは一族の悲願に対して嫌悪感を抱いている。その一方で彼らに協力しているのは何故なのだろう。


『どうしてルーカスは宮殿の井戸に魔瘴核を入れたの? それだってベドウィル家の悲願を達成する計画の一つなんでしょう?』


 シンシアが尋ねるとルーカスは「違うよ」と言って肩を竦めてみせる。



「あれは誰が黒幕なのか宮殿に教えてあげただけ。あいつらに復讐するには丁度いいと思った。役立たずで落ちこぼれだと罵っていた俺が英雄になったら、さぞかし悔しいだろうから。まあ、俺の本来の目的はヨハル様のためだけど」

 シンシアは聞き咎めた。

『ヨハル様のため?』

「ああ、そうだ。魔王が復活し、神官である俺が倒せば中央教会の知名度はさらに増すし、アルボス教会全体の寄付金だって増える。そうすれば俺を育てたヨハル様はその功績が称えられて大神官の中でも最高位である教皇になれるんだ!!」


 ルーカスは歩みを止め、シンシアを地面に下ろすと前を見るように顎をしゃくった。

 それに習って前へ視線を向けると、いつの間にか鬱蒼とした樹木が消えて泉がある。


 その真ん中にはこれまで一度も見たことがない大きさの紫色の結晶が佇んでいた。半分は泉に浸かっていて残り半分は樹木に覆われている。

 水面からは濃度の高い瘴気が絶えず発生している。この結晶が魔王が眠る浄化石で間違いなさそうだ。



 ルーカスはシンシアの額に手をかざすとティルナ語の詠唱を始める。光を帯びた組紐文様の魔法陣が浮かび上がるとシンシアの額に溶け込むように消えていく。


 ぽかぽかとした心地の良い暖かさに包まれる感覚がして、シンシアの意識は微睡んだ。

 次第に意識がはっきりしてくる頃には、身体が人間の姿に戻っていた。

 猫から人間の姿に戻る段階で、ご丁寧なことにルーカスがロープを縛り直した。


(呪いは解いてくれたけど、手足の拘束は解いてくれないのね)


 じっと手首の拘束を見つめていると、ルーカスにお仕着せの後ろ襟を掴まれて泉近くまで引きずられる。


「やめて、放して!」

「黒魔術の本によると魔王の復活には清らかな心臓を捧げる必要があるらしい。この帝国で最も清らかな聖女の心臓なら、魔王も喜んで復活してくれるよね」


 上機嫌な声色とは裏腹に物騒な言葉を口にするルーカスにシンシアは慄然とした。

 殺気横溢した視線を向けられて身体が小刻みに震える。


 彼は本気だ。本気で自分を殺して魔王を復活させようとしている。



 ルーカスは視線を再び前へ向けると、シンシアを掴んでいない方の手を胸に当てる。


「失踪を聞かされたときは心底嬉しかったよ。やっとヨハル様が俺を見てくれるって思った。けど、実際ヨハル様はシンシアがいなくなったのは自分のせいだと責めていた」


 ヨハルのことを思い出したのかルーカスは沈痛な表情を浮かべると、続いて酷く不愉快そうに表情を歪めた。

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