第29話
フレイアは柔和な微笑みを浮かべると風で靡く後れ毛を耳に掛ける。
「手伝ってくれてありがとう。虫が平気な方で本当に良かったわ」
「草むしりや菜園の手伝いをしたことがあるので芋虫くらいなんてことないですよ」
世間話をする感覚で他愛もない内容を話したつもりだが、フレイアは食いついた。
「まあっ! そうですの? 実はわたくしも屋敷で植物を育てていましたのよ」
生き生きと目を輝かせながら、フレイアは植物や虫について饒舌に語った。時折相づちを打つシンシアはその様子を見て微笑む。
すると、突然フレイアが声を呑んでじっとこちらを見つめてきた。
「あなた、とっても綺麗な顔立ちですのね。……なんだかどこかで見たことがあるような」
唸りながらフレイアはシンシアの顔をためつすがめつ眺めてくる。
もしかして聖女姿の時に会ったことがあるのだろうか。笑顔を貼り付けるシンシアの額には若干汗が滲む。
「ひ、人違いですよ。さあさあ、芋虫さんの避難も済みましたし、宮へ帰りましょう」
誤魔化すように手を叩いてフレイアを仮宮へと誘導する。と、前方からフレイアの名前を呼ぶ侍女が小走りでやって来た。
「お、お嬢様! フレイアお嬢様ぁ!!」
「まあ、ボニー。虫嫌いなのに庭園に来ることはなかったのですよ」
「でも、お嬢様お一人にするわけにはいきません……」
ボニーはぎこちない笑みを浮かべながら手を擦り合わせる。虫が怖いのか挙動不審でひどく怯えていた。
フレイアは腕を組むと口元に手を当てて暫し考え込んだ。やがて決意したようにこっくりと頷くと真顔でボニーに言った。
「ボニー、すぐに荷物をまとめて屋敷にお戻りなさい。良かれと思ってあなたをわたくし付きの侍女にしましたけど乳母のベスと交代してもらいます。もう歳だから迷惑は掛けたくないと思って交代させましたけれど、やっぱり彼女じゃないとしっくりきませんわ」
「そ、そんなぁ……私はまだやれます!」
「いくら屋敷から持ち込んだ食器だとしても毎回となれば目を瞑れません。ここにあるものはすべて陛下や陛下のお妃様のためのもの。万が一傷つけでもしたらどうするのです? わたくしは一介の妃候補にすぎないのですよ」
フレイアは厳しい口調で叱りつける。
ボニーは何度も懇願するものの、フレイアはまったく聞く耳を持たなかった。
地面にくずれおちてめそめそと泣いているボニーに、フレイアは優しく肩を抱き、穏やかな表情を向ける。
「安心してください。あなたの給金を減給にしたり、待遇を悪くしたりするつもりはありません。これ以上、ここの女官や侍女の方に心配と迷惑をかけたくないのです。それにずっとこんな調子ではあなたの身が持ちませんでしょう?」
一部始終を見たシンシアは、フレイアは品行方正で貴族令嬢らしい女性だと思った。
つり目がちな顔立ちのせいで気の強そうな印象を受けるが彼女は見た目とは違って寛大で情け深い。
フレイアがイザークの妃になればこの国はさらに安定した治世となるだろう。
そう思った途端、シンシアの胸の辺りがざわついた。
(……この気持ちは何?)
胸に手を当てたシンシアは今まで感じたことのない感覚に目を瞬いて首を傾げた。
その後、フレイアの世話役である女官が現れてシンシアは仕事に戻るよう言いつけられた。
玄関前をホウキで掃いているとフレイア一行がゆったりとした足取りで戻ってきた。通行の邪魔にならないよう、シンシアは壁際まで後ずさると顔を伏せる。通り過ぎるのを待っていると、彼女たちとは別の方向から足音が聞こえてきた。
フレイアは立ち止まると恭しく礼をして、鈴のような声を発した。
「お会いするのはお久しぶりですわね。皇帝陛下」
『皇帝陛下』という単語にシンシアの心臓が大きく跳ねた。鼓動は速くなり、背中に冷や汗が滲むのを感じる。
(どうしよう!? 裏方の仕事だからイザーク様に会うことはないと思っていたのに!!)
後宮では一番下っ端の掃除係の侍女なのでフレイアと同じ空間を共にすることはない。しかしよくよく考えてみれば、廊下の掃除や通行時は鉢合わせする可能性はある。
自分のうっかりに飽き飽きすると同時に正体がバレないか不安になる。
絶対ここで顔だけは上げるものか、と心に誓った。
そんなシンシアの心情などつゆ知らず、イザークは淡々とした口調で答えた。
「フレイア、また随分手荒な真似を」
嫌がらせなのか? とイザークは眉間に深い皺を寄せて尋ねるが、フレイアはどこ吹く風で破顔する。
「嫌がらせだなんて。わたくしはわたくしの務めを果たしたまでです。皇帝陛下、いいえお兄様はいつまで経っても妃を娶りませんから」
「時期というものがあるだろう」
威圧的な声色にフレイア以外の人間が縮み上がる。
フレイアは眉根を寄せると透かさず牽制した。
「お怒りにならないでくださいませ。わたくしの女官と侍女が怖がっておりますわ。お兄様にとって最良の時期とはいつですの? 大人しく待っていては老婆になってしまいます」
イザークはいつまで経っても妃を娶らない。娶らなければ次の世継ぎは生まれず、勇者の血筋である皇族は断絶してしまう。
イザークがなんと言おうともそれだけは回避したい家臣たちは帝国の安寧を想って強行したのだろう。
「宮殿は男ばかりで花がありません。実際問題、わたくしの入宮は嬉しいでしょう?」
反論しようとイザークは口を開き掛けるが結局、フレイアから目を逸らして何も言わなかった。やがて、小さく息を吐くとフレイアの隣に立ち、鋭い目元を和らげる。
「……好きにしろ。あまり邪魔をするなよ」
腕をフレイアに差し出してエスコートする。満足げに目を細めるフレイアは泰然と彼の腕に自身の手を絡めた。
「ふふ。積もる話はいっぱいありましてよ。お茶でも飲んでお話しましょう」
二人は女官と侍女を引き連れて宮の中へと入っていった。
辺りは誰もいなくなったが、シンシアは壁際で未だに硬直していた。
(お兄様? お兄様ってどういうこと? いやでも、フレイア様は名門貴族の令嬢だとロッテが言っていたし、幼い頃からの仲なのかも)
フレイアはイザークの威圧的な態度をものともせずに笑顔で会話している。肝が据わっているのか、それとも幼い頃から一緒に過ごし慣れてしまって平気なのか。
どちらにしても自分には到底できそうにない振る舞いだ。
そして去り際の二人を盗み見たが、イザークの瞳はユフェの時と同じように優しい色が滲んでいた。
――なんだ、猫以外にもあんな顔ができる相手がちゃんといるんじゃないか。
自然と深い溜め息が漏れたところで、シンシアは目を見開いた。
(……あれ、なんで私はがっかりしているの? これでいいのよ。だって私がいなくなった後、独り身のままだったらイザーク様は悲しい思いをする。でもフレイア様が側にいれば……彼女が慰めてくれる。
帝国が今と変わらず平和である未来を想像するとほっとする。
そのはずなのに、今度は胸の辺りがチクチクと痛い。また体調が悪いのだろうか。
(ヨハル様より先に死んじゃったらどうしよう)
お仕着せの下に隠している森の宴を握りしめると、シンシアは仕事を再開した。
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