第32話
パチパチと火の爆ぜる音がする。それから時折すすり泣く声も。
シンシアはうっすらと目を開けた。
炎が揺らめく暖炉の前で柔らかくて暖かなブランケットに包まれている。
重たい頭を動かして辺りを見回すとユフェの部屋で、一人がけソファの上にいた。隣には床に座り込み、肘掛けに額をつけて涙を流すロッテの姿があった。
頭の上にいる小鳥がシンシアが目覚めたことに気がついて鳴くと、ロッテが泣き腫らした顔を上げる。
「シンシア、シンシア! 目が覚めたのね。寒かったり痛かったりするところはない?」
心配して顔を突き出すロッテにシンシアはどこも悪くないことを伝える。
『誰が助けてくれたの? 私、噴水で溺れたんだけど』
「私よ。小鳥さんが、シンシアのことを教えてくれたの」
ロッテが視線を上に向けると、頭の上に乗る小鳥が「チィ」と鳴く。心配してくれているのか鳴き声は弱々しい。
『ロッテに知らせてくれてありがとう』
言葉が伝わったらしく、小鳥がシンシアの側に移動すると首を傾げて短く囀る。
「早く元気になって欲しいって言っているわ」
シンシアは尻尾を揺らしながら目を細めると小鳥に礼を言う。小鳥はその後も何度かシンシアの周りを跳びはねて元気づけるとロッテの頭の上に戻った。
『フレイア様はどうなったの? 彼女、様子がおかしかったの』
「分からないわ。私が駆けつけた時には彼女も倒れていたから。ところでどうして猫の姿に戻ってるの?」
それは自分でも分からない。自分の意思に関係なく姿が猫に戻ってしまった。そしてその後フレイアに捕まって宮殿を歩いていたら彼女の様子がおかしくなって、落ち着かせようとしたら噴水へ放り投げられた。
(瘴気は蛇のようにうねうねと中庭を囲って異動していた気がしたけど、実際に目にしたのは噴水周辺だけだった。残りは一体どこに?)
じっと考え込んでいると、ロッテがぽんぽんと背中を撫でてくれる。
「シンシアの方は体調不良になったって伝えといたから。取りあえず、元気を出すために何か食べて。温かいスープを持ってくるわね」
食欲はないがこれ以上心配は掛けたくない。
シンシアがお礼を言うと、ロッテはまつ毛についた涙を拭い、食事を取りに行った。
一人残されたシンシアはブランケットに突っ伏した。正直身体が鉛のように重たくて何をするのも億劫だ。若草色の瞳を閉じてじっと横になっていると、廊下から足音が響いてくる。ロッテがスープを持ってきてくれたようだ。
耳をぴくぴくと動かして様子を窺っていると、歩き方からして彼女のものではなかった。
「ユフェ!! 無事なのか!?」
開かれた入り口に立っていたのはイザークだった。駆け寄ってくる彼は眉間に皺を寄せて苦悶の表情に満ちている。
(イザーク様、心配してくれているの?)
ロッテから話を聞く限り、この数日間の態度は素っ気なかった。だからフレイアに夢中になり、もうユフェには興味がないと思っていたのに――それは単なる勘違いだったようだ。
不謹慎かもしれないがイザークに心配されて胸が高鳴ってしまう。
イザークは前屈みになるとシンシアが包まっているブランケットを広げ、ティルナ語の詠唱を始める。
室内に光の粒を一瞬で満たし、それはうねりながら組紐文様の魔法陣を描いていく。
精霊魔法の魔法陣は鮮明であればあるほど強力になる。イザークが作り出した魔法陣は見事に鮮明な組紐文様を描いていた。
(すごい。イザーク様の精霊魔法はヨハル様のものにも匹敵する)
魔法陣の光の粒がシンシアの身体に降り注ぐ。最後に身体に溶け込むようにして魔法陣が消えると重だるかった身体はすっかり軽くなった。
身体を起こしたシンシアは口を開く。
『身体が楽になりました。ありがとうございます。イザーク様は精霊魔法もお使いになるのですね』
もちろん『ユフェ』の発音が完璧なのでティルナ語が堪能なことは分かっていたが、ここまでの精霊魔法の技術を持っているとは想像もしていなかった。
イザークは面映ゆそうな表情を浮かべる。
「主流魔法と比べると得意ではないが、地道に努力して習得した。ユフェにとっては息をするように容易いことかもしれないが、ティルナ語の発音は難しいな」
『イザーク様のティルナ語は完璧ですよ。でも意外です。何でも簡単にこなす要領の良い人なのかと思っていました』
イザークは首を横に振ると頬を掻く。
「俺は不器用だ。剣の腕も魔法の腕も死んだ兄弟に比べれば劣る。政治に関して言えばキーリに助けられてばかりだ。才能はなかったから努力で補うしかなかった。皇帝であり続けるためにも地道に努力を続けていこうと思う」
イザークは何でも完璧にこなす超人だとばかり思っていたので意外な返答に驚いた。彼はこれまで人一倍努力を重ねてここまで上り詰めてきたようだ。
それでも未熟だと言って謙虚に頑張ろうとしている。
改めて知るイザークの一面に何だか嬉しくなった。
(完璧に見えているだけで、イザーク様も普通の人と同じなんだ)
周りの期待に応えようと努力するイザークが本来の彼のようだ。聖女のシンシアと同じで、常に完璧を求められているとあって勝手に親近感を覚えてしまう。
イザークは膝立ちになると、シンシアの背中をぽんぽんと叩く。
「嗚呼、実を言うとユフェ不足で禁断症状が我慢できそうにない……すまない」
『えっ?』
何を謝罪されたのかまったく分からず目を白黒させていると、イザークが艶っぽい溜め息を漏らす。うっとりした表情のイザークは、そのままシンシアの身体に顔を埋めた。
(ぎゃあああっ!! 禁断症状ってまさかとは思ったけど猫吸いのこと!?)
シンシアは頭のてっぺんからつま先に掛けて熱が電撃のように駆け抜ける。人間なら茹でダコ状態なのが一目で分かってしまうが猫の毛に覆われているのでバレることはない。
(呪いで猫にされたけど、初めて呪われて良かったって思ったかもしれない)
冷静に感想を頭の中で呟いていたがそんな余裕は一瞬でなくなる。
「……っ!!」
イザークの鼻先が時折身体に当たってくすぐったい。いつもの撫でる時のような心地良さとは違い、なんだかもどかしい気分になる。
(こ、これいつまで続くの!? ううっ、今のイザーク様は全然怖くない顔が良いだけの顔面凶器で……って、こっちもこっちで拷問だよ!!)
シンシアが身を震わせて堪えていると、猫吸いに満足したイザークが顔を上げて最後に額に唇を落とす。薄くて柔らかな唇に触れられた途端、心臓の鼓動が激しくなった。
ドキドキという音が彼にも聞こえてしまうのではないかと心配になるくらい煩い。
(っ~!! もうっ、私ったらときめいてどうするの。こんなの自分で自分の首を絞めているようなものじゃない!!)
シンシアが心の中で冷静であれと言い聞かせていると、キーリが扉を叩いて入ってきた。
「陛下、フレイア嬢が目覚めました。医務室までお越しください」
顔を上げたイザークは、恍惚としていた表情を引っ込めた。報告を受けていつもの厳めしい顔つきで炯々と紫の瞳を光らせている。
「ユフェ、今日はこの部屋でゆっくりお休み。俺は今からフレイアのところへ行ってくる」
イザークはシンシアの頭を一撫ですると、身を翻してキーリと共に部屋を後にした。
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