第31話
自分の気持ちを知ってからというもの、シンシアは率先して外の仕事をこなした。
うっかりイザークと鉢合わせしないための対策だ。そして今のシンシアは自分の気持ちを整理する余裕がない。イザークを意識してしまえばたちまち顔に熱が集中してしまう有様で、好きという感情を胸の奥にしまい込むことで精一杯だった。
それにこんな感情を抱いたまま妃候補であるフレイアの仮宮に足を踏み入れるのは失礼だ。
(掃除係の侍女で良かった。こうやって外の仕事もできるから)
シンシアは小道の落ち葉を拾いながら歩いて回った。
空は快晴で爽やかな風が庭園の植物たちを撫でていく。花の上では蝶が舞い、蜜蜂が忙しなく蜜集めに励んでいる。泉の方からは鳥たちの囀りが聞こえ、後宮内だというのにのどかな雰囲気に包まれる。
腰を曲げてせっせと落ち葉を拾っていると、急に視界に影が飛び込んできた。
「やっと見つけましたわ!」
顔を上げた途端、思わず頬を引きつらせた。こちらを見下ろしているのは最も会いたくない人物の一人、フレイアだった。
シンシアは上体を起こすと慇懃な礼をしてその場を離れようとする。女官と違い掃除係の侍女は本来、挨拶以外で令嬢と話すことはない。しかし、フレイアは回り込むようにしてシンシアの行く手を阻んだ。
「待ってください。わたくし、あなたにお願いがあって参りましたの」
「お願い?」
よく見るとフレイアは首から下まですっぽりと外套を覆っている。面倒ごとに巻き込まれそうな気がして断ろうと口を開きかけるが、先にフレイアが言葉を発した。
「わたくしを、誰にも見られずに宮殿の執務室へ連れて行ってくださらない? もちろん我が儘なことだとは重々承知ですの。でも、わたくしどうしてもあの方が仕事に励んでいらっしゃる姿を一目でいいから見たいんですの!」
真剣な表情で詰め寄るフレイアにシンシアは戸惑った。
「どうして私なんですか? 女官やお屋敷から連れてきた侍女に頼めば良いのでは?」
「あなたはいつも外の仕事をしていらっしゃいます。他の女官や侍女と比べて怪しまれずにわたくしを連れ出してくれると思いましたの。それに虫好きに悪い方はいらっしゃらないですわ!」
持論を展開するフレイアは早速外套を脱ぎ捨てる。どこから入手したのか、侍女のお仕着せに身を包んでいた。
大胆不敵な行動にシンシアは絶句する。
フレイアの言うあの方とはイザークのことに違いない。つまり手引きすれば二人の恋の盛り上げ役を担ってしまうことになる。
(お妃様になる方だし、応援した方が良いに決まってる。決まってるけど、その前に宮殿へ行ったら私が聖女だってバレてしまうじゃないの!!)
シンシアは数歩後ろに下がると、小さく首を振る。
「わ、私には無理です!!」
シンシアはフレイアに背を向けるとそのまま全力で走った。
泉と花壇を抜け、バラの生け垣へと逃げ込む。息を殺して生け垣の間から追いかけてくるフレイアを観察する。
ドクン――。
突然、心臓が大きく跳ねて目眩に襲われた。荒れ狂う波に揉まれる船の中にいるような激しさに、立っていられなくなったシンシアはきつく目を閉じてその場に蹲る。
暫くすると揺れる感覚が小刻みになってマシになった。漸く収まって目を開けると、視線が低くなっている。不思議に思って視線を落とすと、目にしたのは靴下を穿いたような白い足。後ろを振り向けば、長い尻尾が垂れている。
再び猫の姿に戻ってしまっていた。
『ど、どうして!? 呪いは自然に解けたんじゃないの?』
あたふたしていると、誰かに優しく身体を抱き上げられる。
「あら美人な侍女さんの代わりに猫さんですわ。あなた、ユフェ様でしょう?」
見つかってしまった。しかし諦観するのはまだ早い。
「嗚呼、侍女さんの手助けなしではこっそり執務室まで行けそうにありません」
フレイアは小さく息を吐くと、眉根を寄せて困り果てる。
(猫になったから私が手助けする必要はなくなった。良かった。危険を回避できそう)
内心ほくそ笑んでいると優しく背中を撫でるフレイアが閃いたように声を上げた。
「そうですわ! ここに迷い込んでしまったあなたを届ける名目で宮殿へ行けば良いのです。こじつけではありますけれど、行く理由があれば叱られずに済みますもの」
シンシアはギョッとした。
とどのつまり、シンシアは二人の愛の架け橋になる運命からは逃れられないようだ。
(私をだしに使うのはやめて欲しいです。二人が一緒にいるところも見たくないし、呪いの条件が分からないんだもの。もしもイザーク様の前で人間に戻るなんてことがあれば今度こそ殺されてしまう!!)
しかし色めき立った乙女は、善は急げとばかりに早歩きで後宮を抜け出した。
それはあっという間だった。
(ひいぃっ! 私は後宮へ帰る、帰るんだから!!)
