第30話
次の日、仮宮内に足を運べば、二人の話題で持ちきりになっていた。聞かないよう努めても、意識してしまっているせいで嫌でも耳に入ってくる。
昨日からシンシアの胸の中はよく分からない感情に苛まれいった。
チクチクとした痛みは次第に変化して苛立ちと焦燥感が綯い交ぜになったもやもやで埋め尽くされている。
極めつきは二人が廊下を仲睦まじく歩いている様子を部屋から目撃した時で、あの時はあんぐり口を開けたまま立ち尽くしてしまった。
(ユフェはこの世で一番も尊いとか言っていたけど。やっぱり猫よりも令嬢の方が一番なんじゃない!)
ユフェが部屋からいなくなって少しは寂しがっているのかあれからロッテに尋ねたところ、報告書は出してもなしのつぶてだという。
――イザーク様の薄情者!!
結局、猫よりも令嬢の方が大切なのだ。
(人間の女性と猫を比較するなんて間違っているけど。もう少し寂しがってくれたっていいんじゃないかな?)
仕事が終わって宿舎に戻ったシンシアはベッドに腰を下ろすと、枕を抱きしめて物思いに耽っていた。
「シンシア大丈夫?」
どうやら扉が開きっぱなしになっていたらしい。
顔を上げると、心配そうにロッテが入り口のところで立っていた。
いつものお仕着せではなく、レモン色のドレスでスカートの裾には可愛らしいチューリップ柄が刺繍されている。
今日のロッテは非番だったと頭の隅でぼんやり思い出していると、こちらに近づいてきたロッテにいきなり両肩を掴まれた。
「もしかして虐められてるの?」
「ち、違う。虐められてなんかないよ!」
びっくりしたシンシアは手を振って否定する。
最近自分で自分の感情がよく分からない。これはもしかすると人間から猫に、猫から人間に急激に変化したせいで、身体だけでなく精神的な負担もきたしているのかもしれない。
話すべきか迷いながらもシンシアは重い口を開いた。
「ロッテ……実はね、最近この辺りが変なの」
胸に手を当てて訴えると、ロッテが隣に腰を下ろす。
「胸の辺りが変って大病かもしれないわ。どんな症状なのか私に話してみて」
シンシアは小さく頷くと訥々と話した。
初めは真顔で相づちを打つロッテだったが話につれて様子が変わっていった。堪えるように唇を震わせ、終いには「もう駄目」と口にしてお腹を抱えて笑い出した。
「もう、なんで笑うの?」
口を尖らせてロッテを咎めると、彼女は目尻の涙を払いながら謝罪する。
「ごめんね。あなたがあまりにも可愛いことを言うから、つい」
「可愛いこと?」
訳がわかないシンシアはロッテの手に自身の手を重ねると揺すった。
一頻り笑ったロッテは居住まいを正すと真っ直ぐシンシアを見つめる。
「ユフェ様が側にいないのに、陛下が思いのほか寂しがってなくて悲しい?」
「ちょっとね。でも陛下にはフレイア様がいらっしゃるから」
皇帝陛下であるイザークは多忙だ。これまで忙しい中時間を割いてユフェと過ごす時間を作ってくれた。しかし、今度は仕事に加えて妃候補の相手もしなくてはいけない。
きっと寂しがる時間がないほど余裕がないのだとシンシアは思うことにしている。
「陛下とフレイア様が二人でいるのを見ると心が苦しくてもやもやしない?」
質問されてこれまでのことを思い返す。確かに、胸の辺りがざわついたりチクチクしたり変な感覚に襲われたのは二人が一緒の時だ。
シンシアがこっくりと頷けば、ロッテが重ねていたシンシアの手を握りしめる。
「あなたはフレイア様に嫉妬しているのよ」
「嫉妬? なんで私がフレイア様に嫉妬するの?」
別に自分は貴族の令嬢になりたいなんて願望は持っていない。嫉妬する要素がどこにもないので首を傾げると、ロッテが人差し指を立てた。
「それは、シンシアが陛下に恋してるからよ」
「…………はぁっ!?」
ロッテの突飛な発言に、シンシアは反応が遅れて素っ頓狂な声を上げた。
自分がイザークに恋をしている?
そんなものを抱いているだなんて狂気の沙汰、いや天変地異の前触れだ。
「ロ、ロッテ、気は、気は確か? だって相手はあのイザーク様だよ? 泣く子も黙る前に恐ろしくて失神してしまうあのイザーク様なんだよ? 常識的に考えて。自分のことを殺したくて堪らない相手を好きになると思う? いや絶対ならないから!」
動揺するシンシアはくわっと目を見開いて捲し立てる。
「恋に常識は通用しない。自分の気持ちに素直になって想いを伝えなければ後悔する時が必ずやって来る――ってこの間、貸本屋で借りた本に書いてあったわ」
そう言ってロッテは鞄から本を取り出してみせる。最近流行の恋愛小説のようだった。
「も、もうロッテったら私をからかわないでよ!」
「ふふふっ。からかったのはシンシアが先でしょ。びっくりさせないで。危うく欺されるところだったわ」
どうやらロッテはシンシアの悩みをただの冗談だと捉えたらしい。
それもそうだ。つい先日まであんなにイザークを恐れ、見つかりたくないと言ってロッテに助けを請うていたのだ。この心境の変化はあまりにも唐突過ぎる。
その後話題が王都の町並みに移り、ロッテは今日見てきた気になるお店の話を始めた。
シンシアは終始微笑んでいたが、実際は気も漫ろになって何を話したのかちっとも覚えていなかった。話し終えて「また明日」と手を振ると扉を閉める。
途端に両頬が熱くなるのを感じてシンシアは両手で押さえた。
(まさか、これが恋だなんて……)
今ならこの胸のドキドキが病気ではなく、恋から来るものなのだと理解できる。
(私……イザーク様が好き)
「でも……そんなこと、できないよ」
シンシアは俯くと、強ばった自分自身を抱きしめる。
イザークは聖女の自分を思い出す度、眉間に皺を寄せて殺気を帯びた恐ろしい顔つきになった。
情状酌量の余地は絶対にない。その証拠にルーカスが先日イザークの様子を報告してくれたばかりだ。
この気持ちが報われる日は永遠に来ない――。
シンシアは扉に背中を預けるとずるずるとその場に座り込み、絶望したのだった。
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