シンシアはジタバタと暴れた。
しかしどんなに足で蹴ってもフレイアはお構いなしだった。必死の抵抗も虚しく、彼女は廊下をぐいぐいと進んでいく。
宮殿に何度も訪れたことがあるのかその足取りに迷いはない。
「中庭を通って近道をしましょう」
声を弾ませるフレイアが廊下から外に出る。その途端、シンシアは不穏な気配を感じた。
(おかしい。こんなところで瘴気みたいな気配がする)
困惑しながらも意識を集中して瘴気の元がどこにあるのか探る。しかし、地を這う蛇のように中庭全体を瘴気が蠢いているので判然としない。
(この辺りは僅かだけど、前方からはより強い瘴気を感じる。このままだとフレイア様に危険が及ぶわ)
焦っていると急にフレイアの足が止まった。彼女もこの気配を本能的に感じ取ったようで戸惑いの表情を滲ませる。
シンシアはその隙にフレイアの腕から抜け出して地面へ降りると真っ直ぐに走った。
(この先にあるのは確か――)
花壇を抜けたその先には噴水が佇んでいた。今は水が噴出していない。
(この辺りから強く感じたんだけど……)
シンシアはベンチに乗って噴水を観察する。意識を噴水に集中させてみるものの、瘴気も元となるものも見当たらなくて首を捻る。
やがて、後方から「待ってください」と声がして振り返るとフレイアが走ってやって来た。息を切らし、シンシアの姿を見つけると数メートル離れたところで立ち止まる。
(今はフレイア様の安全のためにも早くここを抜け出した方が良いのかもしれない)
これ以上無茶はできないと思い、切り上げようとするとシンシアの全身が総毛立った。
僅かに感じるだけだった瘴気がいつの間にかフレイアの頭上で幾重にも重なり漂っている。
シンシアは焦った。
(さっきまでなかったのに一体どこから発生したの? 瘴気がこんなにもあるのに元となるものが見当たらないなんて。ロッテの時は薬自体に魔瘴核が入っていて瘴気を放っていたけど、これには原因になる元がない……)
原因元を突き止めたいのは山々だが、まずはこの瘴気を浄化する必要がある。
シンシアは浄化のためにティルナ語を詠唱しようと口を開きかけた。が、もう一人の自分が心の中で駄目だと叫ぶ。
何故ならフレイアには妖精猫であることを伝えていない。さらに今は通行人が多い時間帯だ。周囲に人気はないが誰かに喋っている姿や精霊魔法を使っている姿を見られては大事になる。
打つ手がないシンシアは悔しげに臍を噛んだ。
(……でもこんな状況で設定がどうとか言ってられない。人命を第一優先にしない私は聖女として失格だわ!!)
覚悟を決めたシンシアはベンチから降りてフレイアに歩み寄る。こちらの動きに気づいた彼女はたちまち顔を強ばらせた。歯をカチカチと鳴らしながら酷く怯えている。
一体どうしたのだろう。シンシアが心配してさらに近づくと、フレイアが絶叫した。
「い、いやああああっ!! バケモノッ!!」
瘴気は一定以上吸い込むと幻覚が見える。
フレイアの目には歩み寄ってくる猫が恐ろしい化け物に映ったようだ。
『フレイア様落ち着いて。これは瘴気が見せている幻覚だから』
シンシアが優しい声色で話しかけるがそれは却って火に油を注ぐ形となった。
突然人間の言葉を喋る化け物などより恐ろしいに違いない。余計に取り乱す結果になってしまった。
(先に瘴気を浄化した方が良いみたいね)
シンシアはティルナ語を詠唱して瘴気の浄化に取り掛かる。
詠唱に集中していると、横目に怯えるフレイアが手を突き出しているのが映った。
(あっ……)
彼女の魔法によってシンシアの身体は宙に浮いた。指の動きに合わせてシンシアの身体はぐるぐると円を描くようにして振り回される。
平衡感覚がおかしくなって気持ちが悪くなった。しかし、シンシアの詠唱はまだ終わっていない。ここでやめてしまえばフレイアに攻撃されて浄化することがさらに難しくなってしまう。
(詠唱が終わるまであと少し!!)
フレイアの魔法で今度は噴水よりも高い位置まで身体が上昇する。続いて魔法を解かれると身体が下に向かって落ちていく。
(大丈夫。この高さなら華麗に着地できるわ)
自分に言い聞かせて何とか詠唱を終えると、組紐文様の魔法陣が鮮明に現れる。無事に浄化が始まったことを見届けたシンシアは、咄嗟に身体を捻って下を見た。
しかし次の瞬間、身体が水飛沫を上げて噴水の底へと沈んだ。
フレイアは自分を地面に叩き付けるのではなく、溺れさせることが目的だったようだ。身体は硬直してしまって思うように動かない。
目の前にはゆらゆらと揺らめく水面から見える景色が広がっている。
嗚呼、前にもこんなことがあったとシンシアは頭の中で思う。
記憶は断片的に見え隠れするだけでうまく思い出せない。
ふと、修道院の皆の顔が頭に浮かぶ。ヨハルにリアン、ルーカス。優しい修道士や修道女。これは所謂走馬灯だろうか。
そして何故か最後に浮かんだのは恐ろしくて仕方がなかったイザークだ。
(こんな呆気ない死に方するなら、ルーカスに無理を言って解呪してもらえば良かった)
息のできなくなったシンシアは肺に溜まっていた最後の空気を吐き出すと、そのまま意識を失った。
